第70話:義務と重荷
「お帰りなさい。お疲れさまでした」
エマの声はいつものように優しかった。でも、俺にはその声が遠くに聞こえた。まるで深い霧の向こうから聞こえてくるような、現実感のない響きだった。
「ただいま」
俺は力なく答えた。右手に握られた勲章が、やけに重く感じられる。
エマは俺の表情を見て、すぐに何かがおかしいことに気づいたようだった。透明感のある青い瞳に心配の色が浮かび、銀色の髪を耳にかけながら俺に近づいてくる。
「テル、どうしたのですか? 体調が悪いのですか?」
「いや、体は大丈夫だよ」
俺はあいまいに答えながら、ベッドに腰を下ろした。左肩の傷が鈍く疼き、その痛みが現実を思い出させる。レオンの顔が頭に浮かんだ。あの真面目で責任感の強い副長は、もうこの世にはいない。
エマは俺の隣に座ると、心配そうに顔を覗き込んできた。白く細い指先が、膝の上で居場所を探して迷っている。
「何かあったのですね。話してくださいませんか?」
俺は右手を見つめた。この手で十三人の命を奪った。雷の剣という名前がついているが、結局は人を殺す道具だ。それを使った俺は、殺人者だ。
俺はうつむいたまま考える。エマが大切にしている考え方に従えば、「人を殺す」ということはどうやっても正当化できない。エマは、俺を責めるだろうか。あるいは、自分の信念を曲げて、俺を慰めようとするだろうか。どちらにしても、エマにこのことを話すのは気が重かった。
「大丈夫です」
エマの強い声が俺の迷いを断ち切った。
「私は、あなたがどんな人かを誰よりも知っています。何を話されても大丈夫です」
エマのその言葉に俺ははっとした。この世界で、いや、前の世界を合わせても、俺のことを一番知ってくれているのはエマだ。そのエマを信じられなくて誰を信じられるのか。俺は重い口を開いた。
「エマ、俺は今日、騎士団で戦果報告を聞いたんだ」
「はい」
「俺の雷の剣で、マキャベリア兵十三人が死んだ。いや、俺が殺した」
エマの表情が変わった。青い瞳が少し見開かれ、三つ編みの髪が微かに揺れる。彼女は俺から目をそらさなかった。
「行動を共にしていたレオン副長は戦死した」
「……そうですか」
エマは静かに答えた。
「俺は英雄だと言われて、勲章をもらった。でも、俺は人殺しなんじゃないかって思うんだ」
俺は勲章を机の上に置いた。金の縁取りが夕日に光り、稲妻と剣のデザインが妙に禍々しく見えた。
エマは長い間黙っていた。そして、ベッドに腰掛けたまま俺の方に向き直ると、真剣な表情で俺の瞳を見つめた。その青い瞳には、いつもの論理的な光と同時に、深い思いやりが宿っていた。
「テル、あなたが苦しんでいることは分かります。でも、まず整理して考えてみませんか?」
「整理…か」
「はい。あなたが今感じていることを、理性的に分析してみるのです」
こんな時にまで、エマらしい論理的なアプローチをするとは思わなかった。でも、彼女の真剣な表情を見て、俺は答えることにした。
「まず、あなたが行ったことを客観的に述べてください」
俺は戸惑いながらも答えた。
「俺は、マキャベリア軍の侵攻を阻止するために、雷の剣を使って敵兵を攻撃した」
「はい。それで、結果として何が起こりましたか?」
「敵兵十三人が死亡し、約四百人が戦闘不能になった。そして、フィロソフィア軍の犠牲者も十三人、その中にレオン副長が含まれていた」
エマは俺の言葉を静かに聞いていた。銀色の髪が夕日に照らされて柔らかく光っている。
「それでも俺は人を殺したことに変わりはない」
「それは事実です」
エマはゆっくりと、確かめるように言った。彼女は俺の罪悪感を否定しようとはしなかった。
「でも、テル、あなたの行為が正しいかどうかは、結果ではなく、あなたの意志と義務によって判断されるべきです」
「義務…」
「はい。あなたは騎士として、国と国民を守る義務を負っていました。そして、その義務に従って行動したのです」
エマの瞳が俺を見つめ続けている。その視線には迷いがなく、確信に満ちていた。
「正しい行いとは、結果が良いから正しいのではありません。正しい義務から生まれた意志によって行われるから正しいのです」
「でも、俺は人を殺した」
「テル、あなたは敵兵を『人間としての尊厳を持つ存在』として扱いましたか?」
突然の質問に、俺は戸惑った。
「どういう意味?」
「戦場で、あなたは敵を『物』のように扱いましたか? それとも、『同じ人間』として扱いましたか?」
俺は思い返してみた。確かに、俺は敵兵を憎んで攻撃したわけではなかった。ただ、自分の義務を果たそうとしただけだった。
