第十話 嵐の夜、再会
ガラス越しに、雷が走った。
高層ビルの群れが光の筋をまとい、雨粒が硝子を叩くたびに、
街全体がかすかに震えているようだった。
光哉は、窓際の革張りのソファに身を沈め、氷の溶けたグラスを無言で見つめていた。
琥珀色の液体が、照明に揺れて金の翳を落とす。
指先に残る煙草の香りが、夜の湿気と混じって甘く漂った。
時計の針がひとつ音を刻んだ、そのとき――玄関のチャイムが鳴った。
彼は応えなかった。
だが、次の瞬間、ドアが静かに開く音がした。
反射的に顔を上げた光哉の瞳に、白い光を背に立つ女の影が映った。
「……久しぶりね」
その声は、かつて夢の中で幾度も聞いた響きだった。
沙羅――。
かつて父の妻であり、彼が“禁断”を知った女。
彼女は、夜に溶けるような黒のコートを羽織っていた。
雨に濡れた髪が頬をはらい、唇の端にかすかな震えがあった。
光哉は立ち上がることもできず、ただ、その場で息を呑んだ。
沙羅は何も言わず、コートを脱いだ。
濃藍のドレスが月光を吸い、肩口から覗く肌が、冷たい空気を受けて微かに粟立つ。
香がひと筋、空間を流れた。
――あの夜と同じ香水。
白檀に似た、記憶を焦がす香り。
「雨に濡れちゃったわ」
彼女がそう言って笑うと、光哉の中の何かが音を立てて崩れた。
彼はゆっくりと歩み寄り、タオルを取った。
その布を沙羅の髪に当てる。
湿った髪が手のひらに貼りつき、体温が伝わる。
拭うたび、彼女の呼吸が揺れた。
「まだ、そんな優しいことをしてくれるのね」
沙羅の瞳が、彼の胸元に落ちた。
ネクタイを掴む指が、かすかに震えている。
次の瞬間、布地の擦れる音とともに、距離がふっと消えた。
唇が触れる。
だが、それは懐かしさでも、情熱でもなかった。
ひどく静かな、再会の確認。
雨音が強まり、雷鳴が窓を震わせる。
二人の影が、硝子の上でひとつに滲んだ。
時間が流れているのか止まっているのか、分からないほどの沈黙。
光哉は沙羅の肩を抱いた。
濡れた髪の香りが胸を刺すように懐かしい。
沙羅の指が、彼の頬をなぞる。
その指先が、まるで確かめるように動く。
「あなた、少し痩せたわね」
「……そうかもしれない」
二人の視線が絡んだ。
沈黙の中に、幾千の言葉があった。
それでも、誰も語ろうとはしなかった。
彼女が顔を上げた瞬間、光哉はその頬を両手で包んだ。
唇が、ゆっくりと重なる。
雨の冷たさと、肌の熱がせめぎ合う。
窓の外で風が唸り、東京の夜が一瞬、真昼のように光った。
――この夜を抱きしめたい。
彼の手が彼女の背を辿る。
ドレスの布地がわずかに落ち、肩が露わになる。
そこに触れた指先が、わずかに震えた。
沙羅のまつ毛が揺れ、唇から小さな息が漏れた。
嵐がすべての音を呑み込む。
光と影の狭間で、二人の輪郭が溶け、夜の深みに沈んでいった。
目を覚ますと、窓の外は静かな灰色の朝だった。
雨は上がり、濡れた街が鈍い光を返している。
沙羅の姿はなかった。
ただ、テーブルの上に一輪の白百合が置かれていた。
その花弁には、昨夜の雨がひとしずく残っていた。
光哉はグラスの中のすっかり溶けた氷を見つめた。
溶けた水面に、彼の顔がぼやけて映る。
あの夜と同じように、彼は何も言わずに、ひと息でそれを飲み干した。
冷たさが喉を滑り落ち、胸の奥で、静かに熱へと変わっていった。
窓を開けると、街の空気が、花と雨とアスファルトの匂いを混ぜて流れ込んだ。
そのすべてが、この世界の美しさの断片のように思えた。
――世界はこんなにも香っている。
光哉は目を閉じ、濡れた白百合の香りを、ゆっくりと吸い込んだ。




