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玻璃座連続殺人事件  作者: 時任 理人
始まりの事件
3/10

通りの綱

 舞台の外に出た瞬間、芝居は消えるか。

――いいや、消えない。

通りは仮設の劇場であり、群衆は最も従順な幕だ。

第二幕で私は、楽屋の鍵が糸と一拍の遅れで外から回される様を確かめた。第三幕では、小屋の外――商店街の大道芸が“上演”される。ロジンで指を効かせ、綱に張力を渡し、拍手のテンポを訓練して“合図”を仕込む。舞台装置の名を借りた**作戦オペレーション**は、路上でこそ完成する。殺意は、観客のざわめきの中で“正解のタイミング”を与えられるのだ。

第三幕

 

 夕刻の商店街は色を変える。乾いた日中の白が、屋台の裸電球に照らされ、暖い黄へと沈む。私は帽子のつばを指で押し上げ、アーケードの端に立った。朝永警部と志段が左右に位置を取り、尾花は人混みに紛れぬよう、私の背中の陰に入っている。

 張り紙には〈祈りの通し・応援大道芸〉。小さく協賛:玻璃座制作部。傍らのカゴでは、薄手の鹿革手袋が「防寒ノベルティ」と記されて配られていた。高科が機械のような手際で手袋を渡すたび、掌の末端でロジンの粉が微かに跳ねるのが見えた。


「手袋は回収できるか」私は小声で訊く。

「配布物を取り上げる名目がない。終わってからだな」朝永が顔だけこちらに向ける。

「終わってからでは遅い。拍手を鈍らせるための配布だ。テンポが変わる」

 志段が頷く。「拍が鈍れば、合図の遅れが紛れる。袖でやられたのと同じ理屈だ」


 広場側に、背の高いAフレームが二基立った。鋼管をクランプで繋いだ即席の門。横梁からは滑車が二つ吊られ、間に綱が渡る。両端はアイボルトにかかり、ガイロープが支柱に返され、サンドバッグ(中身は珪砂)でテンションを与えられていた。滑車脇には目立たぬクイックピン――抜けばテンションが一気に崩落する快速脱の仕組み。

 大道芸人は口髭の中肉中背。古びたラジカセを肩にのせ、マイクなしで声を通す。道具箱の口には、白いロジン袋が覗いている。彼はまず、観客を“訓練”した。

「拍手の練習をしよう! せーので、一回!――もう一度!」

 配られた鹿革は拍手の高域を削り、街路の反響が鈍い。芸人は満足げに笑む。

「いいね、いいテンポ。次は“わーっ”の練習! せーの!」


 遅延は作られる。

 卓のフットスイッチの代わりに、“練習”で観客の反応速度を固定する。一拍の遅れを共同作業として育てる――私はその目論見を目で追った。


「この綱は綱渡りでもブランコでもない」志段が言う。「二本の支え綱が補助に見えるが、殺し綱だ」

「割りピンは」

「上の横梁の快速脱。削ってあれば指先ひとつで抜ける」

「誰が抜く」

 私は視線を広場の四隅へ散らした。フレーム基部の足下――サンドバッグの口から珪砂が薄く漏れている。撒いたのは誰だ。

「……あの人、昨夜、客席で手袋をしてた」尾花がささやく。

 顎が示す先、紺のハンチング帽の男。痩せた頬、薄手の鹿革。ポケットにはCD-Rの角。仕込み観客の匂い。

 私は朝永の肘に触れ、目線だけ合わせる。「対象、あれだ」

「抑えは用意する」朝永の返答は短い。


 演目が始まる。ジャグリングは前座にすぎず、メインは綱だ。芸人は観客からボランティアを募る。

「この支え綱、そこの紳士に持ってもらおう」

 選ばれたのは、あのハンチング。礼の角度が滑らかすぎる。舞台慣れした動き。彼は綱を握る指にロジンをまぶし、指腹を擦った。芸人が茶化す。

「お、慣れてるね。じゃ、合図で君は引く。僕は飛ぶ。せーので拍手を」


 芸人が片足で地を蹴る。横梁の滑車が唸り、テンションが乗る。支え綱はハンチングの掌へ、確かな手応えを返す。

 私は瞬膜のように目を細めた。滑車脇の快速脱――割りピンが半ばまで抜けている。誰かが近づけば、落ちる距離。

「警部――」

「見てる」


 芸人が合図する。「せーの!」

 拍手が鈍く重なる。一拍、遅れる。

 その遅れに合わせ、横梁の影で細い手が動いた。割りピンが跳び、快速脱が開く。綱のテンションが崩落。

 支え綱が跳ね、蛇のように男の喉へ巻き付く。体が引かれる。芸人がよろめく。観客の「わーっ」は歓声にも悲鳴にも聞こえる曖昧な音へと崩れる。鹿革の手は拍手を呼ばず、音は遅れて散った。

