第十六話 渋谷の焔(ほのお)
夜の渋谷ヒカリエホール。
光の粒がガラスの壁に反射し、街のざわめきをそのまま内部に映していた。
アートイベント〈Re:Birth Tokyo〉。テーマは「都市の再生」。
光哉はスポンサーの一人として、白いグラスを指に挟み、会場のざわめきを遠くから見つめていた。
背後のスクリーンでは映像作家たちの作品が次々と流れ、人々は歓談と笑い声を交わす。
だが、光哉の心にはどこか冷たい風が吹いていた。
京都での凛音との静かな夜を思い返す。
あの白梅庵の月の光と、いま目の前のネオンの光。どちらも美しい。だが、前者は“息づく光”であり、後者は“燃え尽きる光”だった。
そんな時だった。
会場の明かりが唐突に落ちた。
ざわめきが止む。
次の瞬間、低く響くベース音が床を震わせ、赤いスポットが一点、壇上を照らした。
そこに、ひとりの女が立っていた。
銀に近いブロンドが光をはじく。裸足。黒いレザーのワンピース。
視線が鋭く、唇は挑発的に歪んでいる。
彼女――蘭。
予定にないアーティストだ。
運営が慌てて動く気配があったが、光哉はそれを制止した。
彼女の放つ熱が、空間そのものを変えていた。
布を裂く音、塗料が飛び散る音、息の音。
彼女はステージ上に白布を広げ、自らの指で絵の具を塗り始めた。
赤、黒、金。
塗るというより、叩きつける。
手のひらで、腕で、髪で、全身で描く。
観客は息を呑み、言葉を失っていった。
その動きは、まるで生命の鼓動そのものだった。
彼女の体の軌跡が光哉の目にはひとつの詩のように見えた。
破壊と創造。拒絶と渇望。
そのあまりの“生”の密度に、光哉の胸の奥が熱を持った。
パフォーマンスが終わった瞬間、彼女は観客に背を向け、舞台袖に姿を消した。
拍手が起きるよりも先に、光哉の足が動いていた。
通路を抜け、裏口へ向かう。
非常灯の下に、彼女がいた。
白い息を吐きながら、ペットボトルの水を一気に飲み干している。
視線がぶつかる。
蘭は笑った――どこか、挑むように。
「スポンサーさん? 止めなかったのね。ああいうの、普通は怒るでしょう?」
「止める理由がなかった。あなたが描いていたのは、ただの絵じゃなかった」
「……あれは、愛の亡霊よ。燃え尽きる瞬間がいちばん綺麗だから」
言葉が熱を帯びていた。
彼女の喉の動き、濡れた髪先、揺れる指先――どれもが生々しく、危うい。
光哉の心に、理性と本能がせめぎ合う音がした。
「あなたの名前は?」
「蘭」
蘭は肩をすくめ、少し笑った。
それから、彼の胸の前に立ち止まった。
距離が近い。
彼女の呼吸が、空気を震わせて頬に触れた。
「ねえ、あなた。きれいに生きすぎてる。そんな顔してる人間、いつか自分で割れるわ」
その声には、囁きと刃のあいだのような音色があった。
光哉は黙って彼女を見つめた。
蘭は一歩、近づいた。
香水ではない。彼女自身の体温の匂い――金属のようで、果実のようでもある。
その香りが、光哉の深部に火を点けた。
「あなたの中の、“衝動”を見せて」
蘭の言葉が光哉をざわめかせ、夜の渋谷もまた、ざわめいていた。
二人は無言のまま、会場を出る。
車の列、街の灯り、人々の声。
どの音も遠く、世界がふたりだけの色に染まっていくようだった。
ホテルのロビーに入った時、蘭は言った。
「愛もルールも壊せないなら、生きてる意味なんてないわ」
その言葉が、すべての理性を断ち切った。
部屋の扉が閉まる音が、まるで絵筆がキャンバスを裂くように響いた。
「芸術って、結局、裸になることだと思わない?」
「……精神の話か?」
「どっちでもいい。どちらでも、同じこと」
言葉が終わる前に、彼女の手が彼のシャツを掴む。
糸が裂ける音。
呼吸が交わる。
月明かりが窓辺に落ちる。
光と影の境界で、ふたりは沈み込んでいく。
互いの存在を確かめるように、触れる。
触れた先から熱が走り、沈黙が崩れていく。
唇が、首筋が、息が、ひとつの旋律になる。
その夜の光哉は、理性の仮面を外し、ただ“生きる”ことに身を委ねた。
窓の外には、都市の光が滲んでいる。
蘭はその光を背に、静かに目を閉じた。
光哉の胸に残るのは、焼けるような熱と、崩れていく輪郭。
彼女の存在は炎のように美しく、そして儚かった。
夜が明けるころ、蘭はいなかった。
鏡には、赤いリップで描かれたひとつの言葉だけが残されていた。
――「破壊と再生」
光哉はその文字を指でなぞりながら、胸の奥に浮かぶ痛みに気づいた。
それは失う痛みではなく、何かが生まれ直すような痛み。
彼は静かに窓を開け、渋谷の朝を吸い込んだ。
街は灰色と金の境界で揺れ、遠くでカラスが鳴いていた。
破壊のあとに見える光がある。
そのことを、彼はようやく理解していた。




