第92話:別れ
ヘルメニカに向かう馬車の中で、俺はエマの横顔をぼんやり見ていた。
彼女は以前二人で街を歩いた時に買ったピンクのワンピースを着ている。柔らかな色合いが彼女の印象を違ったものにし、銀色の髪を緩やかに編み込んだ三つ編みには小さな花のピンが留められていた。いつもより華やかに見える彼女に、嬉しい戸惑いを覚えた。
「景色がきれいですね」
エマが窓の外を見ながら言った。山々の緑が美しい季節で、馬車はゆっくりと峠道を進んでいく。
「本当だね。二人で旅していると思うと、なんかいつもと違って見えるよ」
俺の言葉に、エマの頬がほんのり桜色に染まった。三つ編みが肩で軽やかに揺れて、その仕草が美しい。
でも、心の片隅では分かっていた。この楽しい旅にも、終わりが来るということを。シルバーマインに着けば、俺は船に乗ってしまう。そして、エマとは別れなければならない。少なくとも二年は。
————
無事シルバーマインに到着すると、街は相変わらず活気に満ちていた。様々な国から来た商人たちの声が響き、異国の香辛料の匂いが街角に漂っている。
「エマ、あそこのカフェに入ってみないか?」
俺は「ホスト・ウント・ヴェルト」の看板を指さした。以前、アンナと来た時の思い出がよみがえる。
店内は落ち着いた雰囲気で、窓際の席に座った俺たちにコーヒーが運ばれてきた。エマはコーヒーの慣れない味に少し眉をひそめ、小さく顔をしかめる。
「苦いですね」
「砂糖を入れてみて。あと、ミルクも」
俺がそう勧めると、エマは丁寧に小さじ一杯の砂糖とミルクを少し加えた。もう一口飲んで、今度は安堵の笑顔を見せる。
「これなら、我慢しなくても飲めます」
そんなエマを見ていると、アンナのことを思い出さずにはいられなかった。あの時も、ここで彼女とその友だちと哲学の話をしたんだった。
「アンナには、会わなくてもいいのですか?」
思いがけず、エマがそう切り出した。透明感のある青い瞳が、俺を真っ直ぐ見つめている。
「そうだね。たぶん、彼女もそれを望んではいないんじゃないかな」
俺は正直に答えた。アンナはきっと、全てを思い出に変えて、もう前に進んでいるはずだ。
その時だった。
「あした、私の所に来てください、テル」
美しい女性の声が、俺の耳元で静かに囁いた。振り返ると、深いフードを被った女性がすっと立ち去ろうとしている。その後ろ姿に見覚えがあった。
記憶をたどる。その声、優雅な立ち姿、品のある歩き方——
「アテリア女王だ」
俺は思わずつぶやいた。
「誰ですか?」
エマが心配そうに尋ねる。青い瞳に不安の色が宿っていた。
「ヘルメニカの女王陛下だよ」
俺は簡単に説明した。どうやら明日、王宮に来てほしいということらしい。
「あの方が、私に本を貸してくださった!どうしましょう」
エマは思いがけない展開に少し慌てている。その姿が微笑ましい。
————
翌朝、エマと二人でヘルメニカの王宮を訪れた。
「よく来てくれました」
アテリア女王は昨日とは打って変わって、正装で俺たちを迎えてくれた。金色の髪を優雅に結い上げ、深い緑のドレスが彼女の美しさを一層引き立てている。
「実は明後日、旅に出ることになっているんです」
俺が事情を説明すると、女王は優しく微笑んだ。
「そうですか。気をつけて行ってらっしゃい」
その時、エマが一歩前に出た。
「アテリア女王陛下、以前は大切な御本をお貸し頂き、本当にありがとうございました。長くお借りしていましたが、お返しいたします」
エマは丁寧にお辞儀をしながら、大切そうに本を差し出した。
「あなたは...」
女王の瞳に興味深い光が宿る。
「エマンエラ・カンテと申します。先日までフィロソフィア王立学院で学んでおりました」
「あなたがエマですか!ぜひ、いつかお会いしたいと思っていました」
女王の表情がぱっと明るくなった。