 私は走る。折り畳みナイフで返し結びの喉下を切りに行く。だが、ガイロープにロジンの粉が噴いた。滑り止めが一瞬だけ滑りを生むように、粉が逆目に効いて刃の入りが遅れる。

 男の眼が丸く開き、声にならない空気が喉から漏れた。二度目の刃で綱は断ち切れたが、体は地に崩れ、首筋に紫の帯が浮いた。

 芸人は後ずさり、両手を上げる。「違う、違う、これは演目じゃない!」

 群衆が退く。鹿革が擦れ、音は吸い込まれ、一拍遅れて悲鳴が返る。ここにも視線の空白が生まれた。


 朝永が踏み込み、制服二人が人垣を割る。私は男の胸骨中央に掌を当て、圧迫の位置を探る。――遅い。

 男は、二人目の死者になった。


 粉が物語る。珪砂がサンドバッグの口から、男の胸の角度に沿って薄く落ち、ロジンは綱の結び目に濃い。二種類の粉が同じ場所で重なる。

 見上げれば、横梁の快速脱に、割りピンの切口が残る。新品の銀白。削ってある。昨夜見た割りピンと同じ刃――刃角は浅く、ヤスリよりミニルーターの砥石に近い傷。切削方向の返りが右上がりだ。右利きが上手側から削った痕跡。


「抑えろ!」朝永の声。

 広場の隅で影が走る。鹿革の配布籠を抱えた高科が、逃げるのではない――隠そうとしている。私は腕を伸ばし、彼の手首を軽く掴んだ。

「それは証拠だ。いったん預かる」

 彼は泣きそうな顔で首を振る。「違います、私は――」

「違うなら、違わない場所で話そう」

 朝永が来て籠に封をする。高科の鹿革の掌にロジンがうっすら。瞳は怯えと、そして覚悟。誰かを守る者の目だ。


 大道芸人は道具箱の前で手を震わせていた。箱の角に白い油膜――シリコンオイル。

「誰か、君の道具に触ったか」

「昼間、制作の人が下見に来て、『通りなら固定が必要』って。支柱の角度を直すって、上の金具に触って……」芸人は横梁の快速脱を指差す。「ぼくはピンなんて触らない。抜けたら死ぬ」

「ピンを持っていたのは誰だ」

「痩せた男。手袋。ハンチング……じゃない。帽子はつば広だった」

 ハンチングは今、二人目の死者だ。つば広は別の影。合図と仕掛けは、今日も別の手だ。


 志段が支え綱の結びを見ていた。

「止め結びに返しが入ってる。舞台の人間の癖じゃない。登りの人間……サーカスかクライマーだ」

「ロジンは演芸でも使う。だが結びの手は、空中の癖だ」私は頷く。

 外部の職能――第四の手の匂いが濃くなる。


     *


 夜半、場所を〈玻璃座〉に戻し、応接で簡易聴取。高科は目を赤くし、ハンカチを握りしめている。

「私は、配れと言われたんです。座長に」

「手袋まで?」

「『祈りで手を冷やすな』って。……でも鏡見さんが『拍手の高域が邪魔だ、鹿革にしろ』とも」

 朝永が私を見る。私は小さく首を振った。

「鏡見は言葉で人を動かす。だが直接の手ではない。誰かの手に“台本”を渡す役だ」


「今日、つば広の男に会いました」高科が震える声で言う。「CD-Rを渡されて、『これが通しの台本だ』って。final3って書いてあって……怖くて中身は見てない」

「そのCD-Rは」

 彼は透明ケースを差し出す。ラベル縁に黒い擦れ。ケースの端には、ごく薄いロジン。私は指で粉を移し、封をする。

「誰だ」

「背の、高い人。声は低くて、演劇っぽくない。台本って言いながら、台本を嫌ってる感じがする人」


 CD-Rは押収され、警察の技術係が開く。テキストはほぼ空。だが画像がある。通りの見取り図、Aフレームの角度、快速脱の型式とピン径、工具番号。ファイル名はSO-2、SO-2改。

