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第91話:旅立ち

初夏の日差しが王立学院の窓を優しく照らす頃、エマは無事に卒業論文を提出していた。


部屋の荷物も少しずつ整理が進んでいる。銀髪を丁寧に三つ編みにまとめたエマは、本や小物を慎重に箱へと詰めていく。その手つきはいつものように几帳面で、一つ一つの品物を大切そうに包んでいた。白いブラウスの袖が本の表紙を撫でるたび、かすかに埃が舞い上がる。


荷物を片付けながら、エマがわざとらしくひとり言を漏らす。


「テルはこれからどうするつもりでしょうね」


振り返ると、透明感のある青い瞳がちらりと俺の方を窺っていた。心配そうな表情を隠しきれずにいる彼女を見ていると、申し訳ない気持ちになる。


ある夜、俺はついに重い腰を上げて切り出した。


「エマ、話がある」


「なんでしょう……」


緊張した様子のエマが本から顔を上げる。白いブラウスの胸元がそっと上下して、息を呑んでいるのが分かった。青い瞳が不安そうに揺れている。


「実は……」


言葉が途中で詰まってしまう。鼓動が早くなる。とりあえず何か言わなければ、と俺は自分に言い聞かせた。


「実は、旅に出るんだ。二年ほど」


「……旅……ですか……」


驚いたようなエマが、眉をわずかに上げる。


大ジャンヌに言われたことを説明していく。成長のために世界を見て回ること、寒冷地のやせた土地でも育つ食用植物を探し、貧しい人々が生きていけるよう新しい農業技術を学んでくることを話した。


エマは静かに頷いている。


「とてもいいと思います。それは、平和のためにもなりますし」


理性的な彼女らしい返答だったが、その声にはかすかな寂しさが混じっていた。三つ編みの先端を指でそっと触りながら、視線をやや下に向けている。


「王宮からの許可は得られたのですか?」


「ああ」


俺は説明した。自分の不在が知られないよう密かに旅立つことを提案したのだが、カリアはむしろ、俺が遠くに旅立つという情報を流すべきだと提案したのだ。その方が、マキャベリアはフィロソフィアの意図を測りかねて警戒するだろう、と。隠したところで、いずれ情報は漏れるものだ。先手を打った方がいい。


