怨みの華。咲き誇る
それは、静かに始まった。
風もない。鳥も鳴かない。
ただ、雲ひとつない青天の下。
そこに、“その男”は座していた。
場所は、幕府の奥座敷。
誰も近づけぬ領域にして、権力と策謀の巣窟――白蓮殿。
その中央、漆塗りの玉座に、男がいた。
装束は白。瞳も髪も淡く、どこか透明な気配をまとう。まるで「人」というより、「この国の理」そのもののような存在だった。
鏡条院是清。
幕府の筆頭評定役にして、戦火を操り、葵の家を滅ぼした張本人。
「来たな、咲く者よ」
是清は目を細め、微笑すら浮かべた。
「あなたが、すべての命令を出した。私の父に濡れ衣を着せ、母を焼き、弟を殺し」
「うむ、確かに命じたのは私だ。だが、あくまで必要なこと」
その声音に、一切の迷いはなかった。
まるで、米を炊くように、布を干すように、淡々と命を奪ったと言っていた。
「葵、心して聞け。この男は、人としてお前と同じ道を歩まぬ。怒りも憎しみも、通じぬ。斬るべきは、理不尽そのものだ」
葵は、黙って禍桜を抜いた。
紅の刃が、淡い光の中に異物のように浮かび上がる。
是清は、ため息をつくように、目を閉じた。
「お前は、確かに強くなった。だが怨みで立つ者に、国を守れぬ。人の心は火より脆く、刃より鋭い。だから私は、“咲く前に摘んだ”――お前の家も、未来も」
その言葉に、葵の目が揺れた。
けれど、もう涙は落ちない。
「私が斬るのは、怨みのためではありません。あなたのような者が、“正しき者”として生き残る世を終わらせるためです」
「では、来るがよい。――私はこの国の“意志”そのもの。国に刃を向ける覚悟があるのなら、咲いてみせよ」
静かに、是清が手を上げる。
その背後に、無数の式神兵が現れた。
人の形をした人ならざるものたち。
呪で縫い合わされた兵士たちが、静かに葵を取り囲む。
「戦乱は火。だが、私はその火を制す者。ならば、お前はその復讐の火でこの国を焼けると思うのか?」
「葵。迷うな。咲き誇れ――お前のすべてで!!」
「行きます!」
禍桜が咆哮を上げた。
紅の斬撃が地を裂き、式神兵が一気に舞い上がる。
葵は風のように、疾風のごとく飛び込む。
「秘ノ型・四輪咲き――《刃桜・連舞》!」
連撃が走る。
式神の胴が斬れ、腕が落ち、紅い閃きが拡散する。
だが――無限に湧くかのように、次々と出現する無機なる兵士。
「これが、一国の防壁」
悠然と座したまま、是清は言葉だけを投げた。
「お前が倒したのは、あくまで“者”だ。だが私は“国”そのもの。お前ひとりの刃が、果たして国を斬れるか?」
葵は、荒れた息のまま、刃を構え直す。
「それでも、私は斬ります。この手で、あなたの“理”を断ち切る!」
刹那。
禍桜が震えた。
「葵、その“決意”が、禍桜の最奥を開く。お前だけの、最終の咲き様――**“満開の型”**だ」
桜が、咲いた。
彼女のまわりに、紅い花が舞い、風が渦を巻く。
一歩踏み出すごとに、地が鳴き、空が染まる。
「禍桜……今こそ、咲き誇ってください」」
式神兵の群れを斬り裂き、血なき人形たちの肢体が紅に崩れる。
それでもなお、鏡条院是清は座したままだった。
微動だにせず、ただその白き衣をひるがえすことすらない。
まるで“神”のように――いや、“神を装った理不尽”そのものだった。
「どうした、咲く者よ。咲けども咲けども、空は覆えぬ。その花びらでは、空は染まらぬ」
葵の額から、汗が伝う。
肩が揺れ、膝がわずかに沈む。
「葵、斬れ。この男は自らの手を汚してこなかった。だが、だからこそ。命の痛みを知らぬ。斬るべきは、奴の“心”だ」
少女は、ゆっくりと呼吸を整えた。
戦いの中で、彼女は見てきた。
死者の苦しみ。生者の憎しみ。そして、自らの中の“弱さ”も。
それでもなお、歩んできた。
「私は、正しさを持って生きたわけではありません。ただ、もう一度。“家族の記憶に恥じぬ生き方”を、選んだだけです」
禍桜が、再び咲く。
最終奥義、“満開の型《咲魂・血華》”
紅の風が、爆ぜるように広がった。
桜の花弁が無数に舞い、地を這い、空を裂き、結界すら打ち消すほどの力を持って前へ。
是清の周囲に結ばれていた呪結界が、一輪、また一輪と焼かれていく。
「この力」
初めて、是清の瞳が揺らいだ。
彼の指が震える。
なぜなら、彼は“痛み”を知らない。“感情の刃”で斬られたことがなかった。
「この私が」
葵は、一歩、一歩と歩み寄る。
紅の花がその足元に咲き続けた。
「お前は、家族を喰った。民を焼いた。心を弄んだ。その結果が、ここだ。今――咲ききった思いが、お前を裁く」
是清は、ゆらりと立ち上がる。
だが、遅かった。
葵は、もう眼前にいた。
「この刃は、呪いではない。これは、わたしが生きた証です。父と、母と、弟が生きた記憶の花」
「咲け、《禍桜・咲魂・血華》」
斬閃。
空が割れた。
白き玉座が、裂けた。
その中心に座していた“国の理”が、真っ二つに斬り伏せられた。
血が、流れる。
それは是清のものであったか、それとも――“理”が流す初めての血であったか。
「見事」
是清が、崩れる。
その体は土と変わり、権力の座は空虚となった。
***
戦いの終わった白蓮殿。
葵は、ただ静かに立ち尽くしていた。
禍桜を、静かに鞘に収める。
紅い刃は、今はもう、何の音も立てていなかった。
「……終わったな。だが、これが“復讐の終わり”ではない。ここからは――“生きる”ための時間」
葵は、小さく頷いた。
「はい。私はもう、斬るためではなく、生きるために。この刃を持ちます」
彼女は、空を見上げた。
そこに、花はない。
けれど、どこかに確かに、風が流れていた。
そして、聞こえた気がした。
母の声。
弟の笑い声。
父のあたたかな背中。
そのすべてが、今の自分を作った。
少女は、歩き出す。
もう誰も斬らずに済む未来へ。
“怨ノ華”は散った――けれど、その香りだけは、永遠に残り続ける。
そして、夜が明ける。
紅く――あたたかく――
咲ききった、ひとつの命の物語はこれで終わりを迎えたのであった。