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玻璃座連続殺人事件  作者: 時任 理人
始まりの事件
2/10

楽屋の密室

 舞台は芝居を映す鏡である、と人は言う。だが鏡はしばしば、背後の暗いものをも映す。

前幕で私は、倉庫の内ボルトを外から落とす仕掛けと、「立ち上がる死体」を可能にした視線の空白を見た。今幕は、舞台の心臓――楽屋に巣食った密室を検証する。

密室とは、鍵穴の問題に見えて、実は時間の問題である。誰が、いつ、どこで――この三拍子を、私はまたもや「一拍の遅れ」で聴き分けることになる。

第二幕


正午、私は〈玻璃座〉のピンレールに立っていた。舞台上手かみてを見下ろすフライギャラリーに細い猫道。昨日、割りピンが抜かれかけていた場所だ。金属の耳に触れると、わずかにロジンの粉が指についた。ロープに効かせるための粉。

 下から志段が叫ぶ。「無理すんな、足もと気をつけろ!」

 私は頷き、セーフティを腰に回して猫道を戻った。舞台裏の空気は、いつもより冷たい。人が死ぬと小屋は冷える――それは迷信ではなく、動線が硬くなるからだ。誰もが足音を潜め、呼吸を削る。


 志段とともに楽屋の廊下へ降りる。木の床は古く、釘頭が時折、乾いた光を放つ。右手が女優陣の楽屋、左が男優陣。さらに奥に個室が二室。昨日から封鎖という札が紐で留められていた。

「司城の私物は?」

「警察が持ってった。鍵束は……足りない一本はまだ見つからん」


 志段が立ち止まり、電気温水器の脇でしゃがむ。「見ろ」

 床に、砂粒がかすかに残っていた。舞台のそれより細かい。私は指先で撫で、舌の上で砕けるふりをして袖布で拭った。

「珪砂。昨日は舞台上にあってはならない場所に“登る”粉だったが、今度は下ってきている。……誰かが舞台から楽屋へ、粉を運んだ」

「黒衣の靴底か?」

「黒衣なら、もっとべったり付く。これは薄い付着だ。手袋――鹿革の薄手に、ほんのり乗る程度。廊下の角、壁際だけ、粉が増える」


 私は粉の稜線を追い、女優楽屋の扉前で止まった。内鍵はサムターン。外側に鍵穴はない。扉の下は指一本がやっと通る隙間。

「このサムターン、外から回せるか?」

「無理だ。板厚がある。……いや、隙間からならフックでいけるかもしれんが、角度が悪い」

「扉の上は?」

 志段が見上げる。欄間はない。古い小屋によくある作りだ。私は廊下の照明スイッチを見やり、プレートの縁を指で押した。ゆるい。一度外されている。

「昨夜、誰かがここで何かを通した。――糸か、細線か、光か」


 ドアの向こうで気配がした。尾花里奈が、小声で「入って」と言った。封鎖は女優全体ではなく、尾花の私物の移動のため一時解除だという。私は志段とともに中へ入った。

 楽屋の化粧鏡の周りには、丸い球の照明が並ぶ。鏡面には、白粉と口紅の薄い指跡。机の端に置かれたハンディファン――舞台終盤に汗を飛ばすための小型扇風機――のケーブルが、ねじれていた。

「昨夜、ここで何か変は?」

「鏡の明かりが一瞬落ちたんです。すぐ戻りましたけど。……あとで照明オペの三雲くんが“分岐の接触が甘い”って。直してくれたって」

 私はケーブルのねじれ癖を指でほどき、プラグの歯に薄い焦げを見た。

「三雲は今どこだ」

「……控えで謝ってる。自分のミスだって」

「彼にもう一度、昨夜の再現を頼む。志段、安全監督に就いてくれ」


   *


 午後二時、照明室に入る。アナログ卓にDMXの小さなインターフェイスが繋がり、奥には旧式のディマーラックが唸っている。三雲は目の下にくまを作り、「すみません」と繰り返した。

「謝るのはあとでいい。昨夜どおりの遅延を、もう一度書いてくれ」

「……できます。キューは覚えています」

 紙のキューシートには、昨日私が見た赤字――+0.7s/+0.4s/+1.1sが残っていた。三雲がDMXの遅延マクロを呼び出し、該当キューにかける。卓のフットスイッチは、昨日より軽い。

「昨日、これが重かったんです。踏んでも反応しない瞬間があって」

「フットスイッチの底面を見せてくれ」

 私は裏返し、滑り止めゴムに粉を見た。ロジン。さらに、薄い油膜。

「誰かが、わざと滑らせた。ロジンと、少しのシリコン油。一瞬踏み込みが遅れる。……観客の笑いが起きる一拍前に、卓の手を遅らせる」


 三雲は顔を歪め、肩を落とした。「僕のせいで」

「違う。作られた遅延だ。君は被害者だよ。――君をもう一つ頼む。女優楽屋の鏡前の明滅を、当時のまま再現してくれないか。配線の分岐、ケーブルの捻じれ、全部」


 三雲は頷き、オシロのように丁寧に卓を扱い、ケーブルを引き直した。私は楽屋へ戻り、鏡前に座った。尾花が緊張した手でハンディファンを握る。私はスイッチに視線を落とし、隙間を見た。