「Standing Operation、第二稿」私は呟く。

 ――小屋→楽屋→通り。作戦は拡張し、改稿され続けている。


     *


 控えで尾花を外へ送り出す前、私は言った。

「今日、手袋を受け取らなかったのは、よくやった」

「怖かっただけです……。私、観客になれない。役者なのに」

「観客になれない役者は舞台にいるべきだ。通りに出れば、脚本家に拍を取られる」

 尾花は二度頷き、言葉を飲み込んだ。


 下宿に戻り、机上で粉を並べる。珪砂――重い。ロジン――軽い。指で混ぜ、光に透かす。重さは仕掛けの手の肩に、軽さは合図の手の指先に。

 そして紙は、どこにも載らず、ただ口が軽い。台本の手は、外で笑っている。


 私は事件簿の頁に記す。

 ――第二の死者:仕込み観客(男・ハンチング)。支え綱の返し結びで頸部圧迫。横梁快速脱の割りピン加工。SO-2(通りの綱)。

 ――粉の重ね(珪砂×ロジン)=犯行動線の可視化。

 ――割りピンの刃角と返り=右利き/上手側の加工癖。工具はミニルーター系。

――手袋配布=拍の制御=視線の空白の延伸。

――三つの手(仕掛け/合図/台本)+空中の手(結び)=四重奏。

 ――外の言葉が内の手を動かす。


 窓の隙間から夜風。遠くのトラックのエアブレーキが、やはり一拍遅れて鳴った。

 私はペンを止め、静かに思う。

 観客は凶器になり、拍は刃になる。通りは舞台になる。

 ――今回の“演出家”はもう舞台にいない。だが“脚本家”は、どこかで拍を取っている。


     *


 翌朝。私は〈玻璃座〉のピンレールにいた。志段が差し出す割りピンは、昨夜のものと同規格。私は懐のルーペで切削痕を舐める。

「45度より浅い刃角。回転砥石の軌跡。返りは右上がり。右手で上手から、手前に引いた」

「職人が見れば分かるもんだな」朝永が呟く。

「犯人は舞台の人間である必要はない。工具と訓練のある外部だ。だが合図を合わせるには台本の手がいる。――四手は同じ楽譜を見ている」


 私は志段に向く。

「今日は通しをやめろ」

 志段が苦く笑う。「座長は祈りに縋ってる」

「祈りは拍を呼ぶ。拍は凶器だ」

 朝永が息を吐く。「止める段取りは俺の役だな」


 踵を返そうとしたとき、袖の暗がりで鏡見礼と目が合った。

「昨夜は見事な“演出”だったね、探偵」

「“演出”は、誰の言葉だ」

「言葉はいつだって引用だよ。台本があるから、人は安心して拍を打つ。――台本がなければ、拍は遅れる」

 彼は細く笑い、緞帳の影に消えた。

 引用。遅れる拍。私は胸の内で単語を並べ替える。SO-2改――第二稿。引用の記号。

 台本の手は、剽窃する――観客心理を。


 私は帽子を目深にかぶり直した。

 ――第三の死者は、きっと内部から出る。

 ――四手の呼吸が狂えば、代役が落ちる。

 私は一拍だけ先に、息を整えた。

 第三幕「通りの綱」では、小屋の外=商店街を舞台に、観客の拍そのものをキューとして用いた犯行を描いた。結果、二人目の死者(仕込み観客)が出た。

フェア・プレイのため、本文に以下の手がかりを明示してある。

•張力の罠:Aフレーム+横梁の快速脱(加工済み割りピン/刃角と返りの向き)/支え綱の返し結び

•粉の重ね:珪砂サンドバッグ×ロジン(効かせと逆目)→犯行動線の可視化

•拍の操作:鹿革手袋配布→高域吸収→一拍の遅れの固定(“練習”という名のキュー仕込み)

•外部からの台本:CD-R(final3/SO-2改)に見取り図・型式・工具番号を格納

•役割の分担:仕掛けの手/合図の手/台本の手に加え、空中の手(結びの職能)という第四の手


ここから先は、

•工具痕と作図データ(アウトラインの癖/フォント埋め込み)で台本の手を絞り、

•割りピン加工と綱の結び癖で仕掛けの手を狭め、

•拍の訓練を実行できる現場動線から合図の手を抜き出す。


次幕では、内部で第三の死者が現れ、四つの手の呼吸ズレが露呈するはずだ。

拍は凶器になる。視線の空白は刃となる。――そして、脚本家はまだどこかで、拍を取っている。

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