「俺は、憎しみから戦ったわけじゃない。ただ、守らなければならないものがあったから」
「そうです」
エマの青い瞳が輝いた。
「あなたは敵兵を『殺すべき対象』として見ていたのではなく、『自分と同じく義務に従って戦う人間』として認識していたのです。それが重要なのです」
「同じく義務に従って戦う人間?」
「はい。マキャベリアの兵士たちも、おそらく自分たちの国や家族を守るという義務感から戦っていたでしょう。あなたはそれを理解していたからこそ、今こうして苦しんでいるのです」
エマは俺の手を取った。彼女の細い指が俺の手を包み込む。その手は少しひんやりとしていて柔らかく、でも確かなものだった。
「もしあなたが敵兵を『物』として扱っていたなら、その死を悼むことはないでしょう。あなたが苦しんでいるということは、あなたが彼らの人間性を認めていた証拠なのです」
俺はエマの言葉を噛みしめた。確かに、俺は敵兵の死を軽く考えることができなかった。それは、彼らも俺と同じ人間だったからだ。
「….俺の行為は正しかった?」
「あなたの行為は、義務に基づいた正しい行為でした」
エマは断言した。その瞳に迷いはなかった。
「あなたは個人的な感情や利益のためではなく、騎士としての義務、フィロソフィアの国民を守るという義務に従って行動したのです。そして、その過程で敵兵の人間性を否定することはありませんでした」
「でも、人を殺したという事実は変わらない」
「はい。でも、テル、時として義務は私たちに重い選択を強いることがあります」
エマの表情が深刻になった。でも、その瞳は俺から逸れることなく、真剣に見つめ続けている。
「あなたには守るべき人々がいました。もしあなたが戦わなければ、その人々の生命と尊厳が脅かされていたでしょう。私もその一人です。あなたは『人間の尊厳を守る』という最高の義務に従ったのです」
「最高の義務?」
「すべての人間が理性的存在として尊重される世界を守ること。それが最も根本的な義務です。あなたの行為は、その義務に従ったものでした」
エマの言葉を聞きながら、俺は少しずつ心が軽くなっていくのを感じた。
「だから、あなたは自分を責める必要はありません。むしろ、敵兵の死を悼むあなたの心こそが、あなたの正しさの証なのです」
エマの青い瞳が真剣に俺を見つめる。
「あなたがいなければ、この戦いは違う結果になっていたでしょう。あなたがいるからこそ、救われた命がたくさんあるのです」
俺はエマの言葉を聞きながら、窓の外を見た。夕日が街を赤く染め、人々の生活の音が聞こえてくる。この平和な日常を守るために、俺は戦ったのだ。
「エマ、ありがとう。君がいてくれて本当によかった」
俺は心からそう思った。エマがいなければ、俺は一人でこの重荷を背負わなければならなかった。
「私こそ、あなたが無事に帰ってきてくれたことに、心から感謝しています」
エマは微笑んだ。銀色の髪が夕日に輝き、彼女の美しさが際立って見える。
「でも、テル、一つだけ約束してください」
「何?」
「今回のことを一人で抱え込まないでください。つらい時は、私に話してください。たとえ解決策が見つからなくても、あなたの気持ちを聞くことはできますから」
「分かった。約束するよ」
俺はエマの手を握り返した。彼女の手が少し震えているのを感じて驚いた。冷静に俺を諭していた彼女は、実は俺と同じぐらい動揺していたのだ。
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夜が深くなり、二人で簡単な夕食を取った。エマが作ったスープは温かく、体の芯まで温まる味だった。心も落ち着いてくる。
「テル、今日は早く休んでください。明日からまた、新しい日々が始まります」
「そうだね」
俺はベッドに横になりながら、今日の出来事を振り返った。確かに俺は人を殺した。それは事実だ。でも、それは義務に従った行為だった。エマの言う通り、俺は敵兵の人間性を否定したわけではない。
俺は一人でこの重荷を背負う必要はない。エマがいる限り、俺は歩き続けることができる。
隣でエマが目を閉じている。おそらく、彼女も眠れていないだろう。
明日からも、俺はこの世界で生きていく。レオンの分も、死んでいった人々の分も、俺は自分の義務を果たし続けなければならない。
雷剣勲章が机の上で静かに光っている。それは俺の功績の証であると同時に、重い責任の象徴でもあった。でも、もうその重さに押しつぶされることはない。それをともに背負ってくれる人が、隣にいるのだから。




