第71話:ベルナデットと「生存者の罪悪感」
翌日、俺は久しぶりに王立学院での勤務に復帰した。
左肩の傷は完全に治ったわけではないが、日常業務に支障はない程度まで回復していた。朝の巡回を終えた後、俺はどこか心が落ち着かない気持ちで医務室に向かった。
ベル先生に傷の経過を見てもらうためだったが、それ以上に、誰かと話をしたかったのかもしれない。昨日の騎士団での出来事が、まだ心の中でくすぶり続けていた。
医務室のドアをノックすると、中から親しみやすい声が返ってきた。
「はーい、どうぞ」
扉を開けると、いつものように白衣を着たベル先生が振り返った。明るいブロンドのウェーブした髪が肩で踊り、キラキラと輝く緑色の瞳が俺を見つめる。その瞬間、俺の緊張した心が少しほぐれるのを感じた。
「あら、テル!お帰りなさい。傷の具合はどう?」
彼女の親しみやすい口調に、俺はほっとした。
「おかげさまで、だいぶ良くなりました」
「そう。さあ、座って。傷を見せてもらいましょう」
ベル先生は診察台を軽やかに指差し、俺は素直に従った。左肩の包帯を外してもらうと、傷口はきれいに塞がっており、炎症もほとんど見られなかった。
「うん、順調に治ってるわね。あと2週間もすれば、完全に元通りになるでしょう」
ベル先生は満足そうに頷いた。その時、彼女の表情がふと変わった。
「でも、テル」
緑色の瞳が俺の顔をじっと見つめる。
「体の傷より心の傷の方が深そうね」
突然の言葉に、俺は動揺した。胸の奥がざわめく。
「心の傷って?」
「あなたの表情を見れば分かるわよ。何か重いものを背負ってるような顔をしてる」
ベル先生は俺の前に椅子を持ってきて、スカートの裾を整えながら座った。緑色の瞳が優しく俺を見つめている。
「話してみない?私、一応医師だから守秘義務があるの。何を話しても外には漏らさないわ」
少し茶目っ気を込めて付け加える。
「たぶんね」
俺は迷った。エマには話したが、ベル先生にも話していいのだろうか。しかし、彼女の温かい視線に背中を押され、俺は重い口を開いた。
「実は昨日、騎士団で戦果報告を聞いたんです」
「ええ」
「俺の雷の剣で、マキャベリア兵を十三人殺したと。レオン副長も戦死していて……」
俺は言葉を詰まらせた。ベル先生は静かに聞いていてくれる。
「俺は英雄だと言われて勲章ももらったんですが、どうしても素直に喜べないんです。人を殺しておいて、英雄なんて呼ばれていいのかって」
ベル先生は俺の話を最後まで聞くと、少し考え込むような表情を見せた。白衣の胸元で組んだ手が、かすかに動く。
「テル、あなたが感じてるのは『生存者の罪悪感』というものよ」
「生存者の罪悪感?」
聞き慣れない言葉に、俺は眉をひそめた。
「戦争や災害で、自分が生き残った時に感じる罪悪感のこと。『なぜ自分だけが生き残ったのか』『死んだ人の方が価値があったんじゃないか』『自分が生きてることに意味があるのか』っていう感情に苦しめられる心の状態のことよ」
ベル先生の説明は、まさに俺が感じていることだった。胸の奥で渦巻いていた感情に、ようやく名前が付いた気がした。
「それって、普通のことなんですか?」
「とても自然な反応よ。むしろ、そう感じない方が異常かもしれない」
ベル先生は優しく微笑んだ。その笑顔には、医師としての温かさと理解が込められていた。
「特に、あなたのように思いやりのある人ほど、この罪悪感を強く感じる傾向があるの」
「思いやりがある?」
「そうよ。もしあなたに思いやりがなければ、敵兵の死を気にかけることもないでしょうし、レオン副長の死を悼むこともないでしょう」
確かに、そう言われればそうかもしれない。
「でも、どうやってこの気持ちと向き合えばいいんでしょうか?」
「まず、自分の感情を否定しないことが大切よ」
ベル先生は真剣な表情で言った。いつもの茶目っ気のある雰囲気から一転、医師としての顔を見せる。
「あなたが感じてる罪悪感や悲しみは、あなたの人間性の証なの。それを無理に消そうとしたり、『考えるな』と自分に言い聞かせたりする必要はないわ」
「感情を否定しない……」
「そう。その上で、いくつかのことを理解してほしいの」
ベル先生は細い指を立てて説明を始めた。白衣の袖から覗く手首が、とても華奢に見える。
