焔の村
風が、吹いていた。
山あいの小さな村――紗那の空を、黒い煙が覆っている。
赤く、眩しく、燃えていた。
それはまるで、無数の鬼火が村を喰らうように、次々と家を、畑を、人を、焼いていた。
「おかあ……さま……?」
土の上に膝をつき、葵は焼け焦げた草の匂いにむせびながら、瓦礫の中に倒れた人影に手を伸ばす。
それは母だった。もう、声も温もりもない。
その隣には、倒れ伏した父、そして弟の小さな体も――。
「どうして……どうして……っ」
声にならない問いが、夜の空に吸い込まれていく。
黒煙が月を隠し、星までも呑み込んでいた。
足音が近づく。
焼け落ちた塀の向こうから、鎧のきしむ音と、無慈悲な声が響いた。
「生き残りか? 娘一人。だな」
男の目は冷たい石のよう。
全身を黒具足で覆い、胸元には「鬼狩衆」の家紋――三つ巴の印が刻まれている。
「貴様の一族は、鬼の血を引く。討伐は幕命によるものだ」
そう言って、男は迷いもなく、腰の太刀に手をかける。その動作はあまりにも自然で、躊躇いなどない。
殺される。
頭では理解しても、体は動かない。涙で足が、手が、鉛のように重くなる。
そのとき。
空気が、震えた。どこからか、低く、古い声が響く。
「ゆけ、祠へ。刀が、目覚めを待っておる」
それは、幼いころ祖母が語っていた“古い祠”の伝承。
「誰も開けてはならぬ」「決して近づいてはならぬ」――そう語られてきた、禁忌の場所。
だが今、葵にはそこしかなかった。
追っ手をかわし、森へ、奥へ、草を掻き分け、血のついた足で転がるように走る。
その姿を、男は見送り嘲笑う。
沈む船から逃げ出す鼠のようだと、笑う。
やがて、葵の目の前に朽ちた木の鳥居が現れる。
その奥。苔むした石段を登りきった先。封じられた祠の扉が、音もなく開かれていた。
「ここに、いるの?」
葵は両手で抱えるように祠の中へ入った。
そして、見つける。
布に包まれた一振りの刀。
血のような紅を纏い、まるで心臓のように微かに脈打っていた。
「名を。申せ」
声が、頭の奥に響く。
「契るならば、名を。さすれば、力を。うぬの怨みを刃に変えてやろう」
「名。名前は」
葵は述べる。自らの名を。
怨みを刃に変えてやろう。
その言葉に胸を抑えながら。
「葵。紗那村・山ノ尾の者。父・新左衛門、母・百合。その娘」
「ふむ、哀れな。だが、怨を知る者よ。契りは成った。名を刻もう、汝が手に――禍桜の呪印を」
右手が焼けるように熱い。
だが、不思議と痛みはなかった。ただ、胸の奥に沈んでいた黒い叫びが、静かに形を得ていくのが分かった。
「私の命はもういい。もういいの。だから。代わりに私の復讐を」
紅い刀が応えた。
「よかろう。ならば、最初の血を――“命じた者”より戴こうか」
「咲かせよう。夜に咲くは、怨ノ華」
祠を出た少女の瞳に、もはや迷いはなかった。
その少女の視界の中。
そこに、先ほどの男が現れる。
「なにやら後を追ってみれば……小娘。その手に握るのは、刀のようだな」
葵は応えない。
だが、その手は自然に前に構えられる。
その様。
それに男もまた、太刀を少女へと向けた。
「鬼の血を引く者は一人として生かしてはおけぬ。たとえそれが」
幼き女子だとしても。
そう男が言い終える前に、葵の身はまるで風のように男の前へと現れる。
縮地。
否。これはーー
紅く染まった少女の身。
それに男は、思い出す。
妖刀ーー禍桜。
だが、その男の思考は刹那の内に終わりを告げた。
男の構えられた太刀。
それが、紅くひび割れそして、塵となる。
「死ね」
男の脳裏に響く声。
その声は目の前の少女のものか男にはわからない。
しかし、それを知ったところで時は既に遅い。
刃が、男の胸を貫く。
同時に血が滴り、男はその場に崩れ落ちる。
己の瞳。
そこより、光を無くして。
抜かれる刃。
それを振り、葵はその身を翻す。
その影は紅く染まり、闇の中であるにもかかわらずゆらゆらと揺れているのであった。