仇討ちの刀
月は雲に隠れ、山の麓に沈もうとしていた。
夜露が草を濡らし、虫たちさえ息を潜める深夜。
少女は、ひとり山を降りていた。
黒い喪服のような布に身を包み、背には紅の刀――禍桜を抱えて。
その歩みは重く、けれど一歩一歩、確かな意志に支えられていた。
「この先にある。鬼狩衆の詰所。斎宮左馬介の居城」
村を焼き、家族を斬り捨てた男。
冷たい目で“お上の命令だ”と告げ、何の感情もなく刀を振るった侍の上の者。
その男が、いまだこの山に留まっていることは、風の噂で耳にした。
いや、刀が――禍桜が、囁いた。
「あの男は、“最後の仕上げ”をするつもりだ。生き残りを狩るために、再び村へ戻る。だが、それは不要。ここで、終わらせればよい」
ほどなく、竹林が途切れ、石垣が現れた。
山を切り拓いて築かれた屋敷。周囲を塀と灯篭が囲み、武家屋敷というにはいささか粗雑だが、それなりの格式を保っている。
葵は足を止めた。
緊張でも、恐れでもない。
ただ。
「父上。母上。これが、私のはじまりです」
そう呟いて、塀を越えた。
***
屋敷の庭に、静かに降り立った葵は、足音を殺して進んだ。
赤黒い草履は土に沈み、背の刀が微かに揺れる。
不意に、禍桜が囁いた。
「来るぞ。嗅ぎつけられたか」
案の定、土間の奥から一人の侍が現れた。
半開きの障子の向こうに、鋭い目が光る。
「何者だ、貴様」
背丈のある男だ。軽装とはいえ、脇差しを腰に下げ、動きに無駄がない。
だが、葵は足を止めなかった。
「邪魔をしないで。私は、“あの男”を斬りに来たの」
「何?」
男が踏み込もうとした瞬間――
す。と音もなく、紅い刃が抜かれた。
禍桜の光が、夜闇の中で一閃。紅の残光が、男の胸元を裂いた。
「……っ……が……!」
男は一言も発せず、地に崩れた。
葵はただ、刀を振りぬいた姿勢のまま、まっすぐ奥を見据えている。
「どうだ?」
「怖くは、ない。ただ――これが、私の刃。私の怨みは、これより深い」
禍桜は、満足げに囁いた。
「よくぞ答えた。ならば次はこの城の主だ」
***
邸の奥、灯りがわずかに漏れる座敷。
そこにいた。
斎宮 左馬介。
禿鷹のような鋭い目に、灰銀の髷。
凍りついた表情のまま、膝を崩して酒を啜っていた。
「生き残りがここまで来たか」
斎宮はゆるりと立ち上がり、何の驚きも見せずに声を響かせる。
「女。いや、あの村の娘か。葵、だったな。あのとき、真っ先に逃げたお前が、今さら何を」
葵は一歩、踏み出した。
足元。
そこに血が一筋滴る。
「“あのとき”……私は何もできなかった。ただ、見ていた。父が殺され、母が斬られ、弟が泣きながら倒れるのを」
「幕命だ。貴様の一族は、“鬼種の穢れ”を宿す。我ら鬼狩衆の務めは、民を守ること。誤りはない」
「だったら、あなたは人じゃない。鬼に成り果てた人を斬る鬼だ」
その言葉に、斎宮の眉がほんのわずかだけ動いた。
だが次の瞬間、葵は跳んだ。
「斬らせていただきます――左馬介殿」
紅い刃が、鬼狩の武士に迫る。
「斬らせていただきます――左馬介殿」
その一言を皮切りに、紅い刃が闇を裂いた。
月明かりの届かぬ屋敷の奥座敷。
灯りはただ一つ。小さな油灯のみ。
そこに、禍桜の輝きは異質だった。血のようで、花のようで、ひどく美しい。
斎宮左馬介は咄嗟に身を翻し、壁際に掛けてあった打刀を抜く。
無駄のない動作。流石は幕府直属の鬼狩衆、その中でも選り抜きの男。
「小娘が!!」
刃が火花を散らす。
一太刀、二太刀、三太刀。
火のついたような応酬の中、葵の身体は軽やかに舞い、紅い帯のような残光を描く。
だが、そのすべてを支えているのは、禍桜の力だった。
「まだ甘い。だが、その怒りは良い。怨み刃は、鋭くなる」
葵は自分の体が、“いつもの自分”ではないことを感じていた。
足は勝手に地を蹴り、手は最短の軌道を描いて斬り込む。
剣術を学んだこともないはずの自分が、剣士のように動いている。
これは、禍桜の力だ。
だがそれだけではなかった。
「父上、母上」
心の奥底に眠っていた何かが、目を覚ましていた。
それは、家族を想う祈りでもあり、失った痛みでもありーーそして、失われた日々を二度と戻せないと知った少女の叫び。
その感情が、刃を鋭くする。
斎宮が一歩退く。
葵の刃が、男の袖を斬り裂いた。
「ふん。刀に喰われたか」
斎宮は低く呻く。
その目が、かつてのような無表情ではなく、わずかに“焦り”を滲ませていた。
「この力。まさか、封印されたはずの妖刀・禍桜か」
「ええ。祠で、私が目覚めさせました」
「それは己の魂を喰わせるということだぞ、小娘。復讐のため。貴様自身が“鬼”に堕ちる道だ」
「構いません。あなたを斬らずに済むなら、私はもう人間である必要はないんです」
その声には、悲しみと決意が共にあった。
そして――
紅い桜が、咲く。
一瞬、禍桜が微かに震え、刀身から薄紅の霧が舞った。それは桜の花びらのようにふわりと宙を舞い、やがて斎宮の視界を奪う。
「なにっ」
霧の中、少女の気配が消える。
気づいた時には、もう、目の前にいた。
斎宮が刀を振るうよりも早く、葵の刃がその喉元を、紅い軌跡を描いて駆け抜ける。
音はしなかった。ただ、薄紅の霧の中で、ひとつの命が、静かに沈んだ。
***
葵は静かに、刀を納めた。
斎宮左馬介は、何も言わずに崩れ落ちる。
最期の瞬間、男の目にあったのは、恐れでも怒りでもない――空虚だった。
「仇は、討ちました。でも。これで、戻るわけでもないのですね」
葵の頬を、一筋の涙が伝う。
「その涙こそ、お前がまだ“人”である証だ」
「だが、忘れるな。お前の旅は始まったばかり。残る仇はまだ五。斎宮は、ただの尖兵にすぎぬ」
葵はそっと目を閉じる。
涙を拭うこともせず、斎宮の死体に背を向けた。
「次は、“あの男”。父を斬った、幕府の剣士。名を、芦名十兵衛」
夜が、静かに明けはじめる。
まだ、遠くの空がわずかに白む程度。
けれどその光は、彼女の旅の、最初の章が終わったことを、確かに照らしていた。