34 大聖女グルニカ
聖水の流れが止まった。
その時大聖女ーグルニカーは、虹色の水面の中から顔を出しゆっくりと目を開けた。
ここは大聖堂の地下にある聖女の間と呼ばれる場所。公には知らされておらず大教皇と一部の王族の者にのみ、ここに大聖女とよばれる存在が暮らしていることが知らされているーそんな秘された場所。
そこは地下でありながらも不思議な淡い光に包まれている広い空間で、その真ん中に瑪瑙や瑠璃のタイルで美しく飾られた大きな円形の浴槽があり、その浴槽内中央の床には巨大な魔法陣が描かれそれが鈍く輝いていた。そこから地下水のごとく常に聖水が滾々と湧き出ていたのだが、それがふいにピタリと供給を止めたのだった。
『…?』
グルニカは浴槽から起き上がり床底の魔法陣を手のひらで撫でた。しかし特に異常は感じられず美眉を寄せた。
「なにかしら?もしかしてまた聖女らが倒れた…?」
ザバリと浴槽から立ち上がり水気をぬぐうこともなく濡れた白金の髪をかき上げると、匂い立つような裸体のまま隣の部屋へと移動した。
「誰か」
そう呼びかけると部屋の隅から影のような人型の何かがにじみ出てきた。
「聖人部を見て来て、ついでに瓶の聖水を数本持ってきて、飲むわ」
その指示に影は頭を下げるような仕草を見せてかき消えた。
それを見送ることなくどこからか手にしたタオルで髪を軽くふくとグルニカは薄布を身にまとった。
「まったく…そんな無茶をさせているわけもないのにキチンとしていただかないと困るわ」
そう呟いてふっと何かに気が付いたようにくすっと笑った。
その笑みは少女のようにあどけなく、だれかが目にしていればその様子に心を奪われただろうが、可憐な唇からこぼれた言葉はその姿に似つかわしくない響きを持って吐き捨てられた。
『…○○が』
蔑みのその言葉はしかし誰にも聞き咎められることなく、その場でよどんで空気に溶けた。
グルニカはそのまま部屋を出て、ふと思いついたようにもう一つ奥の部屋へと入っていった。そこはこの居住区の中心にある場所で、他の室内然とした内装のある部屋とは違い、天井の高い洞窟内に作られた祭壇のようなものが中心に置かれた厳かな雰囲気のある場所だった。
グルニカは祭壇の前に立つとそこにあった虹色に淡く輝く器を手にし、そのまま軽く中身をひっくり返した。中には小石のようなものが入っていて、耳障りな音を立てながらあたりにばらまかれる。
コンコンとそのうちのいくつかが跳ねてグルニカの足にあたるのを無感動に見下ろしながら「すくないわね」と興味なさそうに呟いてそのうちの一つをつまみ上げた。
「形も前より悪いし粒もちいさいわ…やっぱりもうダメね。あとひと月?だったかしら?アーザスには月替わりにはすぐ動くように指示しておかないと…」
そう言ってポイッとそれを放り投げたとき、先ほどの影が部屋の隅に現れた。
「戻ったの?どうだった?」
しかし影はグルニカの満足する回答を示さなかった。首を振るような仕草をして畏まっている。それにわずかに眉を寄せて「何?じゃあ聖水瓶はどうしたの」と声をかけると、それにも影は怯えたように首を振るだけだった。
「あなた、わたくしを馬鹿にしていらっしゃるの?」
そうグルニカが告げた瞬間影は慌てたように床に這いつくばり頭を擦り付け身を縮めた。そこにグルニカの足がかけられる。
「ねぇ、イライラさせないでちょうだい。わたくしには聖水が必要なの。そう浴びるほどね。それが出てこないとなるとどうなるか…わかるでしょう?お前たちだってただでは済まないのよ?」
言いながらぐりぐりと力をかけると影はそこからへしゃげるように撓み、しかし許しを請うように腕を上げ震えていた。
「…はぁ、もういいわ。」
そう言うとグルニカはその影を踏みぬいた。するとそれは音にならない悲鳴を震わせて、バッと霧散して空気に溶けたのだった。
***
ハポナ国の諜報部隊をまとめているイザドは、国の指示で最精鋭の部下3名を連れて、聖アルミア教国内にある聖域と呼ばれる場所に侵入していた。
聖域内の地下にある聖人部と呼ばれる場所に侵入し、小さな飾り箱を目立たない場所に置いてくる。これはそれだけの指令だった。それだけだと聞かされれば今まで受けた諜報活動の中でも難易度の低い部類のものと言われただろうが、もちろんイザドも部下もこれがそんな気楽な作戦だとは思ってはいなかった。
聖水3本と引き換えにされた作戦だ。
聖水。聖女のみが作り出すことの出来る聖なる雫。神の恵み。命を癒し不老や不死すら叶える噂される万病の霊薬。しかしそれは人に限らず、大地すらも癒すのだ。
たった3本。
だがそれだけで災害に見舞われた我が国がどれほど潤されるかイザドは十分に理解していた。国難に見舞われた現在のその価値は、国庫をすべて差出してもなおあまりあるものだろうと思えた。
しかし、それと引き換えにされたのは聖域内への侵入行動。それだけだったのだ。
もともとその聖水は聖教会内の教皇から齎されたものだった。教皇だ。教皇であるなら、他国の貴族、王族よりもよほど聖域にも干渉できるだろうに、わざわざ貴重な聖水3本と引き換えにしてまでこの侵入作戦を求めてきた。
ー恐ろしい
イザドは幾度も死線をくぐった自分の勘が警鐘を鳴らして騒ぐのを理性の力で押さえつけていた。
聖域には聖女が住む。
聖域に暮らし聖水を生み出す聖女は絶対不可侵の存在だ。他国の者が接触を許されるのは13か国から出される聖騎士だけ。それ以外邪な考えで近づけば呪われ、個人だけではなく国すらも死を賜ると言われている。
『決して聖域聖女と接触するようなことはない。そうトマ教皇殿からもお約束いただいている。入って、置いて、戻る。それだけだ。其方らならやり遂げられると信じておる』
そう言って国王陛下から直々にお声がけ頂いた時のことを思い出しイザドは静かに前を向いた。
「いくぞ」
そうして4人は物音ひとつ立てず、聖域内を影のように移動したのだった。




