第二十三話 紫苑の手紙
世間を騒がせた騒動が止み、人々の関心から離れていった頃、郵便受けに薄いクリーム色の封筒が差し込まれた。
切手の印影は小さな帆船のモチーフ。光哉は指先で封を切る。
指先が封筒の縁に触れた瞬間、淡い海風の香りが混ざり、胸の奥が微かに疼いた。
中から取り出した手紙は、紫苑の筆跡だった。
滑らかでありながら、どこか躊躇の残る文字は、彼女の成長とともに刻まれた時間を映す。
窓の外の光と、封を切る指先の温度。すべてが官能的な余韻を残し、光哉の胸を静かに揺らす。
手紙を開く前に、彼は深く息を吸い込む。
海の匂い——潮の湿った香りが窓から入り込む。
遠くで波が岩に当たる音が、微かなリズムを刻む。
光哉は自然と背筋を伸ばし、手紙の上に視線を落とした。
「光哉さん、元気にしていますか——」
その文字の最初の一行で、胸の奥に熱い感覚が広がる。
紫苑の声は書面に封じられているが、読み進めるたびに指先や肩の感覚に伝わる。
淡い官能を帯びた風が、彼の心をそっと撫でる。
彼女は手紙の中で、海辺の町での日常を描きながら、自らの変化を告げていた。
早朝の海岸を走るときの砂の感触、潮風に揺れる髪の輝き、夕陽に染まる窓辺で読む本の温もり——
すべてが、官能的な美の断片として光哉の意識に浸透していく。
手紙を通して、紫苑は一人の女性として立ち上がっていた。
光哉はふと、過去に彼女を抱いた夜を思い出す。
抱き合った手の温度、吐息が混ざった瞬間の甘い緊張、夜の闇に溶けるような密やかさ——
身体を重ねる、その前後の時間に漂う、時間と心理の深み。
その記憶が、文字と海の匂いと混ざり合い、胸の奥に柔らかく疼く。
紫苑は手紙の終わりに、未来への決意を綴っていた。
「私の人生は、私自身の光を探す旅です。けれど、光哉さんがくれた時間は、ずっと私の中で輝き続けます」
その文章を読むたびに、光哉の胸に小さな光が灯る。
冬の冷たさも、東京の雑踏も、この瞬間だけは海の温もりと潮の香りに溶け、静寂を残す。
手紙を握る指先に力を込め、光哉は窓の外の波間に目を向ける。
揺れる光が水面に反射し、彼の胸の奥で疼いていた感覚を静かに包み込む。
海辺の町の空気は艶やかで、妖艶さを帯びていた。
遠くのヨットの帆が白く光り、潮風が肌をくすぐる。
光哉は椅子に腰かけ、手紙を膝の上に置いたまま、深呼吸する。
指先の温もり、紙の触感、潮の香り、波の音——
すべてが混ざり合い、暖かい余韻として、彼の心に刻まれた。
手紙は一枚の紙に過ぎない。
だが、その文字が描き出す世界は、光哉にとって官能的な愛の記憶と、人生の光を示す導きであった。
彼はゆっくり立ち上がり、窓の外に視線を移す。
海の向こうに広がる水平線は、まるで未来を示す光の帯のようで、胸の奥に静かな希望を宿す。
光哉は手紙を胸に抱え、窓辺に座り込む。
潮の香りと冬の光に包まれながら、心の中で微かに笑みを浮かべる。
「紫苑……君は、確かにここにいたんだな」
その囁きは、街のざわめきに消え、しかし彼の胸の奥に、恋と情念の香りに満ちた光を残した。
夜の帳が落ちる前、光哉はそっと手紙を机に置き、窓の外の海を見つめる。
紫苑の余韻が、未来への光と重なり、彼の心を静かに温めていく。
冬の寒ささえも、その中で淡く妖艶に光る世界の美しさの一部となり、胸の奥で疼きながら、彼の生きる意志を照らしていた。