「読みましたよ、『永久平和のために』を」
エマの顔に驚きの色が浮かぶ。
「姉のテオリアから送られてきましたの。優秀な学生が書いたものだと。とても参考になります」
女王の言葉に、エマは恐縮しながらも嬉しそうな表情を見せた。透明な瞳が喜びで輝いている。頬にほんのりと薔薇色が差して、控えめながらも笑みがこぼれていた。
「ところで、二人はどういう関係かしら」
アテリア女王が興味深そうに尋ねてきた。
「あの...」
俺とエマは同時に口ごもった。
そんな二人を見ると、女王は微笑んだ。
「私が思うに、二人はお似合いだと思いますよ」
「私が見るところ、エマはとても真面目な方でしょう?そして、テルはちょっと適当ね。こういう組み合わせから中庸は生まれるのです」
俺たちは顔を見合わせて、同時に赤くなる。
「本は、もう少し手元に置いておいてください。また、ここに遊びに来てください。二人でね。それとも三人かしら」
うつむく二人の姿を見て、アテリア女王は楽しそうに笑った。
————
次の朝、ついに旅立ちの時が来た。
港に係留されている船は「シュテルンレーヴェ号」という名の帆船だった。三本のマストを持つ立派な外洋船で、すでに多くの乗客が乗り込んでいる。
船腹から埠頭に渡し板がかけられ、俺は渡し板の先に、エマは埠頭の端に立っていた。わずか1メートルの距離なのに、それが途方もなく遠く感じられる。
最後の最後まで、俺はプロポーズのことを考えていた。でも、どうしても言葉が出てこない。二年も別れる際になって、そんな事を言うべきじゃない。エマも何か言いたそうにしているのに、唇を噛んで黙ったままだ。
「それじゃあ、元気で」
俺がやっと声を絞り出した。
「テルも、どうぞ無事で」
エマの声も震えている。透明な瞳に、うっすらと涙が浮かんでいた。
どちらともなく手を差し出し、握り合った。エマの少し冷たい手のひらが、愛おしい。時間が止まればいいのに、と強く思った。沈黙が続く中、俺はその手を離したくない気持ちでいっぱいだった。
その時、船の鐘が鳴って出発を告げた。碇が巻き上げられ、船が揺れ始める。船が埠頭から離れ、渡し板が引き上げられようとした、その瞬間——
まるで磁石のように、俺たちの体が自然に引き合った。不思議な感覚だった。どちらからともなく、相手を引き寄せていた。エマの体が埠頭を離れて一瞬宙に浮き、俺はそれをしっかり抱き留めた。
俺たちは無言で抱き合った。彼女の細い体が俺の腕の中にあって、銀色の髪からラベンダーの香りがした。時が止まったような、静かな瞬間だった。三つ編みが俺の胸に触れて、その柔らかさに心が満たされる。
「危ないぞ! 急いで」
船員が渡し板の上にいる俺たちを見つけて大声で叫ぶ。俺たちは渡し板の上を急いで走って船に乗り込んだ。
俺たちは手を繋いだまま、息を切らせて向かい合っていた。しばらくして我に返ったエマが、慌てたように俺から離れた。
「どうしましょう...乗ってしまいました...」
頬を真っ赤にして、困ったような表情を浮かべている。でも、その瞳の奥には隠しきれない喜びが宿っていた。
「いいんじゃないかな」
俺も満面の笑みを浮かべていた。
「次の港まで行こう。そこで降りればいい」
次の港、と気楽に言ったが、最低1週間は航海が続く。
「そうですね。そうします」
そんな事は全く気にならないかのように、エマが軽く頷いた。
二人とも何も言わなかったけれど、気持ちがお互いの全身から溢れていた。船は静かに港を離れ、青い海原へと向かっていく。
エマの乗船手続きを済ませて甲板に上ると、夏の海風が帆を膨らませ、エマの髪を優しく揺らしていた。銀色の三つ編みが風に舞って、海の青さに映えて美しい。別れの時が少し延びただけなのに、どうしてこんなにも嬉しいのだろうかと不思議になるほど俺の心は晴れやかだった。




