立ち上がる死体
人生は劇に似ている。だが古い小屋では、観客と役者の境目は、ほんの一拍の遅れで曖昧になる。
本記録は、1998〜2005年頃の東京・下町にある小劇場〈玻璃座〉で発火した連続殺人事件を、私立探偵の一人称で綴る長編推理である。
初回に述べるのは、のちに「立ち上がる死体」として語り草になる幕の下り方――いや、幕の下りなさである。舞台装置とタイミング、そして観客心理そのものを凶器に変える作戦。幕が閉じたとき、初めて始まる推理劇を、あなたは客席からでなく舞台袖で見届けてほしい。
雨粒が瓦斯灯めいた街灯を叩き、細い路地に薄い光を敷いていた。私は濡れ帽を指で押さえ、木の扉を押し開ける。古びた木札に〈玻璃座〉。ロビーは狭く、靴音が一つ増えるごとに空気が重くなる。
背広姿の私は場違いに見えたかもしれない。だが観客席に潜るのは、この稼業には好都合だ。依頼の名残でここに来た。劇団の女優から、演出家が舞台を「仕掛けだらけ」にしていると耳打ちがあったのだ。
場内は暗く、吊り物の滑車が不釣り合いに多い。ガムテープで仮留めされた配線が天井を這い、舞台上には珪砂の袋。小屋の規模にそぐわぬ重装備は、それだけで不穏だった。
三列目通路側。私は腰を下ろし、喉の奥で息を整える。生乾きの木の匂い、古い緞帳の粉。客電が落ちる直前、照明卓の赤い LED が瞬いた。
暗転。――ベルが二度、短く。
おかしい。合図は通常一度だ。照明が上がる。だが一拍遅れて立ち上がった。
舞台中央、棺。演目は『終劇礼賛』。粗筋は、死体が最初から舞台に横たわっている、という前衛のつもりの形式だ。棺の縁から、髪の毛のように細い透明のラインが一本、流れる光に銀糸のように光った。遺体役の首元へ触れるか触れないかの高さ。演出意図が分からない。
第三場。袖から黒衣が走る。滑車が鳴き、上手側で合図の手が動く。私は違和感を拾い続けた。照明の切り替えがまた遅れる。音響卓の指もたつき。観客は気づかない。だが芝居の理に鼻を利かせる人間には、ズレは匂う。
そして、起きた。
棺の死体が立ち上がった。
客席に「え?」と小さな波が広がる。黒衣の一人が袖で固まるのが見えた。舞台監督らしき低い声が何か言い、しかし合図は飛ばない。
遺体役の青年は、客席へ向き直ると、よく通る声でこう言った。
「臨時ニュースです。昨夜未明に私が死にました。」
静寂が、爆笑に転じた。私は笑わない。青年の喉に、透明ラインが擦った赤い線が見えたからだ。
降りるはずの幕が、一拍遅れて降りる。客電が上がり、賛辞の拍手が雪崩になって、やがて立つ者が出始めた。スタンディング・オベーション――いや、この夜に限っては、そう呼びたくなかった。
私は通路へ出た。古い木戸の向こう、袖と倉庫へ通じる狭い廊下から、鉄の匂いが風に乗ってくる。
袖で黒衣が走り回っている。女優の一人が、私を見つけて駆け寄った。彼女は昼間、匿名で電話をしてきた人物だ。
「来てくださってたんですね。――津守さん」
「舞台は見た。違和感も」
「こっちへ」
彼女は私の腕を掴み、上手側の小道具倉庫へ引く。扉は内側のスライドボルトで施錠されている。叩いても反応はない。舞台監督らしき男がレンチを差し、木製扉を構造ごと捻じ、ボルトを外した。
押し開けると、湿った鉄の匂いが濃くなった。薄い金属ライトの光が床を撫で、私は吐き気を堪えた。
演出家――司城詠一が、喉に舞台用ワイヤを巻かれ、仰向けに倒れていた。右手には紙片。顔は驚きのまま固まり、結び目は素人目にも分かる左締め。
倉庫には窓がない。換気ダクトは腕も通らぬ幅。扉は内側でボルト。密室だ。
床には珪砂がこぼれている。私は屈み、砂の掃き跡を指先で辿った。雑に見えるが、境目が妙に強調されている。――残るように消した痕跡。
「救急と警察を」
舞台監督が低く言い、黒衣が走る。私は司城の右手の紙片を覗いた。震えた線。だが意味は明瞭だった。
――さあ、私を仲間にして、最高の脚本を。
稽古初日に演出家が放った口癖。そのままの言葉。だが筆圧の乱れは、死の瀬で書いた者のそれにしては整いすぎている。