「二年後には……その……」


口ごもるエマ。銀髪を耳にかける手が微かに震えているのに気づいた。


「帰ってくる! 絶対に帰ってくるよ!」


結婚、とは言えないけれど、エマを不安にさせたくなかった。声に力を込めて断言する。


「そうですか、安心しました」


エマは微笑んだが、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。唇がわずかに震えている。


「ぜひ、私の街にも来てくださいね」


「もちろん行くよ。楽しみなんだ、エマの生まれ育った街に行くのが」


今度のエマの笑顔は本物だった。頬がほんのりと薄紅色に染まって、瞳に温かい光が宿る。三つ編みがふわりと揺れる。


俺は言葉の勢いがなくならないうちに、続けた。


「エマに、見送って欲しいんだ、旅立ちを」


「もちろんです。どこから旅立つのですか?」


エマの顔が明るくなる。


「ヘルメニカ、シルバーマインの港からだよ」


「分かりました。私がテルを見送ります」


答えるエマの声は明るかったが、その表情には複雑な感情が浮かんでいた。嬉しさと寂しさが同時に顔を覗かせている。


————


卒業式は穏やかに終わり、俺は生徒会の皆と最後の挨拶を交わした。夕日が学院の石畳を赤く染める中、それぞれが思い思いの言葉を口にしてくれる。


「テル、二年間の旅、頑張って」


ジーナがいつものように威厳のある笑顔で言った。銀灰色のショートカットが夕日に輝いて、コバルトブルーのマントが風になびいている。


「君は成長した姿で帰ってくるだろうね」


「ありがとう、ジーナ」


ルーシーは正確な言葉で別れを告げた。


「異なる言語圏での体験が、あなたの世界観を豊かにするでしょう。旅の安全を祈ります」


漆黒の長い髪が肩に流れ、紺碧色の瞳がいつもより優しく見えた。普段の厳格な表情の奥に、温かな想いが隠れている。


「君も元気でね、ルーシー」


ミルは小さな体で背伸びをして、俺の肩にそっと手を置いた。


「テルの旅は多くの人の幸福につながるはず。でも個人的には寂しいけどね」


栗色のボブカットが揺れて、大きな青灰色の瞳がうるんでいる。


「そういえば、アンナ、帰ってこなかったね」


「そうだね……」


アンナはヘルメニカに帰ったまま、卒業式には現れなかった。その事情を知っているのは俺とエマだけだった。


思い出の詰まった生徒会室に別れを告げ、エマと二人で帰る途中、中庭で小ジャンヌを見つけた。彼女は一人でベンチに座り、本に目を通している。エマに待ってもらい、彼女に駆け寄る。


「小ジャンヌ」


「テル」


眼鏡の奥の薄茶色の瞳が俺を見つめている。いつものように静かで、どこか哲学的な雰囲気を漂わせていた。


「旅に出るのね」


「ああ。君にはいつも助けてもらった」


「旅があなたの『実存』をどう変化させるか、興味深いわ」


小ジャンヌらしい言葉だった。眼鏡を軽く直しながら、思慮深い表情を見せる。


「帰ってきたら、また話そう」


「もちろんです」


小ジャンヌが思いがけず俺の耳元でこう囁いた。


「あなたとの出会いは偶然でした。でも、私の気持ちは必然ですから」


「…そうだね」


最後まで小ジャンヌのことを全部は理解できなかった、と思いながら俺はそう呟いて彼女に別れを告げた。


————


夜、部屋に戻ると、荷物の大半が片付けられてがらんとしていた。明日はもう旅立ちの日。この部屋から俺のこの世界での旅が始まったのだ、と感慨にふける。月明かりが窓から差し込んで、室内をうっすらと照らしていた。


ベッドに横になりながら、俺はエマを見つめた。彼女は机に向かって最後の片付けをしている。銀髪がランプの明かりを受けて美しく輝き、その横顔は絵画のように美しかった。


「エマ!」


思わず、呼びかけてしまった。


「はい!」


振り返った顔が期待に満ちている。


「なんでしょう」


薄紅色の唇がわずかに開いて、俺の言葉を待っていた。


それでも言葉は出てこなかった。胸の奥で言葉がつかえて、喉まで出かかっているのに声にならない。結婚してほしい、一緒についてきてほしい。そんな言葉をかけられるはずもなかった。


「寝よう!明日、早いから」


「……はい」


エマの表情がわずかに曇った。何かを期待していたのかもしれない。青い瞳に一瞬の失望が浮かんだが、すぐに理解のある微笑みに変わる。


自分の勇気のなさが情けなくて仕方がない。これほど大切な人がすぐそばにいるのに、なぜ素直な気持ちを伝えられないのだろう。


エマがランプを消すと、部屋が静寂に包まれた。しばらくするとエマの寝息が聞こえてきたが、俺はなかなか眠れなかった。規則正しい呼吸音が、普段なら安らぎを与えてくれるのに、今夜は胸を締め付ける。


明日、この部屋を出たら、もう二度と戻ってこないかもしれない。エマと過ごしたこの時間も、もう終わりなのかもしれない。


俺は、最後の最後まで自分の気持ちを伝えることができなかった。簡単なはずの言葉が、どうしても口から出てこない。


この世界では人生の展開が速すぎる。自分が何をやりたいのかも分からないうちに、結婚を申し込めるはずがない。


初夏の夜風が少しだけ開けた窓から入ってきて、カーテンを静かに揺らしていた。旅路への不安と、エマを残していくことへの罪悪感が、心の中で渦巻いている。


俺は天井を見つめながら、大ジャンヌの言葉を思い返した。成長のための旅、人として一回り大きくなって帰ってくること。それができたとき、きっと俺はエマに堂々と気持ちを伝えられるようになっているだろう。


そんな言い訳めいた希望を胸に、俺はようやく眠りについた。窓の外では、夜が深々と更けていく。

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