術師と死人の街
風が湿っていた。
まるで誰かの息がかかっているように、重く、ぬるく、まとわりつく空気。
葵は、“死人がさまよう町”と呼ばれる集落――鵺の巣へと足を踏み入れていた。
「ここが、鵺堂典膳の居場所」
「ああ。この町には、死者の声が残る。奴は術によって魂を繋ぎ止め、無理やり現世に縛りつけている」
「死者の声」
葵の胸に、嫌な予感が走った。
禍桜が、かすかに唸るような音を立てている。まるでこの地を拒むかのように。
町は奇妙に静かだった。
だが無人ではない。人影はある。
ただ、どの者も“目が虚ろ”だった。
話さず、笑わず、ただ歩き、ただ止まり、ただ暮らしていた。
まるで生者の形をした、死人のように。
「人間じゃない」
「否。人の“殻”よ。魂を抜かれ、術で縛られた者どもだ。己の意思を喰われ。ただ典膳の道具として、生かされている」
葵の背筋がぞくりと震えた。
そのとき。
「久しぶりだな、葵」
耳元で、父の声がした。
「……っ」
振り返る。
だが誰もいない。
「おかえり、葵。母さん、ずっと待っていたのよ」
「葵。遊ぼうよ」
弟の声まで。
「やめて……っ」
葵は目を強く閉じた。
禍桜が警鐘のように脈打つ。
「目を開けるな! これは幻だ!奴の“死人語り(しびとがたり)”――記憶を喰らい、心を揺らす呪だ!」
それでも、聞こえてくる。
優しかった母の笑み。
力強かった父の声。
泣きながら手を伸ばしてきた弟の、小さな温もり。
そして、彼らを奪った――火の匂い。
「……ッ!!」
禍桜が葵の憤怒と同時に抜かれ、紅い閃光が空気を裂く。
その瞬間、幻が霧散し、周囲の空気がゆがんだように揺れた。
そこには、いた。
土色の法衣をまとい、白髪を垂らし、仮面をつけたような顔。どこか人間味のない笑みをたたえて、まるで見世物の語り部のように静かに佇んでいた。
鵺堂典膳。
かつて、幕府の呪術審判役を務めていた男。
「ようこそ、怨の娘よ。この地へ足を踏み入れた瞬間、君の“底”はすべて。私の手の内だ」
葵の瞳が、静かに燃えた。
「斬れ、葵。あれは、生者の皮を被った鬼だ」
紅い刃が音もなく抜かれる。
典膳は微動だにしない。
それどころか、掌をひとつ、仰いだ。
「ならば――死人どもよ」
地面が、揺れた。
町の路地から、家の影から、人影が幾つも立ち上がる。顔は生者。だが、瞳は虚ろ。手には、農具や刀のようなものを持っていた。
「葵。あれは、お前が“助けられなかった村人たち”の亡骸だ」
葵は息を飲む。
あの焼け落ちた村で死んだはずの顔、声、服――
子供を庇っていた婦人。いつも笑っていた老人。弟と遊んでくれた青年。そして、父と母。幼い弟。
みな、死人となって、彼女に向かってくる。
「斬れますか? 自分の村を?」
典膳の声が、刺すように静かだった。
「ごめんなさい」
葵は、小さく呟いた。
「もう、あなたたちは。私の“記憶の中”にしか、いない」
刹那――紅い刃が、地を裂いた。
桜が、舞った。
死者たちの体が、一瞬で吹き飛ばされた。
禍桜が、葵の記憶と怨みを共鳴させ、空間ごと切り裂いたのだ。
「ほう……記憶を呑まれてなお、斬りきるとは」
典膳が口の端を歪めた。
「ならば、私も“本当の術”で応じよう」
男の周囲に、黒い靄が湧き上がる。
それは、魂を喰われた者たちの断末魔、数多の呪が染み込んだ瘴気だった。
「葵、気をつけろ。奴の本領は“幻術”ではない。死者を喰らうことで、自らも“死なぬ者”になっている」
紅と黒が、ぶつかろうとしていた。
少女と呪師。
怨みと術。
斬り裂く者と、喰らう者。
闇が、ざわめいていた。
鵺堂典膳のまわりに漂う黒き靄は、ただの瘴気ではなかった。