観客のざわめきの中、細い体軀の男が私の横に立った。痩せぎすで背が高く、目は冷たい。
「いいアドリブだったね、さっきの“死体”。劇は救われた」
「あなたは?」
差し出された名刺には、鏡見礼とある。演劇批評家、犯罪心理の論考でも知られた署名だ。
「あなた、客席でやけに落ち着いていた。職業病だろう?」
「私は私立探偵。落ち着いて見ないと損をする仕事で」
「なら、これも見ておくといい」
鏡見は床に落ちていたパンフレットを拾い、表紙を指で弾いた。
〈スタンディング・オペレーション〉。
笑っていいのか迷う誤植。オベーションではなく作戦。
「印刷所の凡ミスにしては、他は整っている。意図的に差し込まれた“言葉”だとしたら、芝居全体が作戦だと言っているのと同じだ」
通報から程なく、私服の刑事が数名、制服が二名、裏口と客席側を封鎖し始めた。四十前後の、少し猫背の警部がこちらを見る。
「観客さん。――朝永という」
「津守です」
「観たろう? 何でもいい、最初の印象を」
「ベルが二度。照明が遅れた。死体役の青年の喉に擦過傷。倉庫は内ボルトで密室。結びは左締め。床の珪砂は“残るように消した”。そしてパンフの〈スタンディング・オペレーション〉」
朝永はうっすら笑った。
「欲張りだ。だが、要点だ」
「要点というより“時間”です。誰に、どの一拍の遅れを与えたか」
私は袖へ戻り、吊り物の滑車を見上げた。縁に白い粉が付着している。指で拭って、袖布で落とす。珪砂。落ちるはずのない場所に、砂は登っていた。
照明卓では、若いオペが震える手でキューシートに赤ペンを入れている。覗き込むと、
――「CUE#12→13:+0.7s」
――「13→14:+0.4s」
――「14→暗転:+1.1s」
元は鉛筆だが、上から赤でなぞられていた。
「遅れた、と自分で書いたのか?」
「はい……すみません。フットスイッチの反応が一瞬遅れて。こんなの初めてで」
「コンソールの接点不良か?」
「朝の場当たりでは問題なかったんです」
オペの背後に、先ほどの黒衣が一人立つ。舞台監督が来る前に、といった表情だ。私はオペの肩を軽く叩き、彼が責められすぎぬことを祈った。
遅延の一拍が、袖の視線を舞台へ縛り付けた。倉庫前は空白になる。
踊り場に、遺体役の青年が座り込んでいた。汗で髪が額に貼り付き、喉を指でさすっている。
「大丈夫か」
「……はい。あの、俺、鵜飼陸です。すみません、勝手に立っちゃって」
「勝手、ではないだろう。引かれたんだ」
彼の喉には、横方向に薄い赤線。外側が深く、内側へ薄い。上手袖の方へ横力がかかった痕だ。
「第三場、首に何かが食い込んで。あの透明ライン、演出では触れないはずなのに。思わず体が逃げて、立ち上がって――何か言わなきゃって、あの一言が出て」
「『昨夜未明に私が死にました』」
「……自分でも、どうしてその言葉が浮かんだのか」
「昨夜未明、誰がここにいた?」
「仕込み延長は聞いてました。でも俺は帰りました。二十三時台の電車で。ロビーに鏡見さんがいたので挨拶して」
私は頷き、喉の傷をもう一度眺めた。意図された失敗――死体役に触れさせる仕掛けは、未完成のまま走り出したのだ。
袖から戻ると、倉庫の前に朝永がいた。手には透明のライン――ポリウレタンの細線と、小さな止め具。片端には肉眼で辛うじて見える返しが立っている。
「扉の隙間に、これの繊維が残っていた。ボルトの引き輪に通して、外から引けば落ちる。中から掛けたように見せる内ボルトの外締めだ。舞台人なら、思いつく」
「回収は?」
「返しの部分を摩擦点にかければ、引いた瞬間に切れるよう細工できる。回収はいらない」
私は古い木の枠を見やった。乾いた繊維は隙間を通しやすい。
――ベル二度、照明遅延、死体が立つ。
観客も袖も舞台を見る。倉庫前は無人。
そこで外から、**内ボルトが「勝手に落ちた」**よう見せられる。
舞台は、作戦に向いている。観客の目線は、容易に操れる。集団の感情は、犯行の時間を作る。
