幕の前
幕は嘘を合法化する装置だ。
上手と下手の間に垂れ下がる布一枚で、我々は「いま見えないものは、まだ存在しない」と信じられる。
だが、幕の運動は布だけで起こらない。ランナー(走行車)・引き綱・返し滑車・テンション・ウェイト。舞台上のあらゆる動作と同じく、重さと摩擦の言語で書かれている。
第五幕までで、私は拍と沈黙、座る/立つ、粉と工具癖という語彙が凶器に転写される様を追った。第六幕は、その総仕上げ――SO-5「幕」。
台本はこう告げる。「立て、探偵。幕の前に立て。」
私は立つ。ただし、一拍だけ先に。
第六幕
午前。〈玻璃座〉の薄い事務机に、最後のCD-Rが置かれた。ラベルには黒ペンでfinal4。便箋の封は簡素なスティック糊。
開く。フォルダ名は〈SO-5〉。図面は大緞帳(中割れトラベラー)の走行系――天レールのランナー配列、返し滑車、引き綱の取り回し。さらに、裾袋に細線を仕込み、閉幕のテンションで舞台前縁に水平の線を作る指示。小数点コンマ、欧文フォント、ICCは前稿と同じ。
図の片隅に小さな注記。
「フロント・オブ・カーテン(FOC)に立つ者の喉高=1200mm」
「返し滑車のクイックピンを削り、緊急時に一気に落とす」
「起動合図:客電0.1sの滲み×2」
「引き綱先端に“焼断”仕掛け。引き手は消えよ」
私は画面から目を離し、朝永に言った。
「すべての語彙が揃っている。粉、刃、合図、焼断、右利き/上手側。――ここが舞台だ」
「会見はどうする」
「やる。やるが、段取りはこちらで書き換える」
私は志段のいない袖を思い、紙の上に逆台本を書き始めた。
――客電滲みはなし。
――幕前に立つのは私ではない。私は一拍先に退く。
――返し滑車はダミーへ。本線はセーフティに逃がす。
――焼断片に逆目のロジン。引き手が引いた瞬間、跳ね返りは引き手自身へ。
――上手袖の柱にチョークで喉高を記す。そこに線が来る。そこに彼は立つ。
書き終えると、私は志段の代わりにピンレールで手を動かしたことのある黒衣二人に手順を叩き込み、朝永には上手袖と客席通路の封鎖タイミングを分刻みで伝えた。
「つば広を捕まえられるか」
「彼は捕まらない。自滅する。――自分の仕掛けで」
*
夕刻。小屋は報道陣を招いていた。前列封鎖、奈落封鎖、客電操作は警察立会い。座長は蒼白だが、役割を演じることをやめない。
私は幕前に出て、一礼した。
「私立探偵の津守です。ここでお話しするのは、舞台の安全と重さのことだけ――」
言いながら、プロセニアムラインから半歩だけ退く。喉高の線に私の喉が入らない位置。一拍先。
上手袖の暗がりに、つば広がいた。鹿革の薄手。右手の親指腹にロジンの粉が白い。足はピンレール寄りへ半歩出ている。喉高のチョーク線の内側に。
舞台の上では、中割れ幕が開いたまま静止している。返し滑車のクイックピンは新品に見えるが、頭の銀白が不自然に光る。削ってある。私は昼のうちにダミーの返しを一枚かませ、本線をセーフティのカムクランプに逃がしておいた。焼断片には逆目のロジン。跳ねが手元へ戻るように。
座長が舞台袖から一歩出て、「本件は――」とかしこまる。客電は変化しない。ベルも鳴らない。
だが、合図は来る。
空調の吹き出しが二度、わずかに音を濃くした。卓に触れずとも、二拍を合図にできる。癖を作ってしまえば、世界のどんな変化も合図になり得る。
――彼は引く。
引き綱の先で焼断が火花を吐き、糸が消える算段。幕裾の細線は喉高に水平を作り、FOCに立つ者を切り裂く。作戦は、美しい。彼が書いた**“操縦説明書”**としての美しさがある。
私は半歩退いた。線は空を切る。
同時に、セーフティへ逃がしていた本線がカムに噛み、反力が返しのダミーに来る。逆目ロジンが一瞬滑りを生み、焼断片は予定外の位置で跳ね返る。
つば広の喉へ。
ピンが飛び、短い線が返しの角で跳ね、彼の喉に巻き、右手が引いた力がそのまま彼自身を締める。
一拍遅れて、鹿革が擦れる音。粉が散る。彼は上手袖の支柱にもたれ、座り込むように沈んだ。眼が私を見、驚きもしない。自分で書いた段取りの最後に、自分の名前が書かれていたことを、理解した者の目だった。
私は駆け寄り、喉の線を指で外し、頸動脈の拍を探る。遅い。薄い。
粉が彼の胸で混ざる。ロジンと珪砂、それから樹脂の焦げ。右手の親指腹には回転砥石でつけたような浅い傷。
仕掛けの手。右利き。上手側。
――五人目の死者。
舞台上では、中割れ幕の裾が床を這い、裾袋に入っていた細線が空を寸で切り損ねている。FOCの床に落ちた微細な熔融片。焼断の残滓だ。
私は返し滑車のクイックピンを拾う。頭には右上がりの返り。同じ刃。同じ手。
朝永が来て、息を吐く。「……自滅だな」
「段取りに、自分の名前を書く人間がいる。自分にしか読めないように、小さく」
「台本の手は別か」
