第85話:進路
夕方の生徒会室に、久しぶりにいつものメンバーが全員揃った。エンポリアから戻ったルーシーが、漆黒の長い髪を肩に流し、白いブラウスに深紅のリボンを締めた凛とした姿で席に着いている。紺碧色の瞳に、少し疲れの色が残っているものの、その奥に新たな決意の光が宿っていた。
「お疲れさま、ルーシー」
エマが懐中時計を胸元にしまいながら、温かい声をかけた。銀色の三つ編みが夕日を受けて美しく輝いている。
「皆さんにご心配をおかけしました。しかし、とても貴重な経験をさせていただきました」
ルーシーは丁寧に会釈した。
「外交交渉って、実際どんな感じだったの?」
アンナが金褐色の髪を耳にかけながら、好奇心に満ちた緑色の瞳でルーシーを見つめる。
「複雑でした。一つの単語、一つの表現が、両国の関係を左右する可能性があります。言葉の持つ力を改めて実感しました」
ルーシーの声には、これまでにない深みがあった。
「それで、どうだった?やりがいを感じた?」
俺が身を乗り出して尋ねる。
ルーシーは少し間を置いてから、はっきりとした口調で答えた。
「はい。私は、将来外交官になりたいと思うようになりました」
生徒会室に静寂が訪れた。しかし、それは驚きというよりも、みんながルーシーの決意を理解し、尊重している証拠だった。
「素晴らしいですね」
エマが最初に口を開いた。透明感のある青い瞳が輝いている。
「あなたの言語能力なら、きっと優秀な外交官になれるでしょう」
「ルーシーにぴったりの職業だと思うよ」
ジーナも銀灰色のショートカットを軽く揺らしながら同意した。鋭い青緑色の瞳に知的な満足感が浮かんでいる。
「クラウス卿も同じことを仰ってくださいました。まだ学ぶべきことは山ほどありますが、その道に進みたいと思っています」
ルーシーの表情に、これまで見たことのない充実感が漂っていた。
「それにしても、みんなもうそんなことを考える時期なのね」
ミルが小柄な体を椅子の上で正しながら、大きな青灰色の瞳で仲間たちを見回した。胸元の四つ葉のクローバーのブローチが光を反射している。
「そういえば、エマは将来何になりたいの?」
ミルが尋ねると、エマの頬がほんのりと桜色に染まった。
「私は教師になりたいと思っています」
「やっぱり!」
アンナが嬉しそうに手を叩いた。
「エマが先生だったら、絶対に良い先生になるよ。論理的だし、優しいし」
「ありがとうございます」
エマは照れたような表情を見せた。
「貧民街での活動を通じて、教育の大切さを改めて実感しました。知識を伝えることで、人の人生を変えることができる。それは、とても意義のあることだと思うのです」
エマの声には強い信念が込められていた。
「ミルはどうなの?」
ジーナが小さな天才に視線を向ける。
「私はまだはっきりと決めていません」
ミルは少し困ったような表情を見せた。
「父は学者の道を期待していますが、最近は商売も面白そうだと思い始めています。テルとエマと一緒に紅茶の事業を計画していて、それがとても楽しいのです」
「学者と商人、どちらも君に向いていると思うよ」
俺は率直に言った。
「どちらも頭を使う仕事だし、ミルなら何にでもなれるんじゃないかな」
「ありがとうございます。もう少し時間をかけて考えてみます」
ミルは微笑みながら答えた。
「ジーナはどうなの?」
今度はアンナがジーナに向き直った。
「私は官僚になりたいと思っているんだ」
ジーナは迷いなく答えた。コバルトブルーのマントが背もたれに優雅に掛かり、その威厳のある佇まいがより一層際立って見える。
「王宮に勤めて、国の政策立案に関わりたい。対立する利害を調整し、より良い社会を作ることに貢献したい」
「ジーナらしいですね」
ルーシーが感心したような表情で言った。
「ジーナの『弁証法』的思考は、国の政策立案にとても向いていると思います」
「それで、アンナは?」
俺がアンナに視線を向けると、彼女は少し困ったような表情を見せた。金褐色の髪を指でくるくると巻きながら、緑色の瞳を宙に泳がせている。
「うーん…よく分からないかな」
「え?」
「だって、まだ分からないもの。人生って、思いがけない出会いや経験で変わっていくでしょう?今決めちゃったら、もったいないような気がするの」
アンナらしい自由な考え方だった。
「私は気の向くまま、心の赴くままに生きていきたいの。芸術だって、冒険だって、恋愛だって…何が待っているか分からないから面白いのよ」
「アンナらしいや」
