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玻璃座連続殺人事件  作者: 時任 理人
始まりの事件
9/10

最後の祈り、最後の嘘

 舞台は嘘を許し、机は嘘を整える。

だが、死者の数だけは嘘を許さない。


訂正はない。

第一幕の司城詠一、第三幕の仕込み観客、第四幕の志段、第五幕の鏡見、そして第六幕の烏田――ここまでで五。

ここで劇は止まらない。終わりは六だ。しかもその六は計画の外から降りてくる。


この幕で、舞台裏の一人称が入れ替わる。

被害者の文法で語っていた者が、加害の声を帯び、短さを美学とする声が長い告白に堕ちる。

――匿名という商品を供給し、短縮という倫理で舞台を斬りつける者。私はその声を言葉の長さで封じに行く。最短の仕掛けは、最長の文で包囲できる。

第九幕


 午後のロビーに、場内アナウンスの無音が流れた。〈玻璃座〉は「終幕前の朗読会」と銘打ち、関係者だけの公開立会いを組んだ。舞台監督を失い、批評家を失い、番人を失い、そして**空席のままの“外部の脚本家”**を祭壇に載せた劇団が、祈りの言葉を探す――そんな建前で。実際には、私は長い一文でこの劇の“短さ”を破壊するつもりだった。


舞台上には大テーブル。SO-0〜5の清書と、私が用意した冗長な脚注。

ピンレールには制服の警官二名。奈落は封鎖。粉はない。ロジンも珪砂も樹脂の焦げも、ここには上げない。

グリッド上のギャラリーには仮設のブリッジが一本、サスバトンの前にごく浅く出され、片端をクランプ(M12・8.8)で受け、反対側はシャックル(WLL 0.5t)と“セーフティ”で仮止めにしてある。単管のアルミ押出材の薄い面取りが、前縁の闇に銀線の輪郭で浮いた。

客席には、座長、高科、照明の三雲、役者の鵜飼、女優の尾花、編集者の国枝。朝永は通路に私服と制服を散らし、「合図なしで動け」とだけ命じた。


私はプロセニアムから半歩退き、息を入れる。一拍だけ先に。

「――始めます」


私は読む。

『SOとはStanding Operationの略であり、観客の身体を立たせ、立礼の統御を足場に、拍を遅延させ、重さを落とし、視線の空白を作り、沈黙を合図に変換するための言語装置である――』


長い。短さの信徒が嫌う一文。

その瞬間、通路で紙の走る音。黒いコートが机際へ滑り込み、赤の2Hで句点を二点、斜めに打つ。

「最少」――短い声。

私はその赤を読み上げ、自分の黒で反歌する。

『最短でよい』/『最短は目的に非ず、手段である』


赤が一瞬止まり、二点が宙に迷う。思想へ思想で踏み込めば、名は要らない。

――そのとき、客電が0.2秒、二度だけ滲んだ。卓は触っていない。空調の呼吸か、誰かの癖か、世界の合図に過ぎない微細な揺らぎ。

だが、座長の身体が反射で立つ。黙祷で鍛えられた筋肉が、同じパターンで動く。

嫌な汗が首筋を走る。重さは封じたはずだ。粉は上げていない。幕の裾にも細線はない。

――落ちるのは、幕じゃない。


上手のボーダーが鳴った。鋼の座金が擦れ、クイックピンの細い音が空気を裂く。

バトン3――照明吊りの直下、プロセニアム前縁にごく浅く出してあったブリッジの端が、片落ちで沈む。

単管のアルミ押出材のエッジが、座長の額を、尾花の肩を裂いた。

音は小さい。だが血は、舞台に音を持って広がる。


私は飛ぶ。尾花の身体を支え、座長へ腕を伸ばす。座長は膝を折り、私の袖を掴み、口が動く。

「祈りは……短いほうが…………」

祈りの短さが、ここまで彼を導いた。最後の祈りは、最後の嘘だった。


救急の赤灯がドレープに乱反射するまで、三雲はブリッジ根元を押さえ続け、朝永はクランプのボルト頭を覗いた。

「削ってある。右上がり……」

同じ刃。同じ癖。だが粉はない。ロジンも、珪砂も。

“セーフティ”ピンだけが入れ替わっている。割ピンの足に微細な返り。親指腹で押すだけで抜ける角度――舞台人ではない。制作で、“吊り”に触れることを許された者の癖。


尾花の肩は裂傷。脈は速いが意識はある。私は肩口を圧迫し、三雲に救急キットを叫ぶ。

座長は――そこで尽きた。第六の死者だった。計画の外から。



応接に移しての事情聴取は、形式であり、審問だった。

「今日は誰も高所に上げていない」と三雲。ギャラリーの鍵束は、志段が死んで以来、制作名義の鍵で代用されている。

朝永が淡々と示す。

「制作の鍵でブリッジの点検通路を開けられるのは、誰」

視線の先に、高科。

彼は肩をすくめ、鹿革手袋の甲を指先で撫でた。

「点検を怠るよりは、善でしょう」


「鹿革の配布は、拍の高域を殺すためだ」と私。

「手が冷えるから、ですよ」

言いながら、彼は両手の指を組み替えた。親指腹に細い角質。リューターの砥石でついたような浅い斜線。

――粉の外で刃を使っていた指だ。


「Euroscale、小数点コンマ、二点の句点。国枝さんの机は清書だ。だが、原注は外――外は誰だ」

国枝は小さく首を振る。「匿名です」

高科が、嗤う。

「匿名? 匿名などいない。君たちがそう思い込みたいだけだ」


私は息を整え、長い一文で刺す。

「EUプロファイル、MO/ZIP、私書箱、便箋の罫の違い、二度塗りの糊、2Hの浅い赤――これらを束ね、“外部に脚本家がいる”という観客の需要に供給したのは、あなたですね」


