第7話:エミールと「宗教戦争」
夕暮れが街を橙色に染め始める頃、俺とエマは王立学院から帰路についていた。石畳の上を歩く足音が、静かな街に溶け込んでいく。
「今日はありがとう。校長先生に会わせてもらえて、何だか安心したよ」
俺の手には、校長から貸し出された剣が握られていた。細身だが、なかなかの重量がある。腰に下げた剣のベルトがまだ慣れなくて、歩くたびに剣が揺れる感覚が気になった。金属の鞘が時折、夕日に照らされて輝いている。
エマはいつものように背筋をピンと伸ばし、優雅に歩きながら時折微笑んだ。
「しかし、衛兵として過ごすことになるなんて、考えもしなかった」
ぽつりと呟いた俺に、エマは首を傾げた。長いまつげの下から覗く青い瞳には輝きが宿っていた。
「そうかしら。力のある人が力を必要とする職業につくのは自然なことだと思うわ」
エマはいつものように論理的だ。
「いや、俺は別に力なんかないよ」
「でも、私より力があることは間違いないでしょう?」
エマが言う。石畳を歩きながら、ふと疑問が湧いた。
「そういえば、王立学院は女子校なの?男子学生とか、男の先生とかほとんど見なかった気がするけど」
その質問に、エマの足が一瞬止まった。彼女の表情が硬くなり、青い瞳に影が落ちた。普段は感情を表に出さない彼女の唇が、かすかに震えるのが見えた。夕日の赤い光が彼女の横顔を照らす中、沈黙が続いた。
重い空気を感じながら、俺は黙って彼女の返答を待った。風が吹き、エマの銀色の髪が揺れる。その動きに見とれていると、彼女はようやく口を開いた。
「いまから7年ほど前、『宗教戦争』と呼ばれる大きな戦争があったの」
エマの声は静かだったが、重かった。夕焼けに染まる街並みを見つめながら、彼女は細い指で制服のリボンを無意識に触りながら続けた。
「その時、たくさんの男の人が戦争に行って、帰ってこなかった。ぼんやりと覚えているの。私の街でも毎日のように誰かの家族の葬儀が行われてたこと」
エマの透き通るような青い瞳に遠い記憶が浮かんでいるようだった。彼女の言葉は簡素だったが、その背後には多くの物語が隠されているように感じられた。白い肌が夕暮れに赤く染まり、その姿は美しくもあり、儚かった。
「王立学院の男子生徒たちも、多くが志願して戦争に行った。戻ってきたのはほんの一握り...」
エマの声が少し震えた。胸の前で組んだ手に力が入り、いつもの冷静な彼女とは違う表情を見せる。
「今は男子生徒も少しずつ増えてきているけれど、まだ数はとても少ないわ。男性教員も同じよ」
「そうだったのか...」
急に胸が重くなった。俺が少し好ましく感じていたことが、この世界では痛みを伴う記憶なのだと気づく。
夕暮れの街は美しい。煉瓦造りの建物や石畳が夕日に染まり、時々通り過ぎる人の影が長く伸びている。商店の明かりが一つ、また一つと灯り始め、街に温かみを与えていた。しかし今は、その美しさの中にも、かつての悲劇の痕跡が見え隠れしているように感じられた。
「ごめん、余計なこと聞いて」
「いいえ、あなたが知りたいと思うのは自然なことよ。理性的な判断のためには、正確な情報が必要だもの」
エマはいつもの調子を取り戻したようだった。彼女は再び歩き始めた。
俺たちは沈黙の中、夕暮れの街を歩いた。風が吹き、木々がざわめく。通りの両側に立つ街灯が次々と灯り、遠くから鐘の音が聞こえてくる。
何気なく手元の剣を見ると、鞘に小さな文字が刻まれているのに気づいた。「エミール」と読める。繊細な彫刻のような文字だった。
「この剣、エミールって書いてあるように見えるけど」
俺の言葉に、エマの表情がまた曇った。彼女は立ち止まり、優しく伸ばした指先で剣をそっと触れるように見つめた。
