5 聖女トティータ=シュールベルト
トティータ=シュールベルトは今日もご機嫌だった。
昨日は聖騎士グリワムと共に下町に出掛けたのだ。これで一層彼との仲は深まり、周りもさらに聖騎士グリワムは聖女トティータの求婚だけを待っているのだとの理解を深めたことだろう。
トティータはグリワムの全てを気に入っていた。
グリワムの飛び抜けて美しい容姿、鍛え抜かれた肢体、並ぶべくもない大国コカソリュン帝国の名家オーダナイブ家の血を引くその血筋、立ち居振る舞いは当然としてトティータを優先する態度。だが、そこに見え隠れする騎士のプライド。
ただ媚び諂ってくるだけの他の聖騎士とは違う、そんな所も含めてすべてが堪らなかった。
ー早く求婚して、確実にわたくしのものとしてしまいたい…
ふふっと笑みを作りながら、鍛え抜かれた最高の騎士が自分の前に跪き、求婚の儀を受け入れる姿を想像すると背筋がぞくぞくするほどだった。
「トティータ様、昨日はグリワム様と町へお出かけになられたのですよね?いかがでした?わたくしぜひお話を聞かせていただきたいですわ。」
朝の日課である祈りの間での聖水生成中、取り巻きの聖女が問いかけてくるのにトティータはまだ瓶に半分しか満たされていない聖水瓶を握りながら「そうね。それはそれはとても楽しい体験でしたわ」と微笑んだ。
「彼、グリワム様は教国の街の様子なんてご存知ないと思っておりましたのに、しっかりとわたくしをエスコートしてくださいましたの。多分事前にすっかりお調べになられていたのね。わたくしの為に…」
「まぁ」
トティータの言葉に聖女らはうっとりと頬を染めた。しかし1人の聖女がずいと身を乗り出してきた。
「ですが聖女がここを出る許可が得られるなんて、わたくし存じませんでしたわ。トティータ様はどのようにして大教皇様の許可を得られましたの?わたくしも自分の聖騎士と外出を楽しんでみたいですわ」
そう言って不躾な視線を向けてくる聖女にトティータは眉を下げた
「御免なさい。おじさま…あ、いえ、大教皇様はわたくしが幼い頃から見知った方でしたし、よく我が家を訪ねていらしたの。わたくしの事もよくご存知であられたから許可を下さったのだと思いますわ。」
「そ、そうなんですの?」
自分が大公家出身の者だから我儘が通るのだと暗に答えれば、その聖女は目を白黒させて引き下がった。ここにいる聖女はもと平民や貧しい下級貴族の娘しかいない。聖女として選ばれたところで多少貴族令嬢らしい皮を被ってはいるが所詮はその程度。同じ聖女とはいえ大公家の姫であるトティータと同じ境遇が与えられると思っている方がおかしいのだとトティータは内心で呆れた。
トティータは本当は聖女になどなりたくはなかった。
聖女は確かに敬われ大切にされ国の宝と称えられてはいるが、大貴族や王族の中から聖女が出たことはほとんどない。聖女とは貧しい身分の女子から選ばれる。というのが上位の位置にいる者達の認識だった。仮に大貴族の娘が白珠を光らせたとしても15歳になるまでにはその能力の有無にかかわらず資格なしとして白珠を返却させるのが常で、自分もそうなるだろうと聞かされていたのに、14歳になった頃、大教皇が大公家を訪れ大聖女の位がそろそろ空くのでトティータに大聖女となってほしいと申し入れてきたのだ。
聖女の存在を下に見ていたトティータは当然大聖女だろうとなんだろうと断って然るべき話だと考えていたが、父親である大公は違った。多額の金銭を提示され勝手にトティータを聖域に入れると約束してしまったのだ。
ー全く、お父様は本当にお金にだらしがないのだから
前国王の弟だった大公シュールベルトは派手ずきの浪費家で、トティータが13歳になる頃には大公家の資産をかなり食い潰してしまっていたのだが、トティータは大公家の財政状況までは知らなかった。
そうして、トティータが聖女となることを知らされた後の周りの反応はトティータを酷くイラつかせた。
『大公家の姫が聖女様に?』
『なんということでしょう?おかわいそうにトティータ様』
『大公閣下も無慈悲なことをなさいますな』
ワケ知り顔で哀れみの視線を向けてくる貴族達の顔に14歳のトティータはショックを受けた。
だが、入教前に大教皇から個別に聖女について教えられ、聖騎士の存在を知り、そして、秘密裏に今の大聖女本人と会うことによってトティータは考えを改めた。
ーわたくしは聖女となり、そして大聖女の地位を必ず手に入れて見せますわ。
そう決め、ここにきて聖女として5年間が過ぎたのだった。
戸惑うこともあったが、聖女の暮らしは意外と悪くはなかった。聖教会にて与えられた個室は大公家と比べるべくもないほど小さく、付き人も2人しか付けられない等、ひどく貧相で身ずぼらしいものだったが、聖騎士の存在は話に聞いていた以上にトティータを魅了した。
貴族や王族の主催する夜会でも見たことがないような美々しい最高級の騎士達が、誰も彼も跪いてトティータに侍ってくるのだ。
甘い言葉を囁き、あなた様のお気持ちを頂けませんかと愛を請う。しかも主導権はトティータら聖女のもので、どれほど強く美しい騎士でもこちらの気持ちのままに動かされる。愛を与えるのも奪うのも自分の心一つで翻弄されている聖騎士達を見るのは、今までに感じたことのない喜びをトティータに齎した。
また聖女らにしてもいままで周りにいた高位貴族の子女らとは違い、皆トティータを憧れの目で見て慕ってくる。聖女の世話に明け暮れている教会員や信者は言わずもがな聖女トティータを心から讃えているのも悪くはなかった。
そうして聖女の暮らしにトティータがすっかりなれた頃、大教皇から聖アルミア教国の聖騎士サルートを紹介された。
『ゆくゆくはそなたの求婚候補として考えておいてもらいたい』
自分の婚姻相手として用意された相手、サルートを眺めていると彼は跪き、トティータの手に口ずけを落とした。
ー金級としてはまぁまぁね、悪くはないかしら?
