春告草
それは、あの日から三つ目の春のことだった。
朝露の残る山道を、ひとりの少女が歩いていた。
手にしたのは、包みに包んだ赤飯と、折った花。
少女の名は、葵。
かつて怨みを背負い、刃を振るい、“国の理”すら斬った少女。
だが、今はもう、その手に剣はない。
彼女は、ある村の外れに小さな庵を構えていた。
病を癒す薬草を育て、訪れる人に食を与える。
名もないその庵は、いつしか人々にこう呼ばれるようになっていた。
――咲庵。
と。
ある日、村の子らが走ってきた。
「葵ねぇ! 花、咲いてたよ!」
「桜、咲いてたー! おっきいの!」
笑い声がこだまする。
葵は、静かに微笑んだ。
「そう、もうそんな季節なのね」
桜。
それは、彼女がすべてを終えたときの空にに咲いていた、記憶の花。
あの日、すべてを失い、すべてを越えて、ようやく掴んだもの。
今では、誰かのために咲く命が、彼女の中に宿っていた。
庵の隅にある小さな石碑の前に、赤飯と花を供える。
「お父さん、お母さん。私は、今も生きています。もうわたしは、刃は握りません。でも、この手で。人の命に寄り添うことはできています」
風が吹く。
春の風。
「刃の記憶は、今も。“咲庵”に息づいているぞ」
かつての妖刀・禍桜の声が、かすかに木霊する。
もう、それは“武器”ではなかった。
ただ静かに、“咲ききった者の魂”として、彼女の心に寄り添っている。
そして夜。
庵の灯が消え、空に月が満ちる頃。
少女は、家族の夢を見る。
温かいご飯。笑い声。
そして、小さな弟が、こう呟く。
「葵ねぇ。今日もがんばったね」
涙は、もう流れない。
それは、あたたかい、春の夜の夢。
咲ききった華は、やがて種となり、
またどこかの誰かの心に、優しく根を張る。
それはまるで、怨みの花弁が落ちた春告草そのものだった。