「エミールは大ジャンヌの弟さんよ。彼も宗教戦争で亡くなっているわ」
俺は言葉を失った。
「大ジャンヌはその剣を大切にしていたわ。それを貸したということは、あなたを信頼している証拠ね」
エマは小さく微笑んだが、その瞳には悲しみが宿っていた。街灯が彼女の顔を照らす。
重い空気が二人を包み込む。夕日は紫色に街を染め上げていた。街角の花壇に植えられた白い花が、夕闇の中に浮かび上がっている。
「この国が、理性を重視している理由って...」
言いかけて、俺は言葉を切った。多くのことが頭の中で結びつき始めていた。エマの「定言命法」、ミルの「功利主義」、そして「宗教戦争」。
エマは深いため息をついた。彼女の瞳が不思議な紫がかった色に見えた。風が吹いて彼女の髪が揺れ、一瞬、彼女の表情を隠した。
「宗教戦争は、理性を無視した感情や信念の対立から始まったの」
エマは石の手すりに寄りかかり、沈んでしまった夕日を見つめながら語り始めた。
「人々は自分の信じる神や価値観を振りかざして、他者を否定し始めた。最初は言葉による争いだったけれど、やがてそれは力の行使を伴うようになった」
彼女の細い指は石の手すりを強く掴んでいる。
「理性を使えば、互いの立場を尊重し、みんなが従える普遍的なルールを見出すことができたはず。でも、人々は感情や思い込みに流されてしまった」
彼女は視線を落とし、石畳を見つめた。
「もし誰もが『自分の信じることだけが正しい』と考え、他者を否定する行動を取れば、社会は混乱し、やがて崩壊する」
街灯がエマの横顔を照らす。彼女の白い肌が、まるで内側から光を放っているように見えた。
「だから、この国は『理性』を中心に据えることにしたの。感情や信念ではなく、理性によって人々を調和させるために」
エマの言葉には確信があった。それは単なる理論ではなく、痛みを伴う経験から生まれた信念だということが伝わってきた。彼女の姿勢は凛として、そこには揺るぎない強さが見えた。
「理性は、私たちに誰もが従うべき道徳のルールを示してくれる。それに従えば、どんな立場の人も互いを尊重できるはず。宗教の違いも、出身地の違いも超えて」
エマは両手を胸の前で組み、まるで祈るように言った。
「理性の光に導かれれば、二度とあのような悲劇は繰り返さない。私はそう信じているわ」
夕暮れの空が徐々に星空へと変わり始めていた。最初の星が瞬き始める中、エマの顔には強い決意が浮かんでいた。風が吹き、彼女の髪が舞い上がる。
「エマ...」
言葉が見つからなかった。夕闇にたたずむ少女が背負っているものの重さを、俺はようやく理解し始めていた。
静かな時間が流れ、エマは再び微笑んだ。
「さあ、戻りましょう。明日からあなたの仕事が始まるわ。十分な休息が必要よ」
エマは優雅な仕草で髪を整えた。その仕草には、いつもの彼女が戻っていた。
「ああ、そうだね」
俺たちは再び歩き始めた。夜の帳が降り、街灯に照らされながら、二人の影が石畳の上に長く伸びていた。エマの制服のスカートが時折風に揺れる。
星が見え始めた空を見上げながら、俺は思った。この国の理性への信念は、血塗られた歴史の上に立っているのだ、と。
腰の剣が揺れる感覚がまた意識に上る。エミールの剣。かつて戦争で命を落とした誰かの思いが、今この剣に宿っているのかもしれない。剣の重みが、俺の心を重くした。
「俺は、この剣をどう使うべきなんだろう」
そんな問いを胸に抱きながら、俺たちは静かに帰路を進んだ。エマの靴音と俺の足音が不思議な調和を奏でていた。
夜風がふたりの間を通り抜け、何かを告げるように木々を揺らしていた。街の明かりが一つずつ増えていく中、ふたりの姿は徐々に夜の闇に溶けていった。