華、影を断つ
空が、青黒く沈んでいた。
夕ではない。夜でもない。影が満ちる時刻。
それは「死者の時間」とも呼ばれる、闇と闇の間にある、最も静かで最も残酷なひととき。
葵は、山中の古寺にいた。
屋根は苔むし、灯籠には火がともされず、風すらも音を立てなかった。
だが、確かに気配がある。
「ここに、奴がいるのですね」
「ああ。黒月院沙門――かつて影狩衆と呼ばれた、幕府直属の密殺忍軍の最後の生き残り。表を焼いた焔蔵に対し、裏から命を奪い続けた男だ」
その名を口にした刹那。空間が、歪む。
「おや」
静かな声が、風とともに現れた。
そこに立っていたわけではない。
音もなく、気配もなく、ただ自然のようにそこに在った。
黒い忍装束。
だが甲冑ではない。布一枚すら光を反射せぬよう、呪術的な加工が施されていた。
顔は仮面。漆黒にして、目元だけが鈍く光る。
言葉は柔らかく、だが空気を震わせるほどの圧を秘めている。
黒月院沙門。
「なるほど。火を越え、死を越え、ここまで辿り着いたのですね」
「あなたが、影から母や弟の命を断った」
「正確には、命ずる者の意志に従ったまで。だが私の手で、“音もなく、苦しませることなく逝かせたのは事実です」
「それが、慈悲だとでも?」
「ええ。怒りは、鋭利に削られた刃と同じ。研ぎすぎれば折れる。だから、今、あなたの“その刃”を試させていただきましょう」
沙門の言葉が終わると同時に、周囲の空間が反転した。
***
「幻」
葵が立っていた寺が、突如として黒い闇に呑まれる。気づけば足元に地はなく、天と地の区別も消えていた。
「違う。“幻”ではない。これは“影結界”――奴の術の核は、存在を薄める” ことで相手の知覚を破壊する、実体化された闇」
「そんなもの」
葵は即座に、禍桜を振るう。
刃が闇を裂く。
はずだった。
だが、その一撃は空を斬るのみ。
「葵ッ、そこだ!! 左だ!!」
一瞬遅れる。
影の中から、沙門の手刀が現れ、葵の肩を斬る。
「ッ――くッ!」
体をひねって反撃の斬撃を放つ。
だが、既に沙門の姿は消えていた。
「あなたの剣は素晴らしい。怨を宿し、刃に変える。だが、届かねば意味はないのですよ」
声が、頭上から、次に背後から、右耳元から、次々に降ってくる。
「奴は空間を点で移動している……葵、お前の斬撃は線だ。点を斬るには、心で気配を断て」
「気配。私の中にある、あのときの影」
葵は目を閉じる。
風のない空間。
光のない景色。
そこにあの日の影、確かに重なっていた。
弟の手が離れた瞬間。
母の声がかき消えた瞬間。
気配が、ふっと消えた――あの静寂。
「いた」
葵が地を蹴る。
「秘ノ型・三輪咲き《斬影》!!」
禍桜が、咆哮した。
刹那、空間に張り詰めた影が断ち切られた。
三連の斬撃が、縦・横・斜めに結界を貫き、沙門の存在を浮かび上がらせる。
「――ッ!」
ようやく、沙門の仮面が割れた。
彼の頬が、紅に染まり、確かに血を流した。
「ほう。私を捉えた者がいたとは」
「これは、母の手の温もり。弟の声の残響。そして、あなたに殺された夜の記憶です」
沙門が初めて、動揺の色を見せた。
闇が、ざわめく。
「では本気でまいりましょうか」
次の瞬間、彼の全身から無数の影の刃が飛び出した。
「これが、影の本陣」
「葵、次の技は未完成だ。だが、想いが整えば、形になる。信じろ、刃の咲く先を」
少女の眼が、開かれる。
そこに宿ったのは、迷いなき怨み。
だがそれは誰かを殺すための怒りではない。
過去に負けないという意志だった。
「禍桜、次の型を。私の想いとともに、咲かせてください」
闇と紅がぶつかる。
空間が、軋んでいた。
黒月院沙門の放った影の刃は、もはや数では数えられなかった。
上から、下から、四方八方から、闇の刃が葵を襲いかかる。
それは、まるで「世界そのもの」が彼女を殺そうとしているかのようだった。
「葵、耐えるな。斬れ。影は存在しないもの。だが、怨みを帯びれば実体になる。ならば、お前の刃もまた、存在の境界を斬れるはずだ」
「わたしの、刃」
葵は、目を閉じた。
闇の中で、見えたもの。
母の手。弟の笑顔。父の背中。
そして、自分自身の姿。
泣いていた。
怯えていた。
けれど、その目だけは、前を向いていた。
「わたしはもう、逃げません」
彼女の中に咲いた記憶が、紅に染まり、禍桜に宿る。
「秘ノ型・最終輪《断華・咲命》!!」
その瞬間。
世界が、紅く染まった。
禍桜が解放される。
紅の刃が拡張し、まるで一本の巨大な桜の枝のように広がっていく。
影の刃を、すべて喰らうように――
咲き乱れた。
「この術を咲かせただと」
沙門の声が、わずかに揺れた。
影が崩れていく。
一枚一枚、桜の花弁が落ちるたび、沙門の構築した空間が解けていく。
「この刃は、呪いではありません。怒りや復讐だけでは、ここまで来られませんでした。私は、生きるために斬る」
紅の光が、一点を貫く。
沙門の仮面に、真一文字の裂け目が走った。
「そうかお前は、斬るために生きているのではないのだな」
「はい。私は、生きるために斬る。だから、ここであなたを」
「斬ってみよ」
葵は、最後の一歩を踏み出した。
咲き誇る紅の枝が、沙門の身体を斬り裂く。
そのとき影は音もなく、散った。
***
気がつけば、世界は静かだった。
黒月院沙門は、仮面を割られたまま、地に膝をついていた。
その顔には、少しの笑みが浮かんでいた。
「お前は見事だ。影を断ち、なお人であることを手放さなかった。ならば是清様へ伝えるがよい。怨の華は、咲きながら歩んでくるとな」
そう言い残し、沙門は朽ちるように、消えた。
影のように、塵のように、風に溶けて。
***
葵は、その場に膝をつき、手を重ねて合掌した。
復讐のために斬った者。
だが、かつては命令に従っただけの人間。
その重さは、決して軽くはなかった。
「葵。お前は強くなった。だが」
「わかっています。この刃は、いずれわたし自身をも裂くでしょう。でも、それでも構いません。それが、家族に背を向けずに生きる私の選んだ道です」
風が吹いた。どこか、優しい風だった。
禍桜は、静かにその刃を沈めた。
「次の一人。すべてを命じた男――鏡条院是清」
葵は、立ち上がった。
その背筋はまっすぐで、かつてのような怯えはもうなかった。
「行きましょう。この刃の一咲きを、飾るために」
桜の花は散りゆくもの。
だが、散ることを恐れぬ者だけが、美しく咲ける。