「まず一つ目。あなたが生き残ったのは、偶然じゃないってこと」
「偶然じゃない?」
「あなたには特別な能力があって、その能力を活かすために適切な判断をし、仲間と協力して任務を果たした。それは偶然の産物じゃなく、あなたの努力と能力の結果よ」
俺はベル先生の言葉を聞きながら、戦場を思い出していた。あの時の俺は、確かに必死に考えて行動していた。
「二つ目。死んでいった人たちの価値と、生き残った人の価値を比べることに意味はないってこと」
「価値を比べることに意味がない?」
「人間の価値は比べられるものじゃないの。レオン副長は立派な騎士だったでしょうし、亡くなったマキャベリア兵にもそれぞれの人生があった。でも、だからって生き残ったあなたの価値が劣るってことにはならないのよ」
ベル先生の緑色の瞳が俺をまっすぐ見つめている。その視線には、揺るぎない確信があった。
「三つ目、そして最も重要なこと。あなたが生きてることには意味があるってこと」
「意味?」
「あなたが生きてるからこそ、守られた命がある。あなたが今後も生きていくことで、また別の命を救うことができるかもしれない。死んでいった人たちの分まで、あなたは生きる責任があるのよ」
ベル先生の言葉に、胸の奥の重石が、わずかに動いたような感覚だった。
「でも、これからどうやって生きていけばいいんでしょうか?」
「それについても、いくつか提案があるわ」
ベル先生は微笑みながら続けた。その笑顔は、母親のような温かさに満ちていた。
「まず、亡くなった人たちを忘れないこと。彼らの記憶を大切にして、彼らがなぜ戦い、なぜ死んでいったのかを心に刻むの」
「記憶を大切に……」
「そして、その記憶を力に変えること。あなたの行動によって、同じような悲劇が繰り返されないようにするの」
「それは、どうすれば?」
「戦争を防ぐための外交努力に貢献したり、若い騎士たちに戦場の現実を教えたり、平和な世界を築くために働いたり。方法はいくらでもあるわ」
暗闇の中に、小さな光が見えてきた気がした。
「最後に、自分自身を大切にすること」
「自分を大切に?」
「あなたが自分を責め続けて潰れてしまったら、死んでいった人たちも浮かばれないわ。彼らの分まで生きるためには、まずあなた自身が健康で幸せでなきゃ」
ベル先生は立ち上がると、俺の肩にそっと手を置いた。その手の温もりが、俺の心に染み込んでくる。
「テル、あなたは英雄よ。でも、英雄だからって完璧である必要はないの。苦しみや悲しみを感じることも、英雄であることとは矛盾しないのよ」
「ありがとうございます、ベル先生」
俺は心から感謝した。エマとは違った角度から、ベル先生も俺の心を支えてくれている。
「それと、テル」
ベル先生は少し茶目っ気のある表情を見せた。いつもの彼女らしい、ちょっといたずらっぽい笑顔だった。
「たまには楽しいことも考えなさい。恋愛とか、趣味とか、美味しい食べ物とか」
「恋愛、趣味、食べ物…」
「エマちゃんとはうまくいってる?」
突然の質問に、俺は頬が熱くなった。
「どうでしょう……」
「あら、照れてる。可愛いわね」
ベル先生は楽しそうに笑った。その笑い声が、重苦しかった医務室の空気を一気に明るくする。
「恋愛も立派な『生きる理由』の一つよ。大切にしなさい」
医務室を出る時、俺の足取りは朝よりもずっと軽くなっていた。
エマの論理的な説明とベル先生の心理学的なアプローチ。まだ完全に立ち直ったわけじゃないが、前に進むための道筋が見えてきた気がする。
廊下を歩きながら、俺は思った。
確かに俺は人を殺した。レオンも死んだ。それは変わらない事実だ。しかし、その事実に押しつぶされるのではなく、それを力に変えて生きていくことが、俺の責任なのかもしれない。
生徒たちの明るい笑い声が聞こえてくる。この声を守るために、俺は戦った。そして、これからも守り続けていくのだ。
レオンの顔を思い浮かべながら、俺は心の中で誓った。
君の分まで、俺は生きていく。立派な騎士として、平和な世界を築くために働いていく、と。
夕日が学院の窓を照らし、廊下を金色に染めていた。重い一日が終わり、新しい明日が待っている。俺はゆっくりと、でも確実に歩き続けていこうと心に誓った。




