第82話:ヴァーグナー卿と「現実」
「失礼いたします」
俺は重厚な木の扉をノックした。マキャベリア王宮の一室、ヴァーグナー卿の執務室だ。
「どうぞ」
中から低い声が響く。扉を開けようとした瞬間、従者が俺の前に立ちはだかった。
「剣は預からせていただきます」
確かにそうだ、と俺は思った。敵国の要人に面会するのに武器を持参するなど、常識外れもいいところだ。俺は腰のエミールの剣に手をかけようとした。
「いや、そのままでいい」
意外な声が室内から聞こえた。ヴァーグナー卿の声だった。
「しかし、閣下」
従者が困惑の色を見せる。
「私が見たいのだ、その雷の剣を」
ヴァーグナー卿の言葉に、俺は戸惑った。なぜ雷の剣を? しかし、従者は渋々といった様子で道を開けてくれた。
「お入りください」
俺はそのまま部屋の中に進んだ。室内は質素だった。豪華な装飾は見当たらず、実用性を重視した造りになっている。机の向こうに座り、俺を見ているのがヴァーグナー卿だった。
その視線は鋭い。痩せた体に眼鏡の奥の鋭い眼光、短い白髪を整然と撫でつけた、知性的な老人。会議室で見た時は感じなかったが、一対一になると、やはり威圧感がある。まるで俺の心の内を全て見透かしているような、そんな錯覚を覚えた。
「ナオテル、といったかな」
ヴァーグナー卿が口を開いた。その声には年齢を感じさせない力強さがある。
「その雷の剣、ここで試してみないか。この私で」
俺は耳を疑った。
「仰っている意味が分かりません」
しかし、内心は激しく揺れていた。ここでヴァーグナー卿を亡き者にすれば、フィロソフィアは救われるかもしれない。そんな不穏な考えが頭をよぎる。
ただ、それは両国関係を修復不能に悪化させるだろう。外交使節として来ている俺が、相手国の要人を殺害するなど、戦争の引き金にしかならない。やはりできない、と俺は思い直した。無意識にエミールの剣に触れていた左手が離れる。
「賢明な結論だ」
ヴァーグナー卿が俺の仕草を見ていた。まるで、これを見越して剣を持たせたまま部屋に呼び込んだかのようだった。俺の内心を完全に読まれている。
「それに、私を殺しても、後任はさらに強硬な主戦論者でね」
ヴァーグナー卿は淡々と言った。全くそこまで頭が回っていなかった自分の至らなさを、俺は痛感した。浅はかだった。
「ここに来たからには、何か私に言いたいことがあるのだろう」
ヴァーグナー卿が促すような口調で言った。その通りだ。俺はこの機会を無駄にするわけにはいかない。
「あなたは実質的にマキャベリアを動かしていると聞いています」
俺は率直に切り出した。
「昨年来、執拗にフィロソフィアに侵攻を企てるのはなぜですか?」
ヴァーグナー卿は俺の質問を聞くと、眼鏡の奥の瞳に何か思索的な光を宿した。そして、予想外の質問を返してきた。
「君が貧しい家の父親だとしよう。たくさんの小さな子どもを抱え、痩せた土地の僅かな畑しか持っていない」
「はい」
「隣は裕福な家で、広大な畑を持っている。君の家族は飢えている。そんな時、君はどうする?」
俺は戸惑った。突然の仮定話に、どう答えるべきか分からない。
「正しさを優先して隣の家との境界を律儀に守り、家族を飢えさせることを選ぶか?」
ヴァーグナー卿の瞳が俺を見つめている。その奥に、冷徹な信念のようなものが見えた。
「それとも、家族のためには悪事にも手を染めるか?」
俺は言葉に詰まった。理想的には、もちろん正しい道を選びたい。しかし、もし本当に愛する人たちが飢えているとしたら……。
「マキャベリアは北の国だ」
ヴァーグナー卿は静かに語り始めた。その声には感情が込められておらず、ただ事実を述べているだけのように聞こえる。
「土地は痩せており、小麦が育ちにくい。海に接しておらず貿易にも向かない。ローレンティア地方のような鉱物資源にも恵まれていない」
俺は黙って聞いていた。
「我が国の民は、常に飢えと寒さと隣り合わせで生きている。一方、フィロソフィアは豊かな農地と温暖な気候、そしてローレンティアの鉱山を持っている」
「しかし、フィロソフィアは平和な国です」
