奈落の重さ
舞台の安全は、重さの均衡で保たれている。
バトンと錘、綱と滑車、床板と蝶番。どれか一つが予定より軽く、または予定より重くなるだけで、舞台は牙を剥く。
第三幕までに私は、観客の拍を遅らせることで生じる「視線の空白」を凶器に変える手口を見た。第四幕で牙を剥くのは、笑いでも拍手でもない。沈黙そのものだ。
黙祷の一拍が、最も重い。
第四幕
午前。〈玻璃座〉の小さな応接で、私はCD-Rのケースを開けた。前夜に押収されたfinal3――技術係が複製した閲覧用だ。中身はやはり文字が少なく、画像が主だった。Aフレームの見取り図に続いて、〈SO-3〉というフォルダが増えている。
開けば、舞台平面図。奈落口・袖・バトン番号・アーバー(錘枠)の位置。矢印。寸法線。見慣れた舞台記号に、どこか作図の癖が混じる。寸法値のフォントが欧文寄り(角が立つ)で、小数点がコンマで表記されている――舞台人の手より図面屋の癖に近い。
画像のプロパティには、古いドロー系ソフトの署名(のちに消された痕)と、埋め込みICCが残っていた。誰かが外で作り、中へ渡した。台本の手の輪郭は濃いが、まだ顔は見えない。
「助手は呼ばれた?」私は画面から目を離さずに訊く。
「脚本助手は二人。今日は来るはずだ」朝永が答え、そこで声を潜める。「座長が“安全確認”をやると言って聞かない。黙祷の会を兼ねて、最低限の関係者を舞台へ集めるそうだ」
「祈りは拍を呼ぶ。拍は合図になる。――止めるべきだ」
「止めたいが、警察名義で式を潰すのは反発も招く。こちらは舞台の高所と奈落の立入を制限、鍵管理は警官が持つ。志段にも安全監督を二重に頼んだ」
私はわずかに黙り、視線を画面に戻した。〈SO-3〉の矢印は、舞台上手寄りの**“仮設奈落口”を指していた。枠材の寸法、蝶番の位置、スライドボルトへ伸びる細い点線――糸の記号に見える。
「糸だ。ボルトの受けを外から落とす。……倉庫の密室(SO-0)の変奏だな」
「変奏?」
「同じ楽譜を、別の楽器**で鳴らすんだよ、警部」
廊下の先で、硬い靴音。鏡見礼が現れ、指先で帽子の縁を撫でた。
「祈りの会に批評は似合わない――そう言う顔だね、探偵」
「あなたは言葉で人を動かす。今日は黙祷だ。あなたの出番はない」
「黙っている観客ほど、扱いやすいものはないよ」
彼は薄く笑い、背を向けた。扱いやすい――その言葉の重さは、これから起こるものをすでに秤っているように思えた。
*
夕刻、一同が舞台に集う。客席は閉じられ、舞台上に小さな祭壇。花、一輪。司城の写真。
志段は黒い作業着のまま、バトンのピンレールに念入りな目配りをしている。上手袖には警官二名。フライギャラリーと奈落口には封鎖線。私は尾花を袖へ下げ、朝永と視線を交わした。
「ベルは鳴らさない。合図は無し。黙って一分」朝永が断りを入れた。
座長が頷き、短く挨拶をした。「司城のために、一分だけ――音を止めよう」
明かりがわずかに落ち、空気が固まる。人の呼吸が薄く揃い、静寂が舞台を満たす。
その、三秒目。
――チーン。
舞台袖から、ごく微かな金属音。古いベルの余韻に似ている。誰も動かない。だが耳は、音を追う。
五秒。
――チーン。
もう一度。二度。
私は首筋に冷たいものが走るのを覚えた。黙祷の中に、合図が紛れ込んだ。
瞬間、上手寄りの床で軽い震え。私は反射で目を落とす。仮設奈落口の角――スライドボルトが、内側から勝手に落ちた。
糸だ。SO-3の記号どおり。
「志段!」声が出るより早く、志段がそちらへ二歩踏み込む。床板の角を靴先で押さえようとした刹那、蝶番のビスが二本、抜ける音がした。右上がりの削り跡――昨夜見た割りピンと同じ癖のミニルーターだ。
板が跳ね、志段の片足が空を掴む。奈落が口を開けた。
私は飛び込む。志段の上腕を掴む。――重い。錘のように重い。彼の腰に工具ポーチ。私は片手で桟を掴み、もう片手で彼を拉き上げようとした。
