第84話:アンナと「スケッチ」
リガーツクから戻った翌日、午後の生徒会室。
俺は疲労からか、椅子に深く腰を下ろして、ぼんやりと窓の外を眺めていた。まだ左肩にかすかな痛みが残っているが、もう実戦には支障がない程度だ。
向かいの席では、アンナが何やら集中して鉛筆を動かしている。金褐色のセミロングの髪が午後の光を受けて輝き、澄んだ緑色の瞳が真剣そのものだった。
たまに目が合う。アンナは時々俺の方を見上げて、はっとするような真剣な瞳で俺を見つめていた。何かを確認するような、そして何かを心に刻み込むような視線だった。
気になってアンナの手元をのぞき込むと、どうやら絵を描いているようだ。
「アンナ、何を描いて…」
俺が立ち上がろうとすると、アンナが思いがけず強い声で制止した。
「ストップ。もう少しだから、動かないで」
普段の彼女からは想像できないほど真剣で、有無を言わさぬ響きがあった。俺は慌てて椅子に座り直した。
再びアンナの方を見ながら時間が過ぎていく。鉛筆が紙の上を走る音だけが、静寂に満ちた生徒会室に響いていた。カリカリと規則正しい音が、まるで時を刻むように聞こえる。
アンナの表情は集中そのものだった。眉間にうっすらとしわを寄せ、下唇を軽く噛みながら、一筆一筆に魂を込めているようだった。
しばらくすると、アンナの表情がふっと和らいだ。
「ありがとう。もう良いわよ」
俺は立ち上がり、アンナの隣に歩み寄った。
「何を描いてたの?見せてもらっていい?」
「もちろんよ」
アンナは嬉しそうに頷き、スケッチブックを俺の方に向けた。
俺が紙をのぞき込むと、そこには確かに俺の姿が描かれていた。椅子に座って窓の外を見つめる横顔。確かに俺に見えるのだが、実際よりもずっとかっこよく描かれている。まるでゲームのパッケージに登場する勇者のような、凛々しい表情をしていた。
光と影の使い方が絶妙で、午後の陽光が頬に当たる様子まで繊細に表現されている。髪の一本一本まで丁寧に描き込まれ、瞳には深い思索の光が宿っていた。
「どう?」
アンナが俺の方を見上げる。とても距離が近くて、彼女特有のバラの香りに鼓動が少し高まった。
「いや、すごくいい。これ、もらってもいいかな?」
俺が素直に感想を述べると、アンナは即座に首を振った。
「ダメ!」
思いがけず強い口調に、俺は驚いた。こういうものは気前よくくれそうな気がしていたのだが。
「絵を描くことは、描いているものを愛することなの」
アンナの瞳が熱を帯びて輝いた。
「見つめて、心に焼き付けて、一筆一筆、それを慈しむように写し取っていくの。線の一本一本に、私の想いが込められているのよ。この絵はあなたそのものだから、私のものよ」
アンナの表情が普段の明るさとは違う、深い情熱に満ちている。芸術家としての彼女の本質が、言葉の端々から溢れ出していた。
「なるほど、そういうものなのか」
俺が答えると、アンナは少しあきれたように笑った。
「テル…あなたって、本当に…」
「そうだ、今度は、あなたが私を描いてみてよ。そうすれば、私の気持ちが分かるわ」
アンナが突然提案した。
「いやそれは…俺は絵が下手だから」
「いいのよ。とにかく描いてみて」
アンナに押し切られて、俺は彼女の向かいに座り、新しい紙を前に置いた。鉛筆を手に取ると、妙に重く感じられる。
アンナをじっと観察して、筆を下ろした。
椅子に腰かけたアンナの顔立ちは、とても美しく整っていた。長い金色の髪が肩から背中にかけて流れ、その輝くような色合いが室内の光を受けて印象的だった。高い額と細い眉、そして澄んだ緑色の瞳は、静かで知的な印象を与えている。すっと通った鼻筋と薄いピンク色の唇が、上品な美しさを作り出していた。
