署名なき署名
名前は証拠にならない。署名するのは、むしろ癖のほうだ。
小数点コンマ、ICC、罫幅、二度塗りの糊、Hの浅い筆圧。第七幕までに、私は「台本の手」が“紙の地”に残す歩幅を測った。
だが彼は依然として名を与えず、匿名という場所に拍を置く。――ならばこちらも匿名のまま、癖へ向けて罠を仕掛けよう。
鍵は長文だ。彼は「引用は最少」と唱え、短く切り詰め、句点すら削いできた。ならば切れない一文を渡せば、彼自身が**“署名なき署名”**で応じる。
机は法廷であり、舞台は宣告台だ。立って聞け。一拍だけ先に息を合わせろ。
第八幕
午前、〈玻璃座〉の応接で私は二種類の「校了用ゲラ」を用意した。片方には意図的に冗長な脚注と長い引用。もう片方は本来の短い版。どちらにもEuroscaleのICCを埋め、ZIPのタイムスタンプを昨夜に偽装した。
囮は二つの箱へ投げる――紙背アーカイヴ(清書の手=国枝の机)と、中央郵便局の私書箱(台本の手の入口)。校正依頼文は狭い和罫の麻混便箋に全角句読点で書いた。舞台側からの依頼であると見せるためだ。
「長文で釣るのか」朝永が言う。
「短くする人間は、短くせずにいられない。そして短くする癖こそが署名だ」
国枝は黙ったまま、机の端に両手を置いた。編集者の手は、いまさら震えない。ただ筆圧が浅い。
「危険は?」尾花が訊く。
「投函の動線での小さな嫌がらせはあるだろう。だが重さはもう下りない。舞台での仕掛けの手は潰えている」
彼女は頷いたが、視線は落ちない。立って聞く者の顔だった。
*
午後、私書箱のある回廊。警官二人が死角に入り、私は廊下の角に立ち、一拍だけ先に呼吸を合わせた。
足音。コートの裾が影を揺らし、左手が封を撫で、右手が紙を滑らせる――例の癖。箱の扉が開く。長文ゲラを取り、代わりに薄い封筒を入れた。
私は前へ出ず、半歩だけ退く。影は気づかない。音を立てず、二度、私書箱と代理箱の間を往復して消えた。
拾い上げた封には狭い和罫の便箋。上部に細い文字。
『引用を最少に。脚注は脚註へ統一(表記の節約)。一文を三行以内に収めること。――SO注釈は箇条書きでよい』
鉛筆は2H。点は全角ではない。欧文のピリオドが極小の二点に分かれ、カーニングがわずかに右に寄っている。
署名なき署名。
私は便箋の罫幅と繊維を見、二度塗りの糊に爪を立てた。机が二つある痕跡。原注が外から来て、清書は国枝の机で――その往復の痕だ。
この記法は個人ではなく“流通”に紐づく――供給者がキットのように配るのだ。
同時刻、紙背の机には、こちらが投げたもう一方の短文ゲラに対する修正朱が戻った。Hの浅い線で「表記統一済」とある。国枝の筆。
私は二枚を並べ、尾花に見せた。
「長いものは短くされ、短いものはそのまま返る。短さを最終目的にしている“思想”がここにある」
「思想が署名なんですね」
「そうだ。――名前は要らない」
*
夕刻、囮の第2手を打つ。私は〈玻璃座〉ロビーに小さな掲示を出した。
〈資料公開・立会い校了〉
SOにつく注記を、舞台上で読み合わせる。批評家を宥める術を失った以上、匿名の書き手は舞台を嫌う。だが立会いを避ければ、校了の権利を手放す形になる。短くせよという彼の強迫は、現場に出てでも短くしたがるはずだ。
開場時間、現れたのは黒いコートの影、間をおいて、制作の高科が封筒束を抱えて入ってきた。
「私、預かってるんです。昨日から急に増えて……」
封筒のひとつは狭い和罫。中身は短いメモ。
『検閲を嫌う。朗読に意味はない。――最短でよい』
私は笑った。
「朗読を嫌うという宣言は、逆に朗読へ押し出される。声を舞台に乗せるのが劇だ」
国枝が低く言う。「あなたが長文を載せるなら、彼は必ず削りに来る。――観客の前で」
「それが署名になる」
高科は『預かっているだけ』と繰り返す。制作動線の“正当な理由”を自ら用意できる位置にいる――それ自体が設計の署名だ。
*
舞台上。緞帳は上がり、バトンは固定、奈落は封鎖。粉の匂いはない。――私は粉を許さない。
机の上に、SO-0〜5に付された原注と短文、それにこちらが用意した冗長な脚注を重ねる。
客席には制作、座長、黒衣二名、そして国枝。最後列に尾花。
「始めます」
私は長い一文を読み上げる。
――『SOとはStanding Operationの略であり、舞台上で観客の身体を立たせ、その立礼の統御を足場に、拍を遅延させ、重さを落とし、視線の空白を作り、沈黙を合図に変換するための言語装置である』
沈黙が落ちる。長い。彼が嫌う一文。
次の瞬間、通路側から紙の擦れる音。黒いコートの影が、私の机に二本線を引いた。二点のピリオドが紙面で“滲み”、語の間を詰めるように赤が走る。
「最少」