大国の聖騎士や、小国出身の聖騎士ですら聖女を自国に得んとするために送り込まれている為、皆非常に魅力的だ。そのなかでそれほど聖騎士制度に重きを置いていない自国の金級と呼ばれる聖騎士は数段劣る印象があったが、彼は他国の聖騎士と比べても遜色ないように思えた。
とはいえ彼に求婚するのは20歳になってからだ。トティータは17歳で、まだまだ時間があった。サルートに聖紋を印しながら、お気に入りの聖騎士を何人も侍らせてトティータは毎日を楽しんでいた。
そんな18歳の終わり、コカソリュン帝国から新たな聖騎士が数名、入教を許されやってきた。
そこにいた1人が、後に黒銀の聖騎士と呼ばれるようになった聖騎士グリワムだった。
トティータはその姿を一目見た時から衝動的に彼を欲しいと思った。彼こそが私の聖騎士なのだとそう感じたのだった。だが、そこには大きな壁があることも同時に自覚していた。
いくら求愛の口づけをして聖紋を聖騎士に印てもその印は時間と共に消えてしまう。そうして適齢期である20歳を迎えた聖女がこの人と決めた聖騎士に対して求婚の儀式をすれば、その聖騎士は求婚した聖女のものとなる。タイミングは必要だがそれでも聖騎士はある意味早い者勝ちだった。毎年10人程度の適齢期の聖女が出る。彼女らから求婚の儀を願われれば断るような聖騎士はいないのだ。例えば複数人の聖女から同時に求婚を求められたとしても、その内の誰かを聖騎士が選ばないということはこれまで殆どありえなかった。
グリワムは聖騎士として花園に入ったその日のうちに数人の聖女からの求愛の口づけを求められたという。その中には適齢期を迎えた聖女数名も含まれていて、その内の1人からの求婚を受け入れるのは確実だと思われた。つまりまだ18歳であったトティータがグリワムを手に入れる可能性は万に一つもなかったのだ。
しかも自分は聖アルミア教国の大聖女となる予定なのだ。コカソリュン帝国の聖騎士に求婚をすればコカソリュン帝国の聖女となる。トティータは婚姻後大聖女となる以外の選択肢は一切持ち合わせていなかったので、仮に今自分が適齢期だとしてもグリワムに求婚することはできないのだと歯噛みした。
しかしグリワムはその年求婚してきたどの聖女の手も取らなかったのである。
聖女らは皆驚いたが、トティータにも意味がわからなかった。
聖騎士は各国が聖女を国に持ち帰る為に作られた制度だというのに、グリワムは何を考えて求婚を断るなどという事をしたのだろうかと訝しむばかりだった。
しかしある日、そんなグリワムからトティータは誘いを受けた。聖女の暮らす聖地から花園に下りて来た一人の時を狙ったようにやや強引に、こんな場所があったのかとトティータも知らなかった東屋に連れてこられた。
求愛の戯れを求められて応じるとグリワムの体の熱を身近に感じて、不覚にも頬が火照るのを止められなかった。
ひと時の遊びというにはトティータの中でグリワムに対する気持ちが大きくなり過ぎていたのかもしれない。決して手に入らないこの聖騎士に対する思いが。
「あなた様が…教国の時期大聖女と目されているとの噂を聞きました…トティータ様」と、その時ふいにグリワムに囁かれトティータはハッとした。
東屋の葉影で、グリワムの長いまつ毛が影を作る濃紺の瞳に心を奪われた。熱い大きな逞しい体に支えられ、耳元に唇を寄せられトティータが乙女のように震えた瞬間、彼は「そのうえで…すでに婚姻相手として金級の聖騎士を選んでいることも存じております。ですが私を選んでくださいませんか?」と吐息混じりに言葉を紡いだのだった。
「…あなたを…?」一瞬何を言われたのか理解が遅れたが、グリワムの言葉を聞き返すように問えば、「えぇ、そうです聖女トティータ。いかがですか?わたしに大聖女の伴侶は務まりませんか?」と、そっと身を離された。グリワムの右の手の甲には、今かわした求愛の口ずけで浮かび上がったトティータの聖紋が印されていた。
それを
その時一瞬グリワムはわずかに視線のみを動かし確認してからにこりと微笑んで見せたのだった。
その瞬間トティータは自分が試されている事に気がついた。