俺は笑いながら言ったが、どこか曇っているアンナの表情が気になった。
次はみんなの視線が俺に集まった。
「テルはどうなの?」
エマが興味深そうに尋ねる。
「俺は…まだ全然分からない」
俺は正直に答えた。
「ここで衛兵は続けるつもりだけど、それが一生の仕事なのかどうか。騎士はたぶん、向いていない。俺の場合、この国に来てまだ日が浅いから、選択肢がよく見えていないんだ」
「時間をかけて考えればいいのよ」
アンナが励ますように言った。
その時、ジーナが何気なくつぶやいた言葉に、俺は驚愕した。
「それにしても、もうみんな卒業まで数か月なのね」
「え?」
俺は思わず声を上げた。
「卒業って、いつ?」
「この夏だよ。7月には卒業式がある」
ジーナが当然のように答える。
「ちょっと待って…今、4月だよね?」
「そうよ。あと3か月くらい」
俺は愕然とした。もうそんなに時間がないのか。
「テル、どうしたの?そんなに驚いて」
エマが心配そうに俺を見つめる。
「いや、その…なんとなく、もっと時間があると思ってたんだ」
俺はうまく説明できなかった。みんなとのこの時間がもっと続くと漠然と思い込んでいた。
「でも、考えてみれば当然よね」
ミルが現実的な口調で言った。
「私たちももう十分に学んだし、それぞれの道に進む時期が来たということです」
夕日が生徒会室を赤く染める中、俺は複雑な気持ちになっていた。この仲間たちとの時間が、もうあと数か月で終わってしまうなんて。
————
その夜、俺は家でエマに今日の会話について話した。
「みんな、もう将来のことをしっかり考えているんだな」
俺はベッドに腰掛けながら言った。
「それが普通です」
エマは髪を梳かしながら答えた。銀色の髪が月明かりに照らされて美しく輝いている。
「俺の世界では、仕事に就くのは大学を出てから、転職とかもあるし、人生が落ち着くのは30歳ぐらいだったから」
驚きでエマの瞳が見開かれる。
「30歳って、この国では結婚して子どもが何人か学校に通っている年ですよ?テルはまだ時間があると思っているかもしれませんが、この国では人生の進み方が早いのです」
「そうなの?」
「学院を卒業してすぐに結婚する人だって多いのですよ」
エマの言葉に、俺は驚いた。
「結婚?」
「はい。20歳前後で結婚するのが一般的です」
エマは振り返ると、透明感のある青い瞳で俺を見つめた。
「エマは結婚についてどう考えているの?」という言葉は喉の奥に詰まったままだった。沈黙が二人の間に漂う。
そのうち、エマが話題を変えた。
「私は実家に帰って、そこで教師をしたいと思っています」
「実家で? ここではなくて?」
「はい。王都での教師も魅力的ですが、私は田舎の方が向いていると思うのです」
エマは窓の外を見つめながら続けた。
「故郷の子どもたちに、読み書きや算術、そして哲学の基礎を教える。地味な仕事かもしれませんが、きっと意義のあることだと思います」
俺は胸の奥が重くなった。エマが実家に帰ってしまうということは...。
「それは...いつ頃の話?」
「卒業後、すぐに」
エマの答えに、俺の心は沈んだ。
「私は故郷が大好きなんです。それに、家族のそばにいたいという気持ちもあります」
エマの声には、深い愛情が込められていた。
「そうか...」
俺は言葉を失った。確かに、エマには彼女なりの人生設計があるのだ。俺の都合で引き止めることはできない。
「テルは…どうするのですか?」
エマが振り返って尋ねた。
「俺は...まだ分からない」
俺は正直に答えた。
「騎士を続けるなら王都にいることになるだろうし、でも他にやりたいことが見つかれば...」
「テルのやりたいことはなんですか?それは田舎でもできることですか?」
エマが早口になる。
「…そうだといいな、とも思う」
思わず、二人で顔を見合わせたあと、なんとも言えない気まずさに視線を逸らした。
しかし、残された時間はそれほど多くないことを、俺は今日初めて知った。
夜更けに一人で考えていた。この世界に来てから、俺は多くのことを学んだ。エマや仲間たちとの時間は、俺にとってかけがえのないものになっている。
しかし、それもいずれは終わりが来る。みんなそれぞれの道を歩み始める。
俺はどうすべきなのか。やりたいことも分からず、単にエマについて行くってどうなのか。そもそもエマはそれを望んでいるのだろうか。
答えはまだ見つからなかった。しかし、考える時間は思っていたより短いことだけは確かだった。
月明かりが部屋を照らす中、俺は長い夜を過ごしていた。