影の声は低い。匿名の声。署名はしない。だが癖は出る。
私は一拍先に息を吸い、彼の赤と自分の黒を並べて声にする。
――『最短でよい』
――『短さは目的に非ず、手段と心得よ』
影の筆が止まる。思想に逆さの句を差し出されたからだ。
「あなたは短さを目的にしている。だから、批評を要らないとし、引用を切り捨て、観客の拍すら切り捨てた。――だが、舞台は最短を目指さない。緊張は時間の中で醸す」
影は赤を二度走らせ、脚注を脚註に直し、句点を最少に削る。2Hの浅い筆圧。全角でも半角でもない極小の二点。
赤は熟練の速さだが、手癖は“誰かに仕込まれた速記”のようでもある。
私は机の上の粉を指で払う。粉はない。紙だけが残る。
「あなたの署名はここにある。句点の極小二点、右寄りのカーニング、2Hの浅さ。小数点コンマの癖。――名は要らない」
「名で裁くつもりか」
「癖で裁く。癖は段取りを書く。段取りが人を殺す」
朝永が通路に立ち、影に声をかけた。「お連れする」
影は笑った。
「私は書いただけだ。終幕はあなたが書け」
「書く。――舞台で」
*
休憩の間、尾花が袖へ来た。
「怖かったでしょう?」私が問うと、彼女は首を振った。
「怖いのは座ることだけ。立っていれば、拍を選べる」
「よく覚えた」
彼女は小さく笑い、バッグから封筒を出した。
「さっき、私のロッカーに。狭い和罫。糊は二度塗り。――『終わりは外にある』」
私は封筒の角を嗅ぎ、糊の溶剤の匂いの種類を確かめた。昨日と同じ。机は二つとも同じ街区にある。
「外には幕がない。終わりは内にしか降りない」
*
夜、局の回廊。台本の手は既に朝永により身柄確保。ただし“台本の手”は運び屋に過ぎない。設計は別の手だ――匿名は“供給”される。
だが、思想は流体だ。署名なき句点は移動する。――私は机を封じる必要がある。
紙背の編集室に戻り、国枝に告げた。
「あなたは机を閉じろ。私書箱も解約だ」
「記録は?」
「残す。劇として残す。段取りは封印する」
国枝はゆっくり頷き、机のH鉛筆を抜いて芯を折った。音は小さい。だが合図になった。
「私は赦されないでしょうね」
「赦しは舞台の言葉ではない。終わりだけが舞台にある」
私は編集机の引き出しに一枚の紙を置いた。
『引用は最少ではない。――舞台は、最長の一文で終わる。』
筆致は濃いBで、句点は大きい。最長は遅れを孕む。遅れは合図になる。合図は選べる。
机を閉じれば、“外部”の供給線は痩せる。だが供給者が残る限り、匿名は別の口から流れ込む――だからこそ終幕は舞台で“言語装置”として封じるほかない。
*
下宿へ戻ると、テーブルには粉の代わりに紙端が残っていた。裁ち落としの麻混。私はそれを木粉/珪砂/ロジン/樹脂焦げの上にそっと置き、指で混ぜる仕草だけをして止めた。
事件簿に、今日の出来事を短く、だが長い呼吸で書く。
――第八幕:署名なき署名。長文の囮で台本の手を舞台に引き出し、癖(句点二点/2H/カーニング/小数点コンマ)を署名として提出させる。清書の手(国枝)は机を閉じ、私書箱は解約へ。
――名前は出ない。思想が名前の役を果たす。
――終幕は舞台で書く。紙は前口上で充分だ。
ペンを置き、窓に映る自分へ一拍だけ先に頷いた。
終わりはこちらが決める。合図は世界に満ちているが、幕を下ろす手は一本で足りる。
――一本で足りるということは、一本が遅れればすべてが遅れるということだ。
私は帽子のつばを指で押し、明日の自分に言う。
遅れるな。半歩でいい。先に立て。
第八幕「署名なき署名」では、“短さ”という思想を署名として扱い、名前なき書き手に舞台上での応答を強いた。主要な提示点は次のとおり。
•誘因の設計:
・冗長な長文ゲラと短文ゲラを併用し、「短くせよ」という強迫性を行動に変換。
・Euroscale/ZIP/麻混便箋という外部DTP動線を囮と同相に整備。
•癖=署名の提出:
・2Hの浅い筆圧/極小の二点句点/右寄りカーニング/小数点コンマを同一場に可視化。
・二度塗りの糊/罫幅差で二つの机の往復を証明。
•安全条件:
・粉の排除(重さの語彙を封じる)/奈落封鎖/客電滲み無効により、物理トリックの再演を阻止。
・危険の最小化と引き換えに、紙そのものを舞台化。
•構造の収束:
・仕掛けの手(烏田=死亡)、合図の手(可変)、清書の手(国枝=机を閉じる)、台本の手(匿名=癖で同定)。
・名は法廷へ委ね、幕は舞台で降ろすという二重の終結手続きを準備。
これで、肉体の凶器は封じ、言葉の凶器は姿を現した。
終幕では、“最長の一文”をあえて読み上げ、短さの思想を舞台の時間で凌駕する。
拍は、刃にも幕間にもなる。選ぶのは、こちらだ。
――立て。半歩でよい。一拍だけ先に。