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第93話:嵐の夜

帆船「シュテルンレーヴェ号」の甲板を、容赦ない雨が叩き続けていた。三本のマストは嵐の猛威にさらされ、船体は激しく揺れ動いている。


俺とエマは下甲板の居住区画にある船室で身を寄せ合い支え合いながら、この旅の始まりを思い返していた。


三日前、港を出発した時の喜びは今でも鮮明に思い出せる。思いがけずエマが次の港まで同行してくれることになり、俺は心躍らせていた。少しでも長く、一緒に過ごせる──それだけで十分だった。


「こんなに大きな船に乗るのは初めてです」


エマは青い瞳を輝かせ、甲板に立つ船員たちの働きぶりを見つめていた。銀色の三つ編みが海風に揺れ、ピンクのワンピースが陽光を受けて美しく輝いている。


「でも、テルと一緒なら何も怖くありません」


俺たちは船首に立ち、広がる青い海を眺めた。水平線の向こうに未来が待っているような、そんな希望に満ちた気持ちだった。エマの手が俺の腕にそっと触れ、その温もりが胸の奥まで届いていく。


夜は船室で語り合った。哲学について、仲間たちのこと、そしてこれから始まる新しい人生について。エマの笑顔を見ているだけで、俺の心は満たされていた。彼女が見せてくれる様々な表情、考え込む時の小さな仕草、すべてが愛おしくて仕方なかった。


しかし、三日目の夜——。


轟音が船体を貫いた。


ドォン!


船が大きく傾き、俺とエマは船室の壁に叩きつけられた。外では船員たちの怒号が響いている。


「何事ですか?」


エマの顔が青ざめ、細い指が俺の袖を掴んだ。俺は彼女の手を取り、廊下へ飛び出した。その手は氷のように冷たく震えていた。


船内は騒然としていた。船員たちが慌ただしく走り回り、太い声で指示を飛ばしている。暗い廊下に松明の光が踊り、木の床板が船の揺れとともに軋んでいた。


「第三区画に大きな損傷!」


「水の流入が止まらない!」


船員たちの厳しい声が響く。


「第三区画を閉鎖しろ!急げ!」


狭い廊下では、忙しなく走り回る船員たちに若い副長が指示を出していた。


「閉鎖装置はどうなっている?」


副長が血相を変えて尋ねた。


「それが——」


船員の顔が暗い表情になった。


「第三区画の扉、修理で古い型に取り替えられていて、ハンドルが片側にしかないのです。本来なら右舷が壊れた時に左舷から操作する設計でしたが、今回は逆の左舷が浸水して……。つまり、ハンドルがあるのは….浸水した区画の内側です」


