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第十ニ話 香の記憶

 夜の東京を一望するペントハウスの窓辺に、光哉は静かに佇んでいた。

 月光がガラスの壁を銀色に染め、部屋の奥に置かれた琥珀色のワインボトルが淡く揺れる。

彼の指先は机の上の黒檀製の香水瓶に触れ、蓋を開けると、ほのかに甘く、懐かしい香りが立ち上った。

 その香りに、胸の奥がざわついた。

 微かに残る記憶の欠片――沙羅の香り。

 長い髪の間からふわりと漂ったあの夜の香り。

 嫋やかで、妖艶で、そして切なかった。

 扉の向こうで、静かに紫苑が歩み寄る。

 薄いシルクのブラウスの袖口が光に反射し、指先がかすかに震えていた。

 彼女の首筋に、ほのかに香るのは――まさしく沙羅の選んでいた香りだった。

 偶然か、それとも無意識の真似か。

 光哉は一歩下がり、影に紛れるようにしてその香りを深く吸い込んだ。

 鼻腔をくすぐる香りの甘さが、心の奥で眠る感情を呼び覚ます。

 身体が無意識に疼くような感覚に、気付かぬふりをしながらも、指先は机の角に力を込めた。

 紫苑は彼に気づくと、わずかに肩をすくめ、控えめに微笑む。

 その微笑みの影で、彼女自身の戸惑いが隠せなかった。

「……その香り……」と光哉は呟き、声の震えに自分でも驚いた。

 紫苑は無言で、目を伏せる。

 彼女の存在そのものが、過去と現在を重ね、部屋を艶やかに揺らしていた。

 光哉は歩み寄る

 シルクの裾に触れることなく、ただ近づくだけで、部屋中の空気が熱を帯びる。

 香りの重なりが、過去の影と今の現実を混ぜ合わせ、視界の端に幻の沙羅の姿をちらつかせる。

 光哉は思わず息を吐き、指先の力を緩め、胸の奥にわだかまる疼きを押し込む。

「……どうして、同じ香りを……」

 言葉は低く、囁くように零れた。

 紫苑は唇を噛み、目を逸らす。

 その沈黙が、言葉よりも強く二人の距離を縮めた。

 窓の外で、風が高層ビルの谷間をすり抜ける。

 わずかな揺れがガラスを震わせ、香りが渦を巻くように広がった。

 光哉は腕を軽く上げ、肩越しに部屋の隅を見渡す。

 壁際に並ぶ高級な書物と陶器の間に、かすかな金の光――それは沙羅が愛した小物たちだった。

 過去の記憶が、今ここにいる紫苑の香りと重なり、光哉の感覚を濃密に染め上げる。

 胸の奥で、何かが震える――喜びでも、後悔でもない、ただ疼くような感覚。

 目の前の女性の手首や肩、頬の輪郭が、まるで彼の記憶の中に溶け込むように鮮やかに感じられる。

 光哉はふと、自分の掌を紫苑の肩の近くに置きたくなる衝動に駆られる。

 触れることはしない。ただ近くで、香りを共有し、存在を感じたいだけだった。

 その願望が、部屋の奥で燻るように熱を帯び、艶やかな夜の空気に混じる。

 紫苑は小さく息を吸い、ゆるやかに手を組み替える。

 その仕草のひとつひとつが、過去の沙羅の姿を照らし、光哉の意識を揺さぶる。

 彼はその光景を、視覚よりも香りと体温で感じ、胸の奥の疼きを隠す術もなく堪能した。

二人の間に言葉はほとんどなく、ただ香りと微かな呼吸だけが交錯する。

 過去の愛の残滓が、今の愛の香りと混ざり合い、深く心と身体を刺激する。

 光哉は静かに背筋を伸ばし、窓の外の夜景に視線を移す。

 煌めく街の光が、部屋の中で揺れる香りと絡み合い、まるで都市そのものが情念に染まっているかのようだった。

 紫苑がそっと息を吐き、部屋の中央に進む。

 光哉はその影を追い、香りの濃密さに身を委ねる。

 触れることなく、ただ互いの存在を確かめ合う夜。

 その瞬間、過去と現在が交錯し、香りの記憶が二人を結ぶ紐となる。

 やがて、紫苑は小さく微笑み、かすかな足音を残して部屋を去る。

 光哉は残った香りに目を閉じ、胸の奥で微かに疼く感覚を抱きしめた。

 その香りは、過去の影と今の愛をつなぎ、次に訪れる夜を予感させる――光と影、官能と記憶が交錯する都市の夜の物語のように。

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