聖紋は聖女と聖騎士の相性を見るものだと皆知ってはいるが、それは求愛のくちずけをする為の建前のようなもので、実際は聖騎士との戯れのとっかっかりだと聖女たちは考えていた。聖紋は聖騎士の魔力と聖女の聖力双方が作用して印される一時的な契約印のようなもので、聖騎士の甲に印されている時間は、個人差はあるもののだいたい平均一週間ほどしかない。聖女にとって自分の聖紋を浮かび上がらせた聖騎士を一時的に所有する遊戯のような感覚で、本当に相性を測っているつもりの聖女はいなかった。
容姿、能力、家柄に加えて聖騎士は高い魔力を持つものが選ばれる。そうして口づけによって印される聖紋は、実は相性よりも聖女の聖力の強さによってその色みを濃く、長く、聖騎士の手の甲に印すことが出来、また聖女の聖力を魔力として取り込める利点があるのだと、大教皇から聞いた話をトティータは思い出していた。
そうしてまた思い出す。
いままで、聖騎士グリワムの手の甲にはトティータの知る限り誰かの聖紋が浮かんでいた事は
一度も無かったという事実。
トティータの聖力は普通の聖女よりも少し多い程度だと、入教する前に大教皇から聞かされていた。その為そのまま聖水を作ることになれば他の聖女達に埋もれてしまい大聖女となるのにいささか心もとないと助言されて、なるべく聖水の生成には手を抜くように指示をされていた。さらに大教皇から毎日秘密裏に聖水を数本受け取ってもいた。
聖女の聖水を聖女が飲めば失った聖力を取り戻し、さらにそれ以上に聖水を飲むことによってその身に聖力を蓄える事もできる。
それによりトティータの聖力はかなり底上げされていた。
それがこの聖騎士は自分と口づけを交わして浮かんだ聖紋を、一瞬業務内容を管理する文官のような目で確認したのだ。
ーわたくしの聖力を測られた?
本当に大聖女の器であるのかどうかを?
トティータはそう悟ってぞくりと背筋を震わせた。
あぁ
なんて
なんて不遜で傲慢な聖騎士。
わたくしの求愛をそんなふうに扱うなんて
そんな者は今まで一人もいなかった!!
「今まで…聖女の求婚を受け入れなかったのは…」
(お前に聖紋すら印すことが出来る聖女がいなかったから?)
トティータが暗にそう問うと、グリワムは美しい笑みを浮かべたままわずかに顔を傾けた。伸びた黒髪を後ろで一つに束ねながら、伸ばしうねる様に整えられた右の前髪がふわりと白皙にかかり揺れる。薄い唇がわずかに開いてグリワムの赤い舌がちらりと見えた。
「トティータ様ただお一人の愛を望んでおりましたので、といえば…信じてくださいますか?」
トティータはその言葉に何も答えず、カタチの良い唇に引き寄せられるようにゆっくりと顔を近づける。
信じてほしいなどと微塵も思っていない目で、自分をかどわかすこの聖騎士のくちづけを、そのままもう一度受け入れながら、トティータは痺れるような喜びを感じていた。
この高貴で不遜で大胆で、傲慢な美しい獣のようなこの男を、自分が手に入れる事の出来る可能性に。
そうだ、自分は大聖女になるのだ。大聖女が他の聖女と同じように婚姻する必要など果たしてあるのだろうか?
トティータが大聖女となる為には教国の聖騎士へ求婚しなければならないと思っていた。思い込んでいた。その為、いくら気に入ろうともコカソリュン帝国の聖騎士であるグリワムにトティータは求婚出来ない。それが覆るようなひらめきにトティータは眩暈すらおこしかけていた。
ーあぁ素敵。なんて素敵なの。
大教皇に話をしなければならないが、次期大聖女がトティータであることはもう揺るがない。きっとそこまで問題にはならないだろう。
『あなたが次の大聖女候補?』
トティータの脳裏に現大聖女の美しくもあどけない表情がよみがえる。
すべてを許される至高の存在。
ーそう。私は大聖女となるのだから……!
トティータはグリワムの首にしがみつくように腕を回し、東屋の葉影にゆっくりと体を倒していった。
大教皇に自分の伴侶はコカソリュン帝国の聖騎士としたいと、その夜話を通せば驚かれはしたが、数日後にはそれで構わないと話がついた。すべてトティータの希望通り物事が進んでいるように感じていた。
しかし
グリワムの手に印したトティータの聖紋が、たった1日で綺麗に消え失せてしまったのだと知った時、トティータは大公家の姫として育ち14歳からは大聖女となるべしと育てられた自尊心に小さくない傷を付けられたような気がしたのだった。