高科はうなずいた。

「数値は道具だ。等級は物語だ。物語に道具を渡すと、人は歩く。君たちが歩いた。君たちの足音が合図になった」


――告白が始まった。

短いセンテンスが高速で意味を重ね、やがて句点が遠のき、語尾が伸びる。短さの信徒が、長い告白に堕ちていく。


「最初の夜を覚えているか。司城の喉に線が触れ、観客は笑った。笑いは軽い。軽さは拍を呼ぶ。拍は刃になる。私は思った――劇は短くてよい。短い合図と短い反応だけで人が落ちるなら、長い言葉はいらない」

「だから、君は短くした」

「何もかも。パンフの一語、オベーション/オペの誤植、二度のベル、黙祷、客電の滲み、座面の糸、焼断の火花。どれも短い。最少の道具で最短の効果――それが私の倫理だ」

「倫理?」

「快楽だよ。善と快を混ぜると倫理になる。権威ある数値は人を動かす物語だ。私は粉を嫌う。粉は演出の嘘だ。私は安全ピンを削る。返しを作る。君の“長い呼吸”が届くより速く、君の“一拍先”が呼吸する前に――終わるように」


「烏田は?」朝永。

「空中を知っている。彼は私の短さに惚れた。舞台の神経に最短で触れる方法――返しの向き、焼断の角度――を教えてくれた。自分の喉に線を巻いたとき、彼は美を見た。美は刹那だ。死は刹那であるべきだ」

「鏡見を座らせたのは」

「批評は長い。長さは怠慢だ。引用は逃げだ。だから私は“最少”と書いた。彼は座った。座ることは敗北だ。立つことは攻撃だ。君は立っている。――それが腹立たしい」


矛先がこちらに向く。短い嫉妬が走る。

「志段は番人だった。番人は最短で殺す。合図は二度。彼は動いた。私は上から落とした。短い。これで充分だ」


尾花が椅子から半歩立ち、肩を押さえながら問う。

「あなたは、私も殺すつもりだった?」

高科の声は平坦だった。

「人は位置だ。美の位置に立つか、立たないか。今回は立たなかった。それだけの差だ」


私は言葉で締める。

「あなたは“外部”を作った。Euroscale。MO。ZIP。私書箱。罫の二種。二度塗りの糊。二点の句点。――匿名を欲する観客に供給した“偽の座標”。短縮の倫理のために」