「別だ。彼は、仕掛けと空中を兼ねていた。言葉は、他人のものだ」
*
応接。高科は椅子で小さくなっていた。私は静かに問う。
「つば広の男――今日死んだ彼を、いつから知っている」
「……三ヶ月前。司城さんが『外に吊りの上手い人がいる』って。安全講習の名目で呼んだんです。名前は……烏田さん、と」
烏田。地方のサーカス団にいたという話が一度だけ尾花の口から出た名だ。
「CD-Rを持って来たのも烏田?」
「最初のfinal2は私が焼きました。差し替えの文言は座長の指示で。SO-2以降は、夜に烏田さんから画像だけ受け取り、私がCD-Rにして――」
「画像はどこから来た」
「メールじゃなくて、MOかZIPです。『海外の友だちから来る』って。『小数点コンマの癖があるんだ』って、冗談みたいに……」
私は頷き、息を整えた。海外。欧文フォント。ICC。
台本の手は、やはり外だ。烏田は搬送役であり、仕掛けの主。
「座長はどこまで知っている」
「祈りしか。言葉に弱い人です」
座長は椅子で両手を握り、視線を落とした。
「司城が死んでから、演目は空になった。空には、言葉だけが浮かぶ。……私は言葉に寄りかかった。罪だ」
朝永が書類を閉じ、短く言う。「台本は外にいる。烏田は死んだ。合図は入れ替わる。……まだ終わっていないな」
「終わらせるのは、紙だ」私は答えた。「同じ便箋、同じ下敷き痕。司城の口癖を引用した手。机を探せば誰かが出る」
*
夜、下宿。机のうえに粉を四筋――木粉/珪砂/ロジン/樹脂焦げ。指で混ぜるとうす灰。
封筒が差し込まれる。紙は同じ繊維。筆圧は浅い。
『幕は降りた。――観客は立て。
脚本は回収した。引用は要らない。』
同じ筆跡。だが、下敷きの跡が違う。今度は罫線の幅が英米式で、先の便箋よりわずかに広い。卓上で二種類の便箋を使い分ける癖――制作机ではない。外だ。
私は便箋の端をちぎり、ルーペで繊維の縒れを見る。麻混が多い。国内の一般的なバルキー紙より固い。図面のICCと似た方向を指す。
そこで、ポケットの古いメモを取り出す。第一夜の尾花の差し出した封筒――消印は昨夜未明。郵便窓口は深夜に閉まる。ならば局内の夜間投函。近隣でそれができるのは中央郵便局だけ。
外から中へ。
私は帽子を取り、机の粉をすっと払った。灰色が消える。地が現れる。
――SO。Standing Operation。
立たせる作戦。立ち上がる死体。座らせる生者。黙る拍。重さ。幕。
仕掛けの手は死んだ。合図の手は散る。台本の手は外にいる。
そして尾花は、まだここにいる。
私は受話器を取り、短く告げる。
「明日は小屋に行く。机を見つける。――あなたは舞台に立つな。立てと言われたら、一拍だけ先に退け」
「……はい」
受話器越しに、彼女が息を合わせる音がした。
一拍だけ先に。私たちは、その呼吸を稽古している。
窓の外、工事の夜間クレーンが、ゆっくりとブームを降ろす。重さが言葉を持つ音。
私は事件簿を開き、頁を起こす。
――第五の死者:烏田。FOC仕掛けの自滅。SO-5(幕)の実行者/搬送者。右利き/上手側の工具癖。粉の四重奏。
――台本の手=外部(欧文フォント/ICC/小数点コンマ/麻混便箋)。
――机へ。紙の地へ。
私はペンを置き、静かに目を閉じた。幕は降りた。だが、劇は終わっていない。
脚本家は、まだどこかで拍を取っている。
第六幕「幕の前」では、SO-5(幕)を“逆読み”で迎撃し、仕掛けの手=烏田の自滅に収束させました。ここで五人目の死者が確定し、当初の設計どおり犠牲者数は完結に到達します。提示したフェアな手がかりを整理します。
•機構面
•中割れトラベラー:天レールのランナー、返し滑車、引き綱の取り回し。
•裾袋の細線でFOCに水平線(喉高=1200mm)を作る指示。
•クイックピンの右上がりの返り(回転砥石/右利き/上手側)=既出の工具癖。
•焼断片の“引き手消し”→逆目ロジンで跳ね返りの方向を設計変更し、自滅の道筋を作る。
•心理面
•合図の更新:客電に頼らず、環境音(二度)で“二拍”を構築。合図は癖を作れば何にでもなり得る。
•「立て、幕の前に立て」という挑発に対し、探偵は半歩退く=「一拍先」の継続。
•証拠連鎖
•CD-R(final4)のICC/欧文フォント/小数点コンマ=外部制作の一貫性。
•便箋の繊維/罫線幅→国内と違う混抄の気配。
•搬送者=烏田(サーカス系技能/結びと空中の手)/台本の手=外部という役割分担の確定。
本幕で実行部隊は壊滅したが、台本の手はなお外にいる。
次幕(終盤導入)では、
1.紙と机――便箋の供給、CD-R作成環境、下敷き痕の一致から書き手を特定し、
2.印刷ルートと夜間投函の動線を重ね、
3.“引用は最少”の痕跡(他者テキストの圧縮癖)を照合して、
脚本家を舞台へ引きずり出す。
幕は降りた。だが、拍はまだ――一拍、残っている。