それは、喰らわれた死者たちの断末魔、怒り、怨み、そして――絶望の残滓。
「これが、あなたの術」
「否。これは“私そのもの”だよ、葵殿。この身は、すでに人の域を越えている。我が血肉は百の死者より成り、骨は屍鬼の骨を継ぎ、心は――とうに死に絶えた」
典膳が袖を広げた。
その手から、黒い煙が鞭のように伸びる。
禍桜がその一撃を察知し、葵の体を強制的に右へ跳ねさせた。
ドン、と地が抉れる。
石畳が砕け、そこに死者の顔のような模様が浮かび上がる。
「あの黒煙、ただの術ではない。“魂を引き裂く”呪だ。当たれば、体ではなく“心”が裂けるぞ」
「そんなもの……ッ!」
葵は叫ぶと同時に跳躍した。
細い体が宙を翔け、禍桜が月を裂くように振り下ろされる。
典膳はそれを見ても、動かない。
刹那、彼の身体を取り囲うように死者の手が噴き出した。
空中で、葵の右腕を数本の黒い指が掴んだ。
そのまま振り下ろされた禍桜の軌道が逸れ、風を裂くだけになる。
「ッ……!」
「遅い。怨みで刃を振るうなら、それだけ速くあれ。でなければ、死者は止まらない」
典膳が指をひとつ、動かす。
刹那、死者の手が、葵を引き裂こうとした――その瞬間、
「葵、“心の奥”にあるものを、呼べ!」
「私の……奥に?」
その言葉を聞いた瞬間、葵の瞳が大きく見開かれた。
胸の中に、父の声が浮かんだ。
優しく、厳しく、あの村で何度も聞いた声。
「人を斬るな」「怒りを飲みこめ」「正しき刃を持て」――そう言っていた父。
だが。
葵は小さく、口を開いた。
「父上。わたしは、わたしは。貴方の仇を討ちたい」
その呟きとともに、禍桜が、咆哮する。
「それだ。想いは迷い、怨みは祈りを喰らう。 だが、お前の奥底には……“未だ叫んでいるもの”があるはずだ」
葵の足元に、薄紅の光が集まる。
それは、踏みにじられた大地から咲き出すように、花の形をしていた。
「これは……桜……?」
「“血桜”だ。お前の命の記憶。今こそ、禍桜の異能を開け。――名を呼べ!」
葵は、吸い込まれるように、禍桜の柄を強く握った。
紅い霧が、吹き上がる。
「秘ノ型、咲断・一輪!」
口をついて出たその言葉。
記憶にはないその言の葉の羅列。
一瞬。
すべての音が、止んだ。
次の瞬間、桜が爆ぜた。
地に咲いた血桜が広がり、死者の手を焼き切り、空気を震わせ、典膳の瘴気を巻き込んで――斬った。
「なッ――!?」
典膳の体に、一本、紅の斬線が走った。
だが、彼はまだ立っていた。
いや、立たされていた。無数の魂の鎖が、肉体をつなぎ止めている。
「私の術は死してなお、続く。貴様一人の刃で」
「なら、何度でも――!」
葵の足が地を蹴る。
禍桜が二の太刀を求め、少女の身体を研ぎ澄ます。
「あなたのような“死を騙る者”は――生者の手で、終わらせなければならない!」
斬閃。
典膳の術式がすべて打ち破られ、彼の身体が崩れた。その仮面のような顔が、最後にわずかに微笑んだように見えた。
「ああ……やはり……お前は、“選ばれし者”だ」
典膳の肉体が崩れ落ち、黒い煙が空へ消えた。
そのとき、町を覆っていた死者たちの気配が、すうっと、溶けるように消えていく。
***
葵は地に膝をついた。
息が浅く、肩が震えている。
けれど、紅の刃は、まだしっかりと握られていた。
「終わりました、父上。あなたの、名を穢した者を、斬りました」
「葵。だが道はまだ続く。次に待つのは――“生ける火葬の男”、蛇喰焔蔵。お前の母と弟を焼いた、張本人だ」
葵の瞳に、ふたたび灯がともる。
「行きましょう」
風が吹いた。
町を覆っていた怨気は晴れ、空にほんの一瞬、夜桜のような光が揺れた。
それは、死者を斬り裂いた少女が、心に咲かせた――たった一輪の、祈りの花だった。