 ――プレートが外され、薄いものが通せる。

 私は胸ポケットから透明の細線を取り出し、サムターンの上で結びを作った。木綿糸でもできる。結び目に返しを作り、下へ垂らす。

「合図が二度鳴ったら、糸を引く。サムターンは回る。糸は返しで切れる。外から鍵が掛かる」

「でも、どうやって糸を通すんですか」

「昨夜未明、誰かがプレートを外した。いまも外せる。――分岐の修理を口実に」


 尾花は小さく息を呑んだ。「三雲くんが?」

「三雲でなくていい。分岐という言葉を出せる者は誰だ。照明、電設、制作。制作がCD-Rで差し替えを持ち込めるのと同じ手際で、工具も借りられる」


 私は糸をしまい、鏡の電球を一本だけ抜いた。明るさがわずかに落ちる。

「鏡前の照度が落ちると、人は顔を近づける。鍵に近い場所へ。そこで糸が見えなくなる。……楽屋の密室は作れる」


   *


 検証が終わると、志段が走ってきた。「座長が呼んでる」

 座長の控えは、古いソファと譜面台しかない殺風景な部屋だ。痩せた男は目の下に陰を落とし、「通しは中止だ」と言った。

「昨日の“事故”は祈りのつもりだった。司城のために一度だけ、幕を通したかった。だが、もう舞台に神は下りない。……探偵さん、君は誰を疑っている」

「“誰”ではなく“何人”。仕掛けの手と合図の手、少なくとも二人。それに台本を書く手がもうひとつ」

「鏡見か?」

「名前は言っていない」

 座長は薄く笑った。「批評家はいつだって、舞台の外から糸を引くさ」


 部屋を出ようとしたとき、廊下の向こうで甲高い悲鳴が上がった。私は反射的に走る。男優楽屋の前に人だかり。扉は内側から施錠。廊下の床には、細い糸が切れ端で落ちている。

「開けろ!」

 志段が肩で体当たりし、扉を破った。中では、照明オペの三雲が、衣装ハンガーパイプに首を引っかけるように倒れ込んでいた。まだ温かい。私はすぐに支え、志段がハサミで細線を切る。呼吸はある。

「救急車!」

 朝永が跪き、脈を取る。「間に合う!」

 私は床を見た。糸の経路。サムターンの上に結びが残る。窓はない。鏡の前の電球が一本切れている。

 ――同じ手だ。だが、未遂。

「三雲、聞こえるか」

 彼の唇が動く。乾いた音が漏れる。「……ごめんなさい。ぼく、踏んでないのに、遅れて。……誰かが、油を」

「分かってる。君は、狙われた」


 三雲が運ばれていく。楽屋の床に、白い粉が残る。ロジン。それから珪砂。私は封筒に掻き集め、鼻で嗅いだ。

 ――吊りの手が、楽屋の鍵に触れた。

 同時に、廊下のプレートのビスが一つ、緩んでいるのを見つけた。私はドライバーで軽く締め直し、傷の形を覚えた。小さな六角の噛み跡。レンチではない。精密ドライバーだ。


 朝永が肩越しに覗く。「どうだ」

「楽屋の密室は、昨夜の倉庫と同系統。だが今回は早かった。未遂に終わった。犯人の焦りが出ている」

「なぜ焦る」

「仕掛けの手と合図の手の呼吸が合っていない。昨夜は、ベル二度と照明遅延がうまく踊った。だが今夜は祈りの通しが短く、観客も少ない。立ち上がる拍手が生まれない。視線の空白が、十分にできない」