そのとき、上で何かが落ちた。
ザザッ――珪砂の音。
サンドバッグがアーバーに吊られ、返しで止まっていたのが、解けた。
重さが線を走る。綱が唸る。カウンターウェイトが下がり、バトンが上がる。いや逆だ――どちらも動く。均衡が崩れた瞬間、舞台の重さは牙になる。
ガン――
鉄の角が志段の肩甲へ当たる音。息が潰れる。指から、重さが抜ける。
志段は落ちた。奈落へ。
沈黙の中で、重さだけが音を出した。
明かりが跳ね、非常灯が滲む。朝永が駆け、上手の警官が封鎖線を跨いで奈落梯子へ。私は床縁に身を伏せ、仮設口の桟を確かめた。蝶番のビス穴の木口が白い。回転砥石の焼けはない。研磨ではなく抉り。右手で上手側から手前に引くと抜ける向き――昨夜と同じ加工癖。
床際に白い粉。木粉に珪砂が混じる。そして、ロジンが薄く。
三つの粉が重なる場所は、犯行動線の真上だ。
奈落から声。「脈が……薄い!」
私は梯子を降り、志段の口角に触れ、顎先を上げ、気道を確保する。肩に鈍い陥没。鉄角が入った。息が浅い。
「救急を急げ!」朝永の声が舞台に跳ね返る。
志段の瞼がわずかに震え、目が私を見た。口が動く。
――「……ベル……二度……」
私は頷いた。聞こえている。
彼は、そこで、落ちた。
三人目の死者――舞台監督、志段。
*
舞台は一時封鎖された。鑑識が粉を掬い、ビス穴を採り、ボルトを外し、糸の繊維を拾う。上手のアーバーの安全ピンは、新品の銀。頭に薄い削り。返りは右上がり。同じ刃。
私は袖で、ベルの音源を探した。舞台用ベルは外してある。ならば、何が鳴った?
照明卓。フットスイッチの横に、キュー用の小型ベル。三雲が「打合せ用に置きっぱなしだった」と顔を曇らせる。鳴線は卓から袖へ。誰でも手が届く。
「黙祷の最中に鳴らすには、指が要る」
「僕じゃない……。今日は袖から離れませんでした」
「知っている」
私はフットスイッチの底を見る。昨夜のような油はない。代わりに、ゴムの縁に木粉が噛み、白くなっている。仮設口の縁に触れた者の足が、卓に戻った――動線だ。
応接。座長が蒼白の顔で椅子に沈み込んでいる。高科は壁際で震え、尾花は拳を握りしめて立っていた。
「黙祷でベルが鳴った。二度だ。誰が鳴らした?」朝永が静かに問う。
沈黙。沈黙は重い。
「……私です」高科が手を上げた。
皆の視線が集まる。
「三雲くんが、キュー練習の名残だと言ったので、テストのつもりで……でも、二度鳴らせと言われたわけでは……」
「誰に、テストを?」私が重ねる。
「つば広の男に――CD-Rを渡したあの人に。『時間は楽器だ』って。『黙祷にも拍がある』って。……私は、台本を信じてしまった」
朝永が頷き、記録係に合図した。
私は別の角度から訊く。
「志段が仮設口へ向かった二歩――条件反射だ。音が鳴れば、舞監の体は動く。それを待っていた手がある。糸はどこから?」
「上手袖の化粧鏡のプレートの縁に、微傷がある」三雲が口を挟む。「昨日の女優楽屋と、同じ癖で外してあります」
私は立ち上がり、上手袖へ向かった。スイッチプレートのビスは六角。噛み跡は均一だが、角に一度滑った傷。精密ドライバーの細い刃。プレートを外し、内側を覗く。薄い溝。糸が通っていた道だ。
足下に粉。木粉、珪砂、ロジン。三色。
四つの手(仕掛け/合図/台本/空中)が、同じ場所を踏んだ痕跡だ。
*
夜。私は下宿へ戻る前に便箋を受け取った。差し込まれた封筒。紙はいつもの繊維。筆圧は浅い。
『舞台監督は時間の番人。――番人がいなくなれば、拍は自由になる』
もう一枚。
『SO-3完了。SO-4は客席**。立ち上がる死体を座らせよ』**
私は紙を透かし、筆跡を分けた。二通。二人。
SO-3に志段の死。SO-4に客席。次は――劇場に戻る。
机に粉を並べる。木粉は生の匂い。珪砂は鈍重。ロジンは軽い。
重さは、殺意の言葉だ。軽さは、合図のささやき。
私は事件簿を開き、頁を起こす。
