第86話:進路相談
翌日の朝、俺は決意を固めて校長室の扉をノックした。中からいつものような気さくな声が聞こえてくる。
「どうぞ」
扉を開けると、茶色の無造作な髪をした大ジャンヌが、いつものラフな服装で机に向かっていた。親しみやすい雰囲気を漂わせながら、書類に目を通している。
「テル、どうしたんだ?今日はずいぶんと深刻な顔をしているじゃないか」
大ジャンヌは俺の表情を見て、すぐに何かを察したようだった。書類から手を離し、俺の方に体を向ける。
「実は、相談したいことがあります」
俺は椅子に座りながら、昨日から考え続けていたことを話し始めた。
「俺は、ここでの衛兵の仕事が好きです。生徒たちを見守り、学院の平和を守ること。やりがいを感じています」
大ジャンヌは静かに俺の話を聞いている。肘を机につき、指を組んで俺を見つめていた。
「でも、みんなが卒業していく中で、俺だけここに残って衛兵を続けるのが良いのか、最近分からなくなってきました」
俺は左肩の傷跡を無意識に触った。まだ時々、鈍い痛みが走る。
「騎士についても、いつかのタイミングで身を引きたいと思っています。人を殺すのを前提とした仕事に、どうしても慣れることができません」
大ジャンヌの表情が少し和らいだ。まるで俺の気持ちを理解してくれているような温かさがあった。
「それで、何かやりたいことはあるのかい?」
大ジャンヌの質問に、俺は困ってしまった。
「すぐには思いつきません。正直に言うと」
俺は頭を掻きながら続ける。
「生徒会のみんなのように、特別な能力や夢があるわけじゃないんです。エマは教師になりたいって明確に言えるし、ルーシーは外交官、ジーナは官僚。でも俺は、自分に何が向いているのか、正直分からないんです」
大ジャンヌは俺の言葉を静かに聞いていたが、やがて優しい笑みを浮かべた。
「テル、誰もが自分の才能や向き不向きが、あらかじめ分かっているわけじゃないんだよ」
彼女は立ち上がると、窓の外を見つめながら続けた。肩のラインが陽光に浮かび上がり、意外に華奢な体つきをしているのが見える。
「何かをやってみる中で、自然と自分の適性が分かってくるものなんだ。例えば衛兵の仕事は君に向いている」
「そうでしょうか?」
「もちろんだよ。雷の剣という力がありながら、それを鼻にかけることなく、生徒たちを温かく見守っている。外敵と戦う勇気もある。君は立派な衛兵だ」
大ジャンヌの言葉に、俺は少し嬉しくなった。しかし、心の奥の複雑な感情は消えない。
「衛兵の仕事に不満があるわけじゃありません。ただ……」
俺は言葉を濁した。どう説明すればいいか分からない。
大ジャンヌは俺の表情を見て、何かを理解したような顔をした。振り返った彼女の瞳に、深い洞察力が宿っている。
「大切な人が別の場所へ行ってしまう、ということかい?」
俺は驚いた。まさに、そのことを悩んでいたのだ。
「はい」
俺は素直に頷いた。
大ジャンヌは俺の前に戻ってきて、真剣な表情で言った。
「テル、もし君の大切な人――つまりエマが死んだと聞いたら、君はどうする?」
突然の言葉に、俺は戸惑った。しかし、大ジャンヌの毅然とした口調が、あたかもそれが現実であるかのように感じさせる。俺は今まで感じたことのない恐怖を覚えた。
「そんなことは考えられません」
俺の声は震えていた。顔が青白くなっているのが自分でも分かった。
「もし自分の人生からエマがいなくなったと考えると、正直……どうしていいか分かりません」
エマは俺がこの世界で最初に出会った人だ。その後も、エマを接点として俺のこの世界での人間関係は築かれてきた。それ以上に、いつも俺のそばにはエマがいて、そのことに俺は安心し、助けられてきた。多くの知り合いがいる今でも、やはりエマがいない人生は考えられなかった。いや、考えたくもなかった。
大ジャンヌは俺の様子を見て、少し困った顔になった。短い茶色の髪が頬にかかり、その顔が母親のような優しさを浮かべている。
「悪かった。そこまで動揺するとは思わなかった。からかったわけじゃない、確かめたんだよ」
彼女は俺の肩に手を置いた。
「テル、君の心はもう決まっている。これからの人生を、エマとともに送りたいのだろう?」
はっきりと言われて、俺の顔が熱くなった。確かに、その通りだった。
「何も恥ずかしがることはないよ。君たちはお似合いだ」
「いや、でも、エマがどう思っているのか……」
俺は挙動不審になっていた。自分の気持ちをここまで見透かされて、動揺している。
大ジャンヌは俺の様子を見て、小さく笑った。そして、提案をした。
「テル、君に一つ提案がある」
「提案ですか?」
「二年間、世界を旅してみないか?」
「世界を旅?」
俺は首をかしげた。
「そうだ。君は報奨金で十分な資金がある。その間に様々な国を見て、様々な人に会い、様々な経験をする。そうすれば、君が本当にやりたいことが見えてくるかもしれない」
大ジャンヌの瞳に、深い確信の光が宿っていた。
「二年あれば、君もエマも、お互いにこれからの生き方が決まるだろう。その時に、エマに君の気持ちを伝えれば良い」
大ジャンヌの提案に、俺の心が軽くなった。確かに、報奨金もあり、世界を見て回る余裕はある。その間に成長し、自分の生き方を決められれば良い。
「でも、何か旅の目的はあった方が良いね」
大ジャンヌが付け加えた。机に戻って椅子に座り直す。
「誰かに会うとか、何かを探すとか。ただの観光旅行では、君の成長にはつながらないからな」
俺は考えた。ふと、ヴァーグナー卿との会話が頭によみがえる。痩せた土地の貧しい家の話。それが、戦争の根本的な原因になっていることを。
そうだ。寒い痩せた土地でも実る作物が、この世界にはあるのではないか。それをマキャベリアが栽培できれば、彼らの侵略の根本にある貧しさや恐怖を和らげることができるのではないだろうか。
「寒冷地でも育つ作物を探す旅はどうでしょうか?」
俺は思いついたアイデアを口にした。
「マキャベリアの根本的な問題は、厳しい気候と痩せた土地による食糧不足です。もし、そこでも育つ作物があれば、彼らの侵略の動機を取り除けるかもしれません」
大ジャンヌの目が輝いた。机についていた肘を外し、身を乗り出す。
「とてもいいアイデアだと思うよ」
彼女は興奮気味に続けた。
「リガーツクの和約が結ばれて、これから二年は恐らくローレンティアの共同開発が進むだろう。その間、テルが不在でも、マキャベリアもさすがに侵攻してはこないだろう。もし、そうした作物を見つけられれば、マキャベリアは豊かになり、テルは晴れて退役できるかもしれない」
俺の心は、すっかり晴れやかになっていた。
世界を見よう。そして、成長した自分で、エマを迎えに行こう。
「ありがとうございます、大ジャンヌ」
俺は心からの感謝を込めて言った。
「君なら、きっと素晴らしい旅ができる。そして、素晴らしい答えを見つけられるよ」
大ジャンヌは温かく微笑んだ。茶色の髪が窓からの光を受けて柔らかく輝いている。
校長室を出る時、俺の足取りは驚くほど軽かった。二年後、俺はどんな人間になっているのだろうか。そして、エマに自分の気持ちを伝えるのだ。そんな未来への希望で胸がいっぱいになった。