「つまり、観客が足りない」

「観客は凶器だ。数も、質も」


   *


 夜、私は印刷所〈東雲印刷〉の帳場に再訪した。工場長は、昼の受付印の控えを再び見せ、「制作の若い女性が差し替えを持ち込んだ」と繰り返した。

「手は、白かったか」

「インクは付いてなかったな。……いや、待てよ。ラベルの縁に黒い筋があった。カーボン紙みたいな擦れ」

「CD-Rのラベルに? ……謄写室にあったカーボン紙か、楽屋の誓約書の複写か。紙は舞台より口が軽い、と便箋にあった」

 私は礼を述べ、夜風に当たった。紙、差し替え、台本。

 台本は、誰が握る。座付き作者、演出助手、制作。そして――劇評家。

 鏡見礼は、台本の行間で生きる。私は薄笑いの浮かんだ横顔を思い出した。

 だが、彼を今ここで犯人に据えるのは早い。彼は外にいる。中で動くのは、粉と鍵と糸だ。外の手が、中に指示を落とす。CD-Rで、言葉で。


   *


 下宿に戻ると、また封筒が入っていた。便箋は、同じ繊維の節。筆圧は浅い。

 『観客を増やせ。彼らに手袋を配れ。――立ち上がる死体は二度目でこそ完璧になる』

 私は便箋を透かし、筆跡を見比べた。昨夜の「紙は舞台よりも口が軽い」とは、別の癖。複数が書いている。

 封筒の糊をそっと剥がし、口の接着を嗅ぐ。糊の匂いが弱い。スティック糊だ。制作がよく使う。

 私は事件簿の余白に記す。

 ――“作戦”は続く。観客を凶器に。手袋で拍手を鈍らせ、一拍の遅れを嵩上げする。

 ――仕掛けの手は、吊りと鍵に通じる。粉が案内役。

 ――合図の手は、卓とキューに触れる。油が証拠。

 ――台本の手は、紙と言葉で触れる。差し替えが証拠。

 三つの手が、同じ音符に合わせようとしている。だが、拍がずれている。焦りが音に出る。だから、今日の未遂が生まれた。


 私はペン先を止め、窓の外の暗に呟く。

 「――これは連続殺人だ。だが“犯人像”はひとつではない。代役が何人も立つ。脚本家は、笑いながらオケピで拍を刻む」


 遠くで、夜更けの貨物のブレーキが、一拍遅れて鳴った。


 翌朝、私は制作の女性に話を聞くことにした。彼女は名字を高科と名乗り、痩せた指に紙の切り傷を帯びていた。

「差し替えはあなたが?」

「座長の指示です。タイトルが誤植だったと。final2のラベルは私が書きました」

「あなたは昨夜未明、印刷所に?」

「……はい。二時過ぎに。――まさか、それが」

「そのCD-Rは今どこに」

 彼女はバッグを探り、透明のケースを出した。ラベルの縁に、黒い筋。私はケースの端を指で弾いた。ロジンの微粉が、ごく薄く指に移る。

「あなたの手袋を見せてください」

「手袋なんて」

 彼女は言いかけ、バッグから薄い鹿革の手袋を出した。「寒いから」

「舞台の中では、黒衣が黒い綿手を使う。鹿革は、外だ。……印刷所では、手袋を?」

 彼女は顔を曇らせ、黙った。

 私はそこで畳みかけるのをやめ、穏やかに言った。

「あなたを犯人扱いはしない。だが、あなたの周りに“手袋の指示を出す人”がいる。拍手を鈍らせ、視線の空白を増やすために」


 高科は口を噛んだ。「鏡見さんは、手袋を“美学”だって。『観客の身体性を制御するのが演出だ』って」

 私は静かに息を吸った。

 ――外の手が、やはり言葉で中を動かしている。


   *


 夕刻、私は朝永に報告した。彼は灰色の目でうなずき、封筒を指で弾いた。

「“観客を増やせ、手袋を配れ”。――扇動だな」

「観客を凶器にする作戦の改稿。脚本家は、まだ書き直しを続けている」

「今日、客は増えない。関係者しかいない」

「だから、奴らは別の場所で観客を増やす。通りだ。路上だ。外の拍手を借りる」

 朝永は眉を上げた。「……今日の夜、近所の商店街で大道芸が出る。通行規制の申請が出ていた。サーカス崩れのジャグラーだと」

「綱は出るか」

「火は出さない、と書いてあるが、綱は……」

「――綱が出るなら、張力が出る。ロジンが要る。観客が集まる。拍手が鈍る手袋が配られる名目が立つ」

 私は帽子を取った。「行こう。舞台は、もう小屋の外へ出ている」


 外は、すでに夕闇が落ちていた。私は歩きながら、紙のことを思った。紙は舞台より口が軽い。だが、紙は嘘もよく吐く。

 ――犯人は、代役。脚本家は、まだ笑っている。

 私はゆっくりと歩を早めた。第二の死は、きっと視線の空白の中で起きる。だが今夜は、私が一拍だけ先に手を打つ。

 第二幕「楽屋の密室」では、倉庫の密室と楽屋の密室が同系統の変奏であることを提示しました。共通項は次の通りです。

•視線の空白の創出(ベル二度、照明遅延、そして手袋による拍手の減衰)

•外からの内鍵操作(倉庫=内ボルト落とし/楽屋=サムターンを糸で回す→返しで糸切断)

•粉の二重性(舞台上に“登る”珪砂/楽屋へ“下る”珪砂+ロジン)

•卓の遅延の人為(フットスイッチのロジン+シリコン油)

•紙と言葉の作戦(差し替えCD-R/便箋の複数筆跡/「観客を増やせ」「手袋を配れ」)


また、第二の犠牲(未遂)=三雲を通じ、仕掛けの手/合図の手/台本の手という三位一体の犯行構造を明確化しました。

次幕では、小屋の外へ拡張した**“舞台”――商店街の大道芸が作る張力の罠と群衆心理を検証します。

観客は増える。拍手は鈍る。一拍の遅れは、凶器になる。

そして、代役はまた一人、脚本家の書いた拍に合わせて舞台から落ちる**でしょう。

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