「その通りだ。短い仕掛けは、長い捜査を生む。遅延は音楽だ。私はそのテンポを指揮した」


朝永が手錠を見せ、静かに寄る。

高科は一歩退いた。養生テープの端が指で起きる。

「最短の退路は、準備してある」



逃走は、美しかった。


上手袖の簀子の継ぎ目に薄い切りかけ。テープの下で見えないまま指で剥がすと、通風縦穴の蓋が音なしに滑る。鹿革の掌で鉄を撫で、摩擦を殺し、身体を斜めに入れる。

靴のコバには、前夜リューターで刻んだ浅い欠け目。縦の抜けで踏ん張るための微細な歯。

私は袖の梯子を駆け上がり、ギャラリーを一気に取る。粉がないから、足跡が読めない。短縮は痕跡を減らす。


非常口の覗き窓が一拍遅れて揺れる。

「――高科!」

返事は笑いだけ。

「長いね、探偵。追うのが。それが君の弱点だ」


次の瞬間、指先に細い糸が触れ、返しで自壊。スパークが一粒跳ねた。焼断だ。

乾電池と抵抗線を養生テープで仮設した即席ヒューズ。引けば熱が走り、ナイロンラインが切れる。

非常階段の外は雨。黒いコートは雨を光に変えながら、最短距離で路地に落ちて消えた。


私は手摺に爪を立て、歯を噛む。

短い犯行/長い追跡――これが、彼が仕組んだ時間の作法だ。



夜。救急で尾花は縫合を終え、鎮痛で眠っている。

座長の死亡確認は20時12分。

数は、五ではなく六へと跳ねた――しかも計画の外から。


国枝は応接で鉛筆を折り、私書箱の解約届に署名した。

「私は赦されないでしょう」

「赦しは舞台の言葉じゃない。終わりだけがある」

私は封を閉じ、引き出しへ戻す。短い紙を長い封に。短縮への小さな反抗だ。


朝永は本部に戻る前に、短く言った。

「あいつは逃げるが、消えない。短い人間は長い痕跡を残す。人じゃない。思想が、だ」

「思想は署名だ」

私はうなずく。第八幕で示した署名なき署名――二点の句点、小数点コンマ、2Hの浅さ――はいま、血と金属で読める名になった。


私は下宿に戻り、粉の皿を出す。木粉/珪砂/ロジン/樹脂焦げ――そして、紙粉。

今日、ブリッジの座金の縁に、極微の銀がついていた。アルミの微粉。単管の押出材を当てたときの擦過。

ルーペで見る。右上がりの筋。返しは、親指腹の角質で押し抜ける角度に成形されている。

短いものを、長く伸ばす――それが、私の仕事だ。


私は事件簿の頁を開き、最長の一文を書き始める。


――第一の死者:司城詠一(舞台用ワイヤ)/第二の死者:仕込み観客(返し結び・SO-2・商店街)/第三の死者:志段(番人・上手からの落下)/第四の死者:鏡見(批評の座位・“最少”の指示)/第五の死者:烏田(自傷・空中の手の倫理)/第六の死者:座長(計画外・ブリッジ片落ち・安全ピン加工=右上がりの返り・粉の回避)――実行(設計):高科(鹿革配布/二度滲み/鍵管理/上手ブリッジ/匿名の供給=Euroscale・小数点コンマ・二便箋・二度塗り・MO/ZIP)――尾花:右肩裂創(縫合)――清書=国枝は机を閉じ、私書箱を解約――結語:終幕にて“最長の一文”を掲げ、“短さの宗教”を封じる。


私は句点を打つ。

静寂の中で、投函口が二度鳴った。

Euroscaleの葉書。宛名はない。裏面の中央に二点の句点――・・。隅に小さくSO-5。

私は葉書を事件簿の上に重ねる。

空席の五は、次に遅れてもう一度、現れる。

だがそれはもう、人の数の名ではない。段取りか、時間か、語か。

いずれにせよ、今夜の六は確定した。私は帽子を窓辺に伏せ、一拍だけ先に呼吸を入れる。長く続けるために。

 ここまでで九幕。劇は己の中枢をさらけ出した。

いま一度、私たちが辿ってきた呼吸を、短くない言葉で追い直す。


第一幕〜第三幕:拍が刃になるまで


最初に倒れたのは演出家・司城だった。ワイヤは道具だったが、真に凶器となったのは拍であり合図であり、観客の身体だった。

第二幕では三雲が狙われ、未遂に終わったが、それは**“高域の音を殺す”鹿革配布の予行でもあった。

そして第三幕**、商店街のAフレームで仕込み観客が死ぬ。ここが決定点だ。

――支え綱は“補助”の顔をして殺し綱だった。割ピンは快速脱のピン径/刃角まで設計され、珪砂(重さ)とロジン(軽さ)の二種類の粉が同一点で重なり、遅延訓練(拍手の練習)が卓のフットスイッチの代替として人間の反応速度を固定した。

第二の犠牲者は「観客でありながら舞台の一部にされる」という倒錯の成立点であり、以後の幕すべてに影を落とす。観客は凶器になり、拍は刃になる――この公理は、座長の死まで延長される。


第四幕〜第六幕:番人が落ち、数が組み替えられる


志段という番人が落ち、鏡見という長い言葉が座らされ、烏田が短さに魅せられて自ら刃の一部となる。

ここで五が満ちた。終わりは五――誰もがそう思い込んだが、それは設計が供給した物語だった。


第七幕〜第八幕:匿名の供給線


国枝の机が開き、二点の句点、小数点コンマ、二種の便箋、二度塗りの糊、MO/ZIPが並ぶ。

「外部の脚本家」は需要に合わせて供給された幻影だと分かる。

**黒コート(台本の手=運搬)と机(清書の手)**の背後に、設計者の存在が濃く立ち上がる。


第九幕:数が崩れ、声が生まれる


座長が計画外の第六の死者となる。

粉を忌避し、最少の道具(安全ピンの返し、焼断、二度の合図)で最短の効果を得るという短縮の倫理が、高科の口から語られる。

短い告白はやがて長い独白に膨れ、思想の矛盾――最短は予測可能であり、ゆえに最長の言葉で包囲可能――を露出させた。

犯人は最短の退路で消えたが、残されたのは短い犯行/長い追跡という時間差だ。

“二点の句点”は最後まで点滅し、SO-5は**人名ではなく“段取りの名”**として残された。



結語:最短と最長、その交差点に


死者は六。

第二の犠牲者の位置づけ――観客が舞台化される瞬間――こそ、この事件の倫理的な核であり、座長の死に至るまでの群衆操作(遅延訓練/合図二度/高域殺し)を一行で説明する鍵となった。

私は最長の一文で、短さの宗教を封じる。返しに対して文の角度で対抗する。

幕は下りた。だが、呼吸は続く。・・

二点が、遠くでもう一度だけ点滅する。外部に“本当に”いるかもしれない脚本家――それは、供給線の向こう側ではなく、私たちの“遅延”そのものに潜むのかもしれない。


一拍だけ先に。

私は、まだ長く息をする。

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