私はロビーでパンフレットを一部買い直した。表紙には、やはり〈スタンディング・オペレーション〉。中面のクレジットも、校正は綺麗だ。ここだけが変だ。
「印刷所はどこだ?」
受付の若い男は戸惑いながらも、小さな会社名を口にした。私はその名をメモ帳に写す。
鏡見が肩越しに覗いた。
「印刷所に指示できるのは誰か、という話になりそうだ」
「だが、犯人は印刷所を直接知らなくてもここは改変できる。――台紙データに手を入れればいい」
「座付きの脚本、演出助手、舞監、制作。あるいは“外部”。印刷に出す前の段階で編集できる者は、座組の外にもいる」
鏡見は乾いた笑いをこぼした。
「あなた、厄介なものを嗅いだ顔だ。舞台の“外”に触れたね」
夜はゆっくり深くなり、警察の質問は一巡し、観客は解散した。私は袖で女優に会った。彼女はさっき私の腕を掴んだ人物――名は、尾花里奈と言った。
「言いにくいんですけど……司城さん、昨日“観客席にも役を与える”って言ってました。オーディションもしていないのに、“仕込みは外でやる”って」
「観客の中に“役者”がいる」
「はい。――それから、これ」
尾花は鞄から封筒を差し出した。便箋には、鉛筆で走り書き。
『関係者向け通し、明晩。幕は閉まった。ここからが本当の初日だ。』
差出の時刻は、昨夜未明。消印も同時刻。司城の死の前、もしくは前後。
私は紙を透かし、繊維の影を見た。筆圧は弱く、別人の癖が混じる。
梯子を登る音。小屋の天井裏で誰かが何かを解く音がした。私は見上げ、尾花の肩を廊下側に引いた。
「今は上を見るな。――あなたは次に狙われる役を割り振られているかもしれない」
彼女は血の気を失い、しかし瞳はまっすぐだった。
「津守さん。私、どうすれば」
「舞台に立つなら、照明と吊りの死角に立たないこと。黒衣の合図が二度鳴ったら、一歩引くこと。――そして、拍手のリズムを聞くことだ。手袋は拍手を鈍らせる。役ではない観客は、素手で叩く」
朝永が近づいて来た。
「探偵さん、今晩は解散だ。だが頼みたいことが一つ。明晩の“通し”にも居てくれ。公式には中止だが、座長が“祈りのためだけ”と称してやりたがっている。止める理由はない――そういう空気だ」
「座長は?」
「表では泣いている。裏では、溜めた怒りがある。どちらが本心かは、明日分かる」
朝永はそこで声を潜めた。
「それと、倉庫の鍵穴の外枠に、微細な擦り傷があった。外側から細工した形跡だ。鑑識がラインの微片を拾った。お前の推理は“夢物語”じゃない」
「犯人が一人とは限らない」
「分かっている。だが今は“目に見える犯人”でいい」
朝永の言葉は、捜査の現実を含んでいた。私は頷き、帽子を取る。
外はまだ雨だった。濡れた街に、劇場の明かりが薄く反射している。私は濡れ帽を傾け、歩き出した。
スタンディング・オペレーション。
立ち上がったのは、死体だけではない。作戦だ。観客の笑い、拍手、ざわめき――それらすべてが作戦の道具として使われた。この夜の「成功」は、二度目を呼ぶ。成功体験ほど危険な麻薬はない。
私は心の引き出しに、いくつかの札をしまう。
――ベル二度。照明遅延。透明ライン。左締め。珪砂の境目。パンフの一語。
そして、昨夜未明という言葉。
「昨夜未明に私が死にました」と言った青年。
「昨夜未明に出された便り」。
司城の死は、昨夜未明にはまだ起きていない。それでも便箋は、知っていた。
部屋に戻り、帽子を窓辺に伏せる。便箋をもう一度透かし、鉛筆で余白に書く。
――これは連続殺人だ。
舞台は血を呼ぶ。演者は用意され、観客は配役される。
私はペンを止め、思う。
今回の「演出家」は死んだ。だが「脚本家」は、どこかで笑っている。
幕は閉じた。
ここからが本当の初日だ。
お読みいただきありがとうございます。
本作は連続殺人事件として展開します。
フェア・プレイを守るため、本文中に全ての手がかりを提示しています(ベル二度/照明遅延/透明ラインの擦過傷/左締めの結び/珪砂の残るように消した掃き跡/パンフの一語〈オペレーション〉/反復する「昨夜未明」)。読者は探偵と同じ情報で推理可能です。どうか引き続き、袖からご覧ください。