第83話:リガーツクの和約
エンポリア王国の首都リガーツクで行われた三日間の交渉が、ついに合意に達した。
「リガーツクの和約」と名付けられた協定の内容は以下の通りだった。
まず、マキャベリア軍はローレンティア地方の全ての占領地から六十日以内に完全撤退する。次に、今回の偶発的な軍事衝突について、双方とも相手に対する賠償を求めない。そして、フォルスク条約は引き続き有効とし、四カ国による鉱山の共同開発を継続する。ただし、フォルスク条約の曖昧な条項については、改正に向けた新たな交渉を開始する。
俺は交渉の締結式に立ち会い、ヴァーグナー卿とクラウス卿が握手を交わす瞬間を目の当たりにした。両者とも表情は硬く、心からの和解というよりは、現実的な妥協の産物であることが見て取れた。
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リガーツクからクロイツベルクへの帰路、俺は外交馬車の中でクラウス卿とルーシーと同乗していた。
「ルーシーのおかげで助かったよ」
クラウス卿が杖を握りながら、心からの感謝を込めて言った。七十を超える老人の顔に、深い安堵の色が浮かんでいる。
「君の言語能力がなければ、あの複雑な条文をまとめることはできなかった。ようやく、私も楽ができそうだ」
「いえ、私はただお手伝いをしただけです」
ルーシーは謙遜しながら答えたが、その表情には明らかな疲労が見えた。漆黒の長い髪が肩に垂れ、紺碧色の瞳は輝きを失っている。三日間、一言一句に神経を集中させた結果だった。
馬車が石畳の上で揺れるたびに、ルーシーの細い体が大きく揺れる。俺は心配になって声をかけた。
「大丈夫? かなり疲れているみたいだけど」
「ありがとうございます。大丈夫です」
そう言ったルーシーだったが、顔には疲労の色が濃く、体は馬車の揺れに力なく傾いた。俺は慌てて彼女の肩を支えた。
「無理しないで。俺の肩に寄りかかってていいから」
「申し訳ありません」
ルーシーは小さな声で謝りながら、俺の肩にそっと頭を預けた。
クラウス卿は俺たちの様子を見て、優しい笑みを浮かべた。しかし、すぐに俺の表情が暗いことに気づいたようで、眉をひそめた。
「ナオテル、君は君でずいぶんと浮かない顔をしているが、何かあったのかね?」
俺は迷った。ヴァーグナー卿との会話について話すべきかどうか。しかし、この機会を逃せば、答えを見つけることはできないかもしれない。
「実は、昨夜、ヴァーグナー卿と話す機会がありました」
クラウス卿の眉が上がった。
「ほう、それは興味深い。どのような話を?」
俺はヴァーグナー卿から受けた問いかけについて、詳しく説明した。貧しい家の父親の例え話、マキャベリアの厳しい現実、国家指導者の責任について。
クラウス卿は静かに聞いていたが、俺の話が終わると深いため息をついた。
「なるほど、ヴァーグナー卿らしい議論だ。確かに説得力がある」
肩に頭を預けているルーシーは、もう眠っているようだった。
「しかし、テル」
クラウス卿は俺をまっすぐ見つめた。
「その考え方には根本的な問題があるのだ」
「どんな問題が?」
「ヴァーグナー卿の理屈は、結局のところ『力こそが正義』という考えに行き着く。しかし、それでは永遠に戦争はなくならない」
クラウス卿は杖を握り直しながら続けた。
「確かに国家指導者には国民を守る責任がある。しかし、そのためなら何をしても良いということにはならない。人間社会には、宗教や文化を超えた、万国共通の道徳のルールが存在するのだ」
「例えば、約束を守る、無実の人を殺さない、必要以上に残酷な手段を使わない。これらは個人の道徳であると同時に、国家間の関係においても守られるべき原則なのだ」
クラウス卿の話は、何となくエマの「定言命法」を思い出させる。
「でも」
俺は反論した。
「現実を見れば、各国は自国の利益を最優先に行動しているし、条約なんて、力の強い国によって簡単に破られてしまうのでは」
実際、フォルスク条約には問題があったにせよ、マキャベリアの行動を止めることができなかった。
「だからこそ国際法が必要なのだよ、ナオテル」
クラウス卿の声に、強い信念が込められていた。
「各国が勝手に『国益』だけを追求すれば永遠に戦争が続く。しかし、戦争にもルールがあるべきだし、平時には条約と外交で問題を解決すべきなのだ」
俺は考え込んだ。確かにクラウス卿の言うことにも筋が通っている。
「でも、ヴァーグナー卿は人間は基本的に利己的で、恐怖と欲望によって動かされると」
「その点については、私も完全に否定するつもりはない」
クラウス卿は率直に認めた。
「しかし、人間には理性もあり、正義を求める気持ちもある。指導者は国民の恐怖心に訴えるのではなく、理性に訴え、道徳的な模範を示すべきなのだ」
「恐怖による支配は一時的には効果があるかもしれないが、長期的には必ず反発を招く」
俺は黙って聞いていた。ルーシーの静かな呼吸の音が聞こえる。
「それに、ナオテル」
クラウス卿は窓の外を見つめながら続けた。
「政治には政治の理屈がある。個人の道徳と政治の道徳を同じものと見なすことはできない」
「それは、ヴァーグナー卿と同じ考えですね」
「しかし、それは道徳を捨てることを意味しない」
クラウス卿は俺の方を振り返った。
「国家の指導者だからといって、基本的な道徳原則を無視して良いわけではない。むしろ、より大きな責任を負っているのだ」
馬車が大きく揺れ、ルーシーの体が傾く。俺は彼女の肩をしっかりと支えながら、クラウス卿の言葉を噛み砕いて理解しようとしていた。
「国家指導者は理想と現実の間で、常に悩み続けなければならないということですか?」
「その通りだ」
クラウス卿は深く頷いた。
「簡単な答えはない。だからこそ、政治は困難なのだ。しかし、だからといって道徳を捨ててしまえば、我々は動物と変わらなくなってしまう」
俺は複雑な気持ちになった。クラウス卿の考え方には共感できる部分が多い。しかし、ヴァーグナー卿の現実主義的な視点も、依然として説得力を持って心に残っている。
「答えはないということですね」
俺は率直に言った。
「だから国際関係は難しい」
クラウス卿は苦笑いを浮かべた。
「もし簡単な答えがあるなら、とっくに世界は平和になっているだろう。我々にできるのは、常に最善を尽くし続けることだけだ。こんな老人になるまでね」
夕日が馬車の窓を照らし、車内を赤く染めていた。ルーシーの黒い髪が光を受けて美しく輝いている。彼女の穏やかな寝息が、長い議論の後の静寂を際立たせていた。
俺は窓の外の風景を眺めながら考えていた。政治とは、この二つの間で永遠に揺れ続ける振り子のようなものなのかもしれない。そして、その振り子を動かしているのは、俺たち一人一人の選択なのだ。
肩に頭を預けたルーシーの重みを感じながら、俺は遠い地平線を見つめていた。答えのない問いを抱えながらも、歩き続けるしかない。それが、俺たちにできることなのだから。




