第十三話 月下の秘密
夜はゆっくりと都市を包み込み、光哉のペントハウスを銀色の光で彩った。
窓の外、東京の街灯が遠く瞬き、下界の喧騒は遥か彼方の音となって溶ける。
部屋の奥、柔らかい間接光に照らされたソファの上で、紫苑は静かに座っていた。
腰から肩にかかるシルクの布が肌に寄り添い、月光がその艶を際立たせる。
光哉は背後から彼女の姿を見つめる。
香水の香りは未だに、沙羅の残像を伴いながら紫苑の周囲に漂っていた。
その香りに、彼の胸の奥の疼きが不意に揺れ、指先が机の縁を押さえずにはいられない。
「……光哉さん」
紫苑の声は低く、控えめだが、どこか震えていた。
彼女の瞳の奥に、今まで見せなかった複雑な光が揺れる。
その視線を受け止め、光哉はゆっくりと歩み寄る。
距離は近く、しかし触れず、ただ互いの存在を意識しあう艶やかな間合いだった。
紫苑の手が小さく震え、膝の上で重ねられる。
光哉は視線を逸らさず、ゆっくりと呼吸を整える。
香りが、彼の記憶の扉を叩く。
沙羅の影――かつて愛し、そして手放した女性の香りが、紫苑の選んだ香水の残り香と重なった瞬間、二人の間に言葉を超えた緊張が生まれる。
「……知ってしまったの」
光哉の声は静かに、だが確実に部屋の空気を震わせる。
紫苑は小さく頷き、目を伏せた。
その仕草が、かつて沙羅が見せた繊細な戸惑いと重なり、光哉の胸の奥で疼きが走る。
光哉は一歩前に進み、影のように紫苑の横に立つ。
肩越しに、彼女の吐息のリズムと香りが絡み合い、部屋の中に艶やかな静謐が漂う。
過去の影、現在の愛、そしてこれからの予感――三つの層が、互いに溶け合うように空間を満たす。
紫苑の手がほんのわずかにソファの縁を握り直す。
その小さな動作に、光哉は息を詰める。
触れずとも、距離の中にある温度、香り、視線の交差――それだけで心身が痺れるように疼く。
月光がシルクの光沢を浮かび上がらせ、柔らかく揺れる布が、彼女の背中や肩の輪郭を際立たせる。
「沙羅さんの……ことを」
紫苑が小声で言いかける。
光哉は頷く。
彼の目は、過去を否定せず、現在を遮らず、ただ紫苑の心の奥に触れようとする光を帯びる。
香りは記憶の糸を手繰り寄せ、過去の夜の余韻を現実に落とし込む。
紫苑は呼吸を整えながら、膝を抱き、視線を落とす。
その姿勢が、彼女の微妙な感情の揺れを示していた。
光哉は無言で、ただ側に立つ。
手を伸ばせば届く距離、しかし決して触れない距離が、濃密な緊張を生む。
香り、光、影、呼吸――五感を通じて、二人の存在は互いに浸透していく。
ふと、紫苑が小さな紙片を取り出す。
そこには、沙羅と光哉に関する古い記録があった。
彼女の指先が震え、紙の角を押さえながら目を細める。
その動作一つで、光哉の記憶は一層鮮明に蘇り、過去の愛が現在の空気を濃密にする。
光哉は背筋を伸ばし、影のように彼女の横顔を見守る。
その視線は暖かくもあり、疼きにも満ち、月光の下で二人の世界を妖艶に照らす。
香りが絡み合い、記憶の光が揺れるたびに、胸の奥でわずかな熱が広がる。
紫苑は紙をそっと閉じ、視線を光哉に向ける。
微かな微笑みに、過去と現在の境界が揺れ、部屋の中に恋と情念の香りが漂った。
光哉は小さく息を吐き、肩越しに視線を逸らすことなく、ただ存在を共有する。
過去の影を知りながらも、互いの間に新しい空気を築こうとするその時間が、二人の身体に、言葉では語れない濃密な熱を滲ませるのだった。
窓の外で、夜風が高層ビルをすり抜け、ペントハウスに微かに冷気を運ぶ。
しかし室内の熱は、記憶と香りの重なりで冷めることなく、月光の下で揺れるシルクの布と息遣いが、深い心身の疼きを呼び覚ます。
紫苑が立ち上がり、紙片を静かにテーブルに置く。
光哉は視線を逸らさず、紫苑の手をつかんだ。
香りが残る部屋には、過去の影と現在の愛が混ざり合い、月下の秘密が二人だけの世界を照らし、静かに、しかし鮮烈な印象を胸に刻んだ。