――三人目の死者:志段(舞台監督)。仮設奈落口の外落とし+上部アーバーの返し外し(サンドバッグ補助)。ベル二度混入による条件反射の誘導。SO-3(奈落の重さ)。
――同一工具癖の継続:右利き/上手側/回転砥石。
――糸の道:スイッチプレート裏の溝。
――粉の三重奏:木粉/珪砂/ロジン。
――合図の手=高科(ただし扇動による)。仕掛けの手は別。台本の手は外。空中の手は未特定。
――次は客席。立ち上がる死体を座らせる――逆操作。
私はペンを止め、窓の外の暗へ息を吐いた。
祈りは、音を止めるためのものだった。だが、黙祷に合図を紛れ込ませれば、舞台監督の体は反射で動く。第四の手が重さを下ろす。
脚本家は、沈黙すら楽譜にしている。
その夜、私は尾花に短い電話を入れた。
「今夜は小屋を離れろ。客席には座るな。立つなら通路だ。前ではなく後ろから拍を聞け」
「……はい」
「ベルが二度鳴ったら、目を閉じろ。音に視線を持っていかれる」
受話器の向こうで、小さな深呼吸。
「津守さん。終わるんですか、これ」
「幕は降りる。だが、その前に、二人が落ちる」
口に出してみると、数字は奇妙に軽かった。軽さは罪だ。私は受話器を置き、机の上の粉を一筋に引いた。
*
翌日、舞台の封鎖が解かれる時刻に合わせて、私は客席の調査に入った。SO-4が客席と言うなら、座面か肘掛けか、あるいは通路灯。
二列目中央の座面を持ち上げると、支点のボルトに新しい傷。六角の噛み跡に、右上がりの返り。――同じ刃。
座面の裏、薄いスリット。糸が通せる幅。
私は席を閉じ、指で肘掛けを撫でる。鹿革の粉が、うっすら。
座らせよ――立ち上がる死体を座らせよ。
誰を座らせる?
舞台に立ちたがる者か、舞台から降りられない者か。
――あるいは、私か。
客席最後列で、鏡見がこちらを見ていた。
「席は、観客のためだけにあると、いつから錯覚していた?」
「席は、視線を留めるためにある」
「その通り」
彼は通路を降りてきて、二列目の中央に腰を掛ける仕草だけをゆっくりと見せ、座らずに立った。
「座った瞬間、視線は固定される。立っている間は、揺らせる。脚本家は、座るか立つかまで書く」
「誰が“読む”」
「読めるように書く。紙は口が軽い。舞台より、ずっと」
彼は笑った。私はその笑いの軽さの下に、重さの影を見た。
私は事件簿を閉じ、帽子を取る。
SO-4の稽古は、もう始まっている。座る者を選ぶのは、脚本家だ。だが、座らない者を選ぶのは、探偵の役だ。
私は通路に立ち、一拍だけ、深く息を吸った。
第四幕「奈落の重さ」では、黙祷=沈黙を合図に変えるという逆転の手口を提示し、三人目の死者(志段)に至りました。
本文中のフェアな手がかりは次の通りです。
•SO-3の図面:仮設奈落口・蝶番・スライドボルト・糸道の記号/寸法線フォントの癖(=外部作図の匂い)
•同一工具癖:右利き/上手側/回転砥石(割りピン・蝶番ビス・座面ボルトに共通する右上がりの返り)
•粉の三重奏:木粉(床・座面)/珪砂/ロジン(綱・手袋)=犯行動線の可視化
•条件反射の誘導:黙祷中のベル二度→舞監の反射行動→仮設口へ二歩→同時に上から重さを落とす二重仕掛け
•役割分担の明確化:合図の手=高科(扇動による)/仕掛けの手=不詳/台本の手=外部/空中の手=未特定
•次の改稿予告:便箋とSO-4(「客席」「座らせよ」)/二列目中央座面の新しい加工痕と糸道
これで死者は三人。残るは二人。
犯行は一貫して、同じ楽譜(SO)を改稿しながら演奏されている。観客の拍・沈黙・重さ・座る/立つの切替――舞台言語そのものが凶器だ。
次幕では、客席トリック(SO-4)の検証に踏み込み、台本の手をデータの癖(アウトライン化・ICC・寸法記号)から絞り、仕掛けの手を工具痕と動線から追い詰める。
座るな。立て。立ちながら、一拍だけ先に呼吸を合わせるのだ。探偵の稽古は続く。