俺は反論した。
「マキャベリアを侵略しようなどと考えていません」
「僅か十年前には、フィロソフィア軍によって我が首都は陥落寸前まで追い込まれたのだが」
ヴァーグナー卿の声に、わずかな冷笑が混じった。
「それでも『信じる』のが、責任ある立場の人間がすることか?」
「テオリア女王は侵攻など考えていません」
俺は必死に主張した。
「では、次の王はどうだ? 次の次は?」
ヴァーグナー卿は立ち上がった。痩せた体躯だが、その存在感は圧倒的だった。
「代が替われば考えも変わる。もし、マキャベリアを侵攻しようとする王が現れた時、武器も持たず、備えもない。それで国が滅びても構わないと?」
俺は答えられなかった。確かに、絶対に平和が続くという保証はない。
「国家を預かる者の責任とは何か」
ヴァーグナー卿は窓の外を見つめながら続けた。その後ろ姿からは、感情を排した冷徹な現実主義者の雰囲気が漂っている。
「美しい理想を語ることか? それとも、現実に国民を守ることか?」
「しかし、それでは永遠に争いが続いてしまいます」
俺は懸命に反論した。
「疑心暗鬼の連鎖を断ち切るためには、どこかで信頼を示さなければ……」
「信頼?」
ヴァーグナー卿は振り返った。その瞳に、哀れむような光が宿っているのが見えた。
「君は若い。だから、そんな甘いことが言えるのだ」
「私は外交官として五十年この仕事を続けてきた。何度も『信頼』に賭けてみた。しかし、その度に裏切られ、我が国民が苦しむことになった」
ヴァーグナー卿は再び椅子に座った。その動作は計算されており、威圧感を演出しているようにも見える。
「個人なら美徳である『信頼』も、国家を預かる者にとっては時として致命的な愚行となる」
俺は混乱していた。ヴァーグナー卿の言葉には冷酷な説得力があった。
「感傷は政治には不要だ」
ヴァーグナー卿は氷のような視線で俺を見据えた。
「必要なのは、効果的な手段を選択する冷静な判断力のみ。道徳や理想は、その判断を曇らせる障害物に過ぎない」
「でも、それでは……」
「最後にもう一度聞こう」
ヴァーグナー卿は俺の言葉を遮った。
「君が父親だとして、正しく生きて家族を飢えさせるか。それとも、家族のためには手段を選ばないか」
俺は答えられなかった。頭の中で、エマの顔が浮かんだ。もし彼女が危険にさらされているとしたら、俺は本当に「正しい道」を選べるだろうか。
「それが現実だ。理想と現実の間で苦悩するのは贅沢な悩みに過ぎない。政治家に許されるのは、気の進まない現実と、さらに気の進まない現実の間の選択だ」
その言葉に、俺は黙り込んだ。
「この会話はここまでにしよう」
ヴァーグナー卿は手を振って、俺を追い払うような仕草を見せた。
「私は忙しい。時間の無駄はしたくない」
「一つだけ忠告しておこう」
俺が立ち上がりかけた時、ヴァーグナー卿が冷たく言った。
「次に我々が侵攻する時、君の雷の剣は通用しないと思え。我々は同じ手には二度とかからない」
その目には、獲物を見つめる猛禽類のような冷たい光が宿っていた。
面会は終わった。俺は重い足取りで王宮を後にした。
帰り道、俺は考え込んでいた。自分が父親だとして、正しく生きて家族を飢えさせるか、家族のために悪事を働くのか。考えても答えが出ない。
世界はそんなに単純ではないのだ。善と悪、正義と不正義がはっきりと分かれているわけではない。ヴァーグナー卿の論理にも一理ある。しかし、それを認めてしまえば、フィロソフィアも同じ論理で行動しなければならなくなる。
そして何より恐ろしいのは、彼の問いかけに明確な答えを返せなかった自分だった。もしエマが――愛する人が危険にさらされた時、俺は本当に道徳的に正しい選択ができるのだろうか。
夜道を歩きながら、俺は空を見上げた。答えのない問いが、胸の奥で重くのしかかっていた。ヴァーグナー卿の最後の警告も、耳から離れない。
次の戦いでは、雷の剣は通用しないかもしれない。そして俺は、根本的な解決策をまだ見つけられずにいる。
「逆の側の世界」を垣間見た俺は、問題の複雑さと自分の無力さを改めて痛感していた。




