第十一話 ガラスの城
夜の東京は、まるで光哉の呼吸に合わせて脈打っていた。
高層ビルの群れが街路を照らし、ネオンの海が足もとに揺れる。
硝子越しに見下ろす街は、ひとつの巨大な生き物のようだった。
光と金属が絡み合い、欲望の鼓動を刻む。
その中心に、彼の名を冠した塔がそびえ立つ。
――光栄グループ本社。
透き通るようなガラスの壁面に、無数の光が映り込み、星のように瞬いていた。
完成披露の夜。
光哉は最上階のラウンジで、ひとりグラスを傾けていた。
琥珀色の液体が、照明を受けて微かに揺れる。
音楽は静かに、ワインレッドの闇に沈んでゆく。
彼の周囲には、成功の匂いが漂っていた。
だがその香りは、どこか甘く、重く、触れれば崩れそうなほど脆い。
背後のガラスに、女の姿が映った。
長い黒髪、白い肌、真珠の耳飾り。
その女は、ゆっくりと近づいてきた。
「おめでとうございます、光哉さん」
声の主は、彼が最近、広報室に迎えた女性――玲奈だった。
玲奈は入社して間もない頃から、光哉が語る「都市の光」の哲学に深く共鳴していた。
誰もが効率と利益を語る中、彼の言葉だけが“人間の内なる輝き”を見つめていたからだ。
彼女自身もまた、かつてその光に焼かれたひとりだった。
夢を追い、夢を失い、それでもなお美を信じてここにいる。
玲奈の瞳は、夜の街を映しながら、どこか光哉の奥底を探るように揺れていた。
彼女は、静かな艶を纏っていた。
「まるで……天空の宮殿のようですね」
玲奈はガラス越しに夜景を見上げた。
その横顔に、光哉は一瞬、紅音の面影を見た。
「城じゃない」
「え?」
「檻だ。光を閉じ込めるための」
玲奈は微かに笑い、グラスを差し出した。
「それでも、美しい檻です」
その言葉に、光哉の心がわずかに震えた。
紅音が生きていた頃、同じ言葉を口にした夜があった。
“それでも、美しいわね、光の檻って”
その記憶が、玲奈の声と重なって、胸の奥で静かに疼いた。
グラスの縁が触れ合い、乾いた音が空気に溶けた。
その響きが、どこか遠くの記憶を呼び覚ます。
――嵐の夜の、白百合の香り。
光哉は、玲奈を見た。
唇の赤が、照明に溶けて艶やかに光る。
その瞬間、心の奥で何かが軋む音を立てた。
玲奈はゆっくりと近づき、彼の胸元のネクタイを指先で整えた。
指がかすかに震える。
その震えに、彼は息を止めた。
「あなたの光は、誰のためにあるんですか?」
玲奈の声が、囁きのように空気を震わせる。
答えは、喉の奥で溶けた。
光哉はグラスを置き、彼女の手首を掴んだ。
玲奈の瞳がわずかに見開かれる。
恐れではなく、熱に似た光。
そのまま彼は、彼女を抱き寄せた。
香水の香りが、胸の奥で爆ぜる。
髪が頬をかすめ、呼吸が混ざる。
それは、愛ではなかった。
けれど、生きていることの確かさがそこにあった。
街が光を増してゆく。
その眩しさが、ふたりの輪郭を溶かしていった。
翌朝。
ガラスの城は、朝日を受けて白く輝いていた。
玲奈の姿はもうなかった。
代わりに、デスクの上に一枚のメモが置かれていた。
“闇の中の光は美しいのですね”
光哉はその文字を見つめ、
指先で紙の縁をなぞった。
窓の外では、通勤の人々が蟻のように行き交っていた。
誰もが、自分の小さな光を抱えて生きている。
彼はそれを、美しいと思った。
ガラス越しの太陽が、彼の頬を撫でるように照らしていた。
それは祝福ではなく、ただ世界が呼吸している証のようだった。
光哉は、ゆっくりと目を閉じた。
風が吹き抜け、ガラスの城がきらめいた。
それはまるで、この世界そのものが、
彼の孤独を慰めるように輝いていた。




