プロローグ
ポルタジョイエとは、イタリア語で宝石箱のこと。
この店は、私にとってまさに宝石箱なのだ。
美しいものが、より美しく飾られて、静かな店内にたたずんでいる。
「なんて贅沢な時間だろう……」
「何か言いましたか? マスター?」
「いや、何でもないよ」
店内は普通の喫茶店よりも薄暗い。
和紙で作られたランプシェードの中から、オレンジ色の光が柔らかく店内を照らしている。
店内は木の椅子と机、カウンター席は四席、テーブル席は二つ。
ウォールナットのローテーブルは艶やかな光をたたえている。
カウンターの向かい側の白い壁には、カラバッジョの『ナルキッソス』の複製画が飾られている。
私が『ナルキッソス』に見とれていると、伊藤さんが話しかけてきた。
「お店に飾るなら、もっと有名な絵にしようとは思わなかったんですか? カラバッジョがお好きなんですか?」
伊藤さんは30代には見えない、やや筋肉質の細身の体に、この喫茶店の制服である黒に近い紺色のジャケットとパンツを身にまとい、ネクタイではなく白いフリルのアスコットタイで首元を飾っている。男性ではめずらしい肩に届く黒髪を、制服と同じ紺色のベルベッドのリボンでまとめていた。18世紀の貴族をイメージした店の制服が、伊藤さんの端正な顔に良く似合っている。私はうっとりと見つめてしまいそうになり、伊藤さんから視線を外して答えた。
「最初はレオナルドダヴィンチとかボッティチェリとかにしようと思ったんだけどね。個人的にカラバッジョが好きでね。まあ、人としては最悪の部類なんだろうけど、残した作品はどれも抗えない魅力を感じてしまって」
「そうですか。でも、なんでナルキッソスなんですか?」
大して感情のこもらない口調で伊藤さんが私に尋ねた。
「だって、カルバッジョの絵って、痛そうなの多いから。消去法で」
ふっ、と伊藤さんの口角が一瞬上がって、また元の位置に戻った。
「マスターらしいですね」
「そうかな」
ナルキッソスを選んだのは自分自身に対する皮肉でもあった。
手に入らない美しいものを見つめ続ける愚かしさ。決して手が届かないのに目をそらせなかった、自分自身に対する冷たい視線をいつも私の中に感じているが、それがどうしたというのだろう。
モーツアルトの音楽が流れる、美しいもので彩られた店内で、私は一人満たされた気持ちになっている。
カフェ『ポルタジョイエ』は、私にとって本当に宝箱のようなものなのだ。