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第十五話 白梅庵の夜

 秋が深まる京都の夜は、ひとの心を沈め、そして赦す。

 鴨川を渡る風が、金木犀の香をかすかに運び、遠くの寺の鐘がひとつ、ゆるやかに時を告げていた。

 光哉は鴨川沿いの小径を歩いていた。

 東京での喧噪と、紫苑との再会で燃え尽きたような日々。その余韻を静かに鎮めたくて、無意識のうちにこの町へ戻ってきた。

 足元には石畳。川面に映る灯が、ゆらゆらと夜の底で揺れている。

 その光を見つめながら、彼は思う。

 ――人は、なぜこんなにも「静けさ」を求めるのだろう。

 白梅庵。

 暖簾の端に秋風が触れた。

 老舗旅館の門をくぐると、杉の香とほのかな線香の匂いが混ざりあう。

 その香りに包まれた瞬間、光哉の胸の奥に、遠い記憶が蘇った。

 幼いころ、母が焚いていた沈香。

 温かな手に包まれて眠った夜。

 彼は知らず、目を伏せた。

「ようこそおいでやす」

 柔らかな声に顔を上げると、灯の中にひとりの女が立っていた。

 凛音――白梅庵の若女将。

 黒髪を低くまとめ、灰桜の着物に白い帯。装いに華はないが、その佇まいはどこまでも美しい。

 彼女が一歩近づくだけで、空気がやわらぐ。まるで静けさそのものが形をとって現れたようだった。

「お疲れのようですね」

 その声に、光哉は言葉を返せなかった。

 ただ、微笑みに導かれるように、奥の座敷へと進む。

 部屋は川沿いに面し、障子越しに月の光が差していた。

 庭の紅葉が風に揺れ、影が畳の上を滑る。

 凛音が茶を淹れる手の動きは、ゆるやかで、どこまでも無駄がない。

 その所作の一つ一つが、彼の張りつめた心をほどいていく。

「ここのお茶はね、雨の夜に摘むんです」

 湯気の向こうで、凛音が小さく笑った。

「雨の粒が茶の葉を洗ってくれる。だから、苦みがやさしくなるんですよ」

 光哉は湯呑を手に取る。

 舌の上に広がる微かな渋みと香ばしさ。

 その奥に、雨の気配と土の匂い。

 この一杯の中に、季節も、時間も、ひとの手も、すべてが溶け込んでいる気がした。

――こんな静かな幸福が、まだこの世界にあったのか。

「東京の風は、少し、尖っていますね」

 凛音の声がふとした寂しさを含む。

「わたし、あの街に夫を置いてきました」

 光哉は黙っていた。

 問い返すでもなく、驚くでもなく。

 ただその言葉の奥にある孤独を、風のように受け取った。

 凛音は続ける。

「別れたわけではありません。ただ……、同じ空気を吸えなくなっただけ」

 その言葉の響きは、光哉の胸の奥の何かを静かに震わせた。

 ――自分もまた、同じなのかもしれない。

 愛を重ね、別れを知り、それでもなお誰かを求める。

 凛音は部屋を後にした。ひとりの孤独が光哉の身に染みる。ひとりになると、紫苑のことを思い出してしまう。

 日の気配が去り、旅客の訪れも夕餉も落ち着いた頃、ドアが開いたーー凛音だった。

「ご不便ないでしょうか」

 凛音が少し艶っぽい声で聞いた。

「少し寂しくなっていたところです。どうぞ入ってください」

 月明かりが部屋に差し込む。

 光哉は、凛音の横顔を見つめた。

 蝋燭の炎が揺れるたびに、睫毛の影が頬にかかる。

 その静かな美に、心が吸い込まれていく。

 「……月が、きれいですね」

 凛音の声が細く響く。

 障子を開けると、満ちた月が川面に映っていた。

 光と水が溶けあい、風が紅葉を運ぶ。

 世界が、呼吸をしている。

 ふたりは縁側に並んで座った。

 言葉はなく、ただ同じ景色を見つめる。

 凛音の指がそっと光哉の手に触れる。

 温かい。

 そのぬくもりは、過去の痛みを溶かすようだった。

 光哉は思わず、彼女の肩に手を置いた。

 凛音は何も言わず、静かにその手を包み返す。

 夜風が二人の間を通り抜け、金木犀の香りを散らした。

 月が雲に隠れた瞬間、世界がふっと暗くなり、その闇の中で、互いの存在だけがはっきりと浮かび上がった。

 ふたりは確かに、今ここに息づいている。

 やがて夜が深まる。

 凛音は部屋の灯をひとつ落とした。

 闇がやわらかく包みこみ、遠くの川音が微かに響く。

 ふたりは寄り添い、言葉を持たぬまま、

 ただ“在る”ということの温かさを感じていた。

 月が再び顔を出すころ、

 光哉の胸には、不思議な静けさが宿っていた。

 凛音の呼吸が、まるで大地の鼓動のように伝わる。

 ふたりはうっすら濡れた瞳で見つめあった。畳の香りの中、ふたりの熱気が互いを抱きしめる。凛音の甘美な香りが立ち上ぼり、光哉に染み込んでいく。光哉の筋肉的な肌触りが凛音を暖める。

 ふたりの穏やかで甘美な夜が熱を帯びていった。

 彼は悟る。

 この静かな愛が、嵐のような恋よりも深く、真実に近いということを。


 夜明け前の空。

 東の空が淡く染まり、鳥の声がひとつ響く。

 凛音は静かに言った。

「わたしは、ここにいます」

 その言葉が、光哉の胸に静かに沈み、

 波紋のように広がっていった。

 彼はその言葉を受け止めながら、

 初めて“愛の静けさ”を知ったのだった。

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