血桜に濡れる道
夜が明けきる前、葵は屋敷を後にした。
まだ空は灰色で、鳥の声もなく、山の空気は冷たい。
斎宮左馬介の屋敷は、すでに人の気配を絶っている。
誰もいない。気づく者も、騒ぐ者もいない。
まるで、この世から彼が最初から存在しなかったかのように。
「禍桜。あなたは私の命をどう使うつもり?」
「命など、燃やすためにある。だが、“魂”はそう易々とは手に入らぬ。お前がこの先。どれほどの怨みと対峙できるか、それ次第だ」
「魂を喰らう刃、か」
葵は禍桜を布で包み、背に背負った。
その重さは、単なる鉄ではない。
血と、怒りと、祈りと、かつての日々の残響が詰まっていた。
葵の復讐はまだ始まったばかりだった。
斎宮左馬介――それは「家族を焼いた者たち」のうちの一人に過ぎない。
その奥にいるのが、父を斬った剣士――芦名十兵衛。
***
葵は山を降り、川を渡り、三日をかけて次の土地へ向かう。
七倉と呼ばれる城下町。
そこは、鬼狩衆の武具庫があり、幕府の剣士たちがよく出入りする土地でもあった。
だが、町は葵の記憶にあるような平穏とは違っていた。
「なぁ聞いたか? “黒桜の女”ってのが出たってよ」
「刀ひとつで斎宮様を斬ったって噂だぜ。あの鬼狩の大将をよ」
「桜の霧を纏って、人を斬る。あれは人間じゃねぇ。怨霊だ」
人々の噂は、すでに葵の存在を「人ならざる者」として伝えていた。
だが、葵は顔を隠し、声も発さず、宿もとらずに町の隅を歩く。
「芦名十兵衛。この町にいるのでしょう?」
「確かに奴はここにいる。斎宮を討たれた今、他の者たちは警戒を強める。 次は、容易にはいかぬぞ」
禍桜の声が、微かに湿っていた。
斎宮は単なる敵ではなく、“過去に因縁ある者”だったのかもしれない。
だが、葵はそれを追及しない。
今は――復讐だけが、その心を支えていた。
***
その夜、町の北端にある古い屋敷の裏庭。
ひとりの剣士が、静かに素振りを繰り返していた。
芦名十兵衛。
中背の男だが、体の芯に「動じぬ柱」が通っている。
無駄のない動作。鍛え抜かれた呼吸。
そして、眼差し。
それは、何十人、何百人と斬ってきた者の目だった。
「左馬介が斬られたか。あの村の娘が生きていたとはな。まさか、禍桜を振るうとは」
隠密により聞かされたその事実。
彼は刀を収め、空を見上げた。
月は隠れ、星も少ない曇天の夜。
「来るなら来い。葵。あのとき、私は確かにお前の父を斬った。だが、それには――理由がある」
その言葉は、誰にも届かぬ風に溶ける。
だが確かに、葵はそれを聞いた。
〜〜〜
闇の中、禍桜を背にした少女が、じっとその男の背を見つめている。
夜は深く、月も沈んだ。
静かな庭に、風が吹く。
竹が擦れ、木の葉が落ち、やがて一歩の足音が、土を踏みしめる音となって響いた。
「来たか」
芦名十兵衛は、背を向けたまま、静かに言う。
葵は応えなかった。ただ、夜の闇の中に身を立たせていた。
「その刃、禍桜。左馬介の命を、確かに喰らったのだな」
やはり、この男も知っていた。
禍桜――この刃が、何を喰らい、何を残してきたのかを。
葵はゆっくりと歩を進め、芦名の背に向けて問いかけた。
「なぜ、父を斬ったのですか」
その声は冷たく、けれど揺れてる。
怒りだけではない。悲しみと、疑念と、理解できないままに生き延びてしまった少女の声だった。
十兵衛は少しだけ顔を上げ、空を仰いだ。
「私は、あのときお前の父に乞われて、刃を振るったのだ」
「乞われて?」
「そうだ。あの村には、“鬼種の血”が混ざっている。お前の父、新左衛門殿は、知っていたのだ。村がいずれ滅びの業火に包まれると」
葵の瞳がわずかに揺れた。
「父は、鬼などでは」
「お前の父は人だった。だが――村を守るため、自ら穢れを引き受けた。幕府に嘆願し、自らの死と引き換えに、村の女・子どもたちだけは助けてほしいと。だが、それが通るほど、世は甘くはなかった」
芦名十兵衛の声には、静かな怒りと悔いがにじんでいた。
「斎宮左馬介は、己の“正義”に酔っていた。 “鬼は根絶やしにせねばならぬ”と。だから、女子どもであろうと容赦なく焼いた」
「なら。なぜ、止めなかったのです」
葵の声が、震えた。
その問いは、血に濡れてる。
「あなたが、父を斬ったなら、斎宮の暴走も止められたはず。なのに、どうして。母も弟も、焼かれて」
沈黙が落ちる。
やがて、十兵衛はそっと刀を抜いた。
それは、戦のためではない。
ただ――答える言葉が、刀身にしかなかったのだ。
「私は……守れなかった。あのときのことは、今も胸に刺さったままだ。だからこそ、ここでお前に斬られることが、私の務めだ」
「それで、許されると?」
「いや。許されようとは思っていない。だが、もしお前が斬る理由を見つけたいのなら、斬ればよい。それが、刃を向けられる者の責めだ」
葵の手が、紅い柄にかかる。
禍桜が震える。血を、怨みを、命を欲して、囁く。
「斬れ。復讐に理などいらぬ。あの男も、お前の喪失を積み重ねた一人だ。斬って、斬って、斬り尽くせば――心は満たされる」
葵の手が、わずかに震えた。
だが、その刃を、振り下ろすことはなかった。
「禍桜。黙って」
「ほう?」
「この人は、私の父を殺した。許す気も、忘れる気もない。でも今、斬れば。それは、父の願いをも踏みにじることになる」
「甘いことを」
「わかってる。甘いってことは。斎宮は、ただの始まり。幕府の命で人が斬られ、焼かれ、嘘が正義になる。それを私は壊す」
その言葉に、芦名十兵衛は目を細めた。
「お前は、変わったな。小さな娘だったお前が、こうして私と対等に言葉を交わす日が来るとは」
「変わらないものも、あります。あのときの焼ける匂いも、弟の泣き声。それは今も私の中にあります」
葵は刀を抜かなかった。そのまま、十兵衛に背を向けた。
「あなたは、斬らずにおきます。けれど、これから先、私の道を阻むなら――次は容赦しません」
「その覚悟、受け取った。いや、むしろ祝福しよう。禍桜を操り、怨みを制す少女よ。この先の道が、どれほど血で濡れてもせめてその心は見失うな」
「その忠告、しかと聞きました」
そして、少女は再び歩き出した。
新たな仇の名をその胸に刻みながら。
「次なる標は“命の狩人”、鵺堂典膳。死人すら喋ると言われる呪師にして、幕府の影。今度は、刃だけでは済まぬぞ。心を喰う、戦いとなろう」
葵はうなずいた。
「構いません。その先に、私の復讐があるのなら――私は、どこまでも堕ちてみせます」
夜の町に、再び桜の花びらが舞った。
それはまだ、誰にも見えない、怨ノ華の蕾だった。