船員たちの動きが止まった。水の流入音だけが、重い沈黙の中に響いている。


「内側にしか、ないだと?」


副長の声が震えた。


「はい。誰かが中に入ってハンドルを回し、内側から区画を完全に閉鎖しなければなりません。つまり…」


俺は背筋が寒くなった。つまり——誰かが中に残って死ななければならないということだ。


船員たちは皆、顔を見合わせていた。誰も声を出そうとしない。どこからともなく水音が聞こえ続けており、時間は刻一刻と迫っている。


「おい、お前が閉鎖しろ」


副長が一人の少年船員を指差した。少年は恐怖で体を震わせ、返事ができずにいる。まだ幼さの残る顔が青ざめている。


「返事をしろ!それとも海に投げ込まれたいのか!」


「は、はい!」


少年の震え声が響いた。周りの船員たちは皆、目を逸らしている。誰も彼を見ようとしない。彼らの心にも痛みがあるのだろうが、誰も代わりに名乗り出ようとはしなかった。


少年がゆっくりと俺たちの前を通り過ぎていく。その後ろ姿は悲壮なほど小さく、まるで死刑台に向かう囚人のようだった。肩を落とし、足取りも重い。


「あの」


俺とエマが同時に少年に声をかけた。


少年が振り返る。その顔には、諦めと絶望が刻まれていた。死を受け入れようとする表情ほど痛ましいものはない。


「君の名前は?」


俺が優しく尋ねると、少年は涙声で答えた。


「レオン......です」


レオン。ヴァルドフェールで戦死した副長と同じ名前だった。運命的な何かを感じた。もしかすると、これは神が俺に与えた最後の機会なのかもしれない。


「あなたは、いくつですか?」


エマが母親のような優しさで尋ねる。


「十三歳です」


十三歳。俺がヴァルドフェールで殺したマキャベリア兵と同じ数だった。偶然にしては、あまりにも出来すぎている。


レオンの目に大粒の涙が浮かんでいる。体の震えは止まらず、今にも崩れ落ちそうだった。彼はまだ人生を始めたばかりなのに。


「俺が行こう」


「私が行きます」


俺とエマが同時に声を上げた。


二人は顔を見合わせる。エマの青い瞳に、俺と同じ決意が宿っているのが見えた。


「俺が」


「私が」


言い争いになりかけた時、俺はエマの両肩に手を置いた。


「君の力では無理だ。浸水する中で、重いハンドルを回すことはできない」


「でも......テル、あなたは……」


エマの声が震えて、青ざめている。


「君は生きて。それが俺の願いだ」


「いいえ」


エマは激しく首を振った。銀色の髪が乱れ、涙で頬が濡れている。


「テルがいなくなった世界で私は生きていられません。私も行きます」


その時、船がまた大きく傾いた。エマが俺にしがみつき、俺たちは壁に叩きつけられた。時間がない。


俺は意を決した。


「エマ、二人でビリヤードの勝負をした時のこと、覚えている?」


「え?」


「あの時、俺が勝って、エマは俺の言うことを何でも聞くと約束したよね」


その権利を、俺はまだ使っていなかった。


エマの顔が歪んだ。彼女は俺の意図を理解したのだ。


「嫌です!」


俺にしがみつき、顔を見上げる瞳からは涙が止まらない。その透明な雫一つ一つが、俺の心を締め付けた。


「俺は、ヴァルドフェールで十三人の人を殺した」


俺は静かに言った。レオン少年が息を呑むのが聞こえた。


「あの日から、俺はずっと考えていた。どうやったら、その罪を償えるのかって。今、その機会を得たんだと思う。そして何より、俺は、エマに生きて欲しいんだ」


エマは横に首を振り、泣き続けている。その姿はあまりにも痛ましかった。


「エマ、君がいなかったら、俺はここまで来ることができなかった。君は俺を救ってくれた。君は、その優しさと理性で、きっと多くの人を幸せにする。君は素晴らしい教師になって、子どもたちに希望を与えるんだ」


俺はエマの頬に手を当てた。その肌はとても柔らかく、しかし涙で冷たくなっていた。


「ずっと言えなかったけど、ずっと前から思っていた」


俺は深く息を吸った。人生で最も大切な言葉を口にするために。


「愛している。心から、愛している」


エマの瞳が大きく見開かれた。涙が溢れて光っている。


「私もです。私も、あなたを愛しています」


二人は抱き合った。エマの細い体が俺の胸に押し付けられ、彼女の温かい体温が俺の決意を強くしてくれる。この温もりを、永遠に忘れることはないだろう。


船がまた傾く。もう時間がない。


俺は立ち上がった。エマが震えながら俺を見上げている。


俺は精一杯の笑顔を浮かべた。最後に、彼女の記憶に残るための笑顔を。


「ありがとう。君と出会えて、本当によかった」


レオンに振り返る。


「第三区画まで、案内を頼む」


俺たちは歩き始める。後ろを振り返らない。


「テル!」


エマの精一杯の叫びが心を引き裂く。しかし、振り返れば自分の決意が揺らぐ。


船底への階段を下りながら、俺はレオンに言った。


「あの子、エマが困っていたら、助けてやって欲しい。彼女は俺の宝物なんだ」


「必ず僕が助けます」


レオンの声に、強い決意が込められていた。きっと彼は、俺の想いを理解してくれている。


第三区画は既に地獄と化していた。勢いよく海水が流れ込み、冷たい水が腰のあたりまで達している。潮の匂いと金属の錆の匂いが鼻を突いた。積まれていた飲料水の樽がいくつも浮かんでいる。


「戻れ、レオン」


涙目で俺の方を見つめる少年を区画外に押し戻した。そして、重いハンドルに手をかける。


水の抵抗が激しい。俺は全身の力を込めてハンドルを回し始めた。


「閉まれ、閉まってくれ」


そう願いながら、ハンドルを回し続ける。大丈夫だ。少しずつ、扉が閉まっていく。


ついに扉が完全に閉じた。重い金属が擦れ合って軋む音が響く。


「なんとか、間に合ったか」


水は既に腰のあたりに達していた。脱出口を探すが、もちろん、そんなものは見つからなかった。


「そうだよな」


俺は納得していた。最初から分かっていたことだ。


冷たい水が首まで迫ってくる。立ち泳ぎをして、僅かに残った空間で息をする。それでも、呼吸をする余地は刻一刻と奪われていく。そして、俺は静かに水の中に沈んでいった。


反射的に腰に手をやると、エミールの剣に触れた。ヴァルドフェールのことを思い出した。マキャベリア騎士団副長に肩を貫かれ、水中に転落した時の風景と同じだ。あの日、俺は十三人の命を奪った。そして今、俺は船にいる人々の命を救えた。これで、ようやくバランスが取れたのかもしれない。


エマのことを思った。彼女の美しい笑顔、理性的だけれど温かい議論、俺を見つめる優しい眼差し。彼女の三つ編みが風に揺れる姿、頬を染めて恥ずかしがる表情、「ただいま」と言って迎えてくれる声。


「ああ、生きたかった」


不思議と、死ぬことは怖くなかった。ただ、生きたかった。エマと一緒に、もっと長い時間を過ごしたかった。結婚して、楽しく暮らして、一緒に年を取りたかった。


この世界に来たとき、俺は世界を救おうと思っていた。しかし、今なら分かる。人生は、自分と大切なもう一人が入れる大きさの傘を持って歩いていければ、それで十分なのだと。そして、そんな簡単なことが、いかに難しいかということを。


走馬灯が巡る。


初めてこの世界に来た日。エマの部屋で目覚めた時のこと。雷の剣が初めて発動した驚き。生徒会のみんなとの白熱した議論。楽しかったピクニック。アンナの屈託のない笑顔と悲しい別れ。小ジャンヌの鋭い洞察。大ジャンヌの暖かい指導。ベル先生とのこと。エマとのビリヤード。二人だけのデート。そして、最後の旅行。


全ての瞬間が鮮明に蘇る。一つ一つが宝石のように輝いて見えた。何気ない日常のひとコマが、今は何よりも美しく思える。


俺は微笑んだ。


意識が遠のいていく。


後悔はない。


ただ、ただ、生きたかった。エマと、もっと一緒にいたかった。


──そして、俺の意識は暗闇の中に沈んでいった。最後に浮かんだのは、ケーキを食べながら笑うエマの姿だった。


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