紺色の制服を着た姿は、人形のように完璧でありながら、十代の少女らしい初々しさも感じられる。胸元の赤いリボンと金色のボタンが、きちんとした装いを演出している。椅子に座った姿勢も背筋が伸びて美しく、どこか絵画の中の人物を思わせる幻想的な雰囲気がある。
その整った顔には、ほんのりと憂いを含んだような表情が浮かんでいて、見ている人の心を引きつける不思議な魅力があった。完璧すぎるほどの美しさの中に、少女らしい繊細さが宿っている。
俺は、自分の心の中に浮かぶアンナの姿を夢中で写し取っていく。心に映る美しさを、なんとか紙の上に表現しようと必死だった。
アンナの方を見ると、心なしか瞳が潤んで、頬が紅潮しているように見える。俺が筆を進める様子を見つめる彼女の表情は、徐々に何かを我慢するかのような、苦しさが浮かび始めた。
「アンナ?」
そう話しかけようとした瞬間だった。
アンナが突然吹き出して、机の上に崩れ落ちた。肩を震わせて笑い声が止まらない。
「どうしたの?何がおかしいの?」
「ごめんなさい」と言いながらも、アンナの笑いが一向に止まらない。
アンナは机の上の俺が描いた絵を引き寄せて、改めて見つめた。
一瞬の静寂の後、アンナがまた爆笑し始めた。笑いすぎて涙を流している。
「苦しい…テル…私を殺す気なの…」
「これ、私なの?それ以前に、人間?」
俺は恥ずかしくなって反論した。
「だから言ったんだよ。俺は絵が下手だって」
「ごめんごめん。でも、本当にこれには、ビックリしたわ。ある意味すごいのよ」
アンナは珍しく俺に気を遣って笑いを止め、表情を真剣なものにしようとした。しかし、3秒後にはまた爆笑を始めた。
「ごめん。無理だから。これ。無理だから!」
アンナの笑いに、俺までおかしくなってきて笑い出した。確かに、ひどい出来栄えだった。客観的に見れば、エイリアンとゴリラを足して二で割ったような造形になっていた。これでも俺は真剣に描いたのだが、芸術的センスの違いというものは恐ろしい。
「いや、真剣に描いたんだよ。アンナを心に描いて」
「あなたには、私がこう見えているってこと?」
「いや、確かに違うけども」
俺たちは散々笑い合った。生徒会室に久しぶりに響く、心からの笑い声だった。窓の外の陽光が暖かく、部屋全体が笑いの余韻に包まれている。
笑いが一段落すると、アンナが涙を拭いながら言った。
「これ、私がもらってもいい?」
笑い終わったアンナの表情が、思いがけず真剣になっている。
「いいよ。もう一生描かないから、すごい貴重なものだよ」
「そうね。大切にするわ」
アンナの表情が本当に真剣になり、絵に目を落とした。まるで本当に宝物を見つめるような眼差しだった。その表情があまりにも美しくて、俺は少し見とれてしまった。
しかし、静寂は3秒続かなかった。
「やっぱり無理!これは無理だから!」
アンナがまた絵を見つめて爆笑し始めた。もう腹筋が痛くて仕方がない、といった様子で机に伏せている。
午後の陽光が差し込む生徒会室で、俺たちの笑い声がいつまでも響いていた。戦争の記憶も、明日への不安も、この瞬間だけは忘れて、ただ純粋に笑い合っていた。
アンナが大切そうに絵を胸に抱く姿を見て、俺は思った。きっと絵の上手下手なんて、本当は関係ないのかもしれない。大切なのは、そこに込められた想いなのだろう。
俺の絵は確かにへたくそだったが、それでもアンナが愛おしそうに抱きしめてくれるのなら、それで十分だ。技術なんてなくても、相手を思う気持ちがあれば、それが一番大切なことなのかもしれない。
「テル、今度はもう少し練習してから描いてね」
「分かった。アンナに教えてもらおうかな」
「喜んで!でも、まずは人間を目指しましょう」
俺たちはまた笑い出した。穏やかな午後のひとときが、ゆっくりと過ぎていく。窓の外では鳥たちがさえずり、暖かい陽光が生徒会室を優しく包んでいた。




