第6話:大ジャンヌと「秩序はなぜ必要か」
朝の生徒会室。柔らかな日差しが窓から差し込み、埃の舞う光の筋を作り出していた。俺はルーシーと向き合って座っていた。彼女の長い黒髪が朝日に照らされて輝き、真剣な瞳が俺をまっすぐ見つめている。静かな朝の空気の中、二人だけの時間が流れていた。
「良い雰囲気のところ悪いんだけど」
部屋に響く低く落ち着いた女性の声に振り返る。
ドアが開き、そこには長身の女性が立っていた。20代後半といったところか。肩にかかる茶色の髪は無造作で、柔らかな光を受けて艶やかに輝いている。この世界にしてはラフな服——しかも、シャツのボタンが上から三つほど開いている——を着ていて、周囲の厳格な雰囲気とは明らかに異なる存在感を放っていた。
ルーシーは背筋をピンと伸ばし、いつのまにか直立不動の姿勢で立っていた。その凛とした佇まいは、ミルやエマと同様、年齢以上の威厳を感じさせる。
「誰?」
思わず口にした言葉に、ルーシーの眉が少しだけ寄った。
「本学院の校長を務めているかたです」
「え?」
思わず声が上ずる。どこか自由人のような雰囲気のこの女性が、王立学院の校長?
「自己紹介が遅れたね。ここで校長をしているジャンヌ・ラッソだ」
ジャンヌは俺の手を軽く握りながら言った。その仕草には気さくさと不思議な優雅さが同居していた。
「君がテルだろう。エマから話は聞いている」
ジャンヌは生徒会室の中央に置かれた机に腰掛けた。机の上にあった書類が少し崩れたが、気にする様子はない。ルーシーが視線を動かして眉をひそめる。
「明日から、君には衛兵を務めてもらいたい。どうかな」
「衛兵、ですか?」
突然の提案に、驚きで言葉に詰まる。正直、俺は他人を守るような特別な能力も持っていないし、転生時に伝説の剣も授かっていない。衛兵なんて、務まるだろうか。
「テル、とりあえず、脱ごうか」
さらに唐突なジャンヌの提案に、あっけにとられる。
「脱ぐって服ですか? どうして?」
「人間は、生まれたままの姿が一番純粋で、良いものなんだよ」
そう言いながら、ジャンヌは俺の反応を見て楽しんでいるようだった。
ルーシーは呆れたように目を閉じ、小さくため息をついた。
「大ジャンヌ、またこのような身体露出要求を…」
彼女の静かな声には、明らかに非難の色が含まれていた。しかし、ジャンヌはそれを聞き流す。
「わかった、わかった。全部じゃなくていいよ。上半身だけでも見せてくれないかな」
いや、全裸のつもりだったのか。ジャンヌに促され、シャツを脱ぐ。上半身裸になると、顔が熱くなるのを感じた。ルーシーは視線をそらしている。春の健康診断では175cm、63kg。視力は1.5だが、何も自慢するような体ではない。
「体格は良いね。身長もあって、筋肉も程よく付いている。剣の腕はどう?」
ジャンヌは真剣な顔で俺の体を観察していた。それはセクハラというより、感覚的には釣り上げた魚の計測に近い。それでも恥ずかしさは消えない。
「まあ、剣の覚えは多少はあります」
ルーシーの手前、ちょっとかっこつけてみる。正直に言えば、小学生の時に剣道を習っていただけだ。それも3ヶ月ほどで辞めてしまった。
「じゃあ、決まりだね」
「もう良いですか? 服、着ても」
「着ていないほうが自然な姿だ、と言いたいところだけど、それは君の権利だよ」
急いでシャツを着る。
「じゃあ、明日から早速お願いするね。といっても、時々学園を見回って、ほかの時間はここで本でも読んでいてくれれば良いよ」
ジャンヌは立ち上がると、窓の方へ歩み寄った。学園の庭を見下ろして、何か考えているようだ。
「でも、なぜ俺を衛兵に?」
ジャンヌは俺の方を振り返った。
「この学院では『社会契約』がきちんと機能しているんだ。生徒たちは自分の自由の一部を手放して学院に預け、その代わりに学院が生徒の安全と秩序を保証している」
「社会契約、ですか?」
ジャンヌはうなずいた。
「この学院の中では、みんなの共通の意識、つまり『一般意思』によって秩序ができているんだ。単に『自分がこうしたい』という気持ちだけじゃなくて、『みんなにとって何が一番いいか』を考えた結果だ」
ジャンヌが続ける。
「例えば、この学院では誰もが廊下の左側を歩く。どこを歩いても自由なはずなのに。結果として、皆が安全と秩序を持って廊下を歩くことができる」
彼女は窓の外を見やり、表情を少し引き締めた。
「でも、学院の外の世界との関係では、こうした約束は存在しない」
「約束がない状態?」
「そう。国と国の関係と似ているね。国同士はお互いにしっかりした約束で結ばれているわけじゃない。だからこそ、他国の脅威に対しては常に準備しておく必要がある。学院の外との関係も、そういうことなんだ」
そう言いながら、ジャンヌは机の上の長い木箱の蓋を開けた。中には鋼鉄の輝きを放つ本物の剣が収められていた。
「これが君の剣だよ」
俺は驚いて剣を見つめた。剣、と言葉では簡単に言うが、実物には言い表せない本物の武器としての威圧感がある。
「この剣は君の役割の象徴だ。学院の生徒に対しては剣は必要ない。でも、外からの危険に対しては、時には力を見せることも必要になるかもしれない」
「でも、実際に使うことはないですよね?」
「『ほとんど』ないだろうね。フィロソフィアは、理性の国だ。でも理性だけでは解決できない問題が持ち込まれる可能性はいつでもある。そんなとき、君の存在が抑止力になるんだ」
ジャンヌはそう言って、俺の肩に手を置いた。
「心配しないで。衛兵としての給料はきちんと出すよ」
思い出したように、ジャンヌが言った。
「そういえば、エマの部屋に居候しているようだけど、あの子も地方から出てきて一人では寂しかったはずだ。お互いにとって良い関係になるといいね」
ジャンヌはそう言って、俺の肩を軽く叩いた。その言葉を聞いたルーシーの瞳が少し動いた。
「さて、私はこれで失礼するね。ルーシー、後はお願いするよ」
「はい、大ジャンヌ」
ルーシーは丁寧に頭を下げた。
ジャンヌは部屋を出ていく際、最後にこう言った。
「忘れないでほしい。本当の自由というのは、ただ好き勝手に行動することじゃないんだ。みんなの幸せを考えて行動するとき、人は本当の自由を手に入れるんだよ」
ドアが閉まった後、ルーシーがため息をついた。
「校長はいつもあんな感じ?」
俺は尋ねた。
「大ジャンヌは人格者です。ただ、彼女の行動には時々、常識から逸脱するところがあります」
ルーシーの声には、尊敬と困惑が入り混じっていた。
「『大』ジャンヌ? ってどういうこと?」
俺は尋ねる。
「この学院にはジャンヌが二人存在します。校長が大ジャンヌ、生徒の中に小ジャンヌと呼ばれる人物がいます」
なるほど。そういう呼び分けなのか。
「それで、大ジャンヌは教育者としてどうなの?」
「大ジャンヌは素晴らしい教育者です。教師は権威的な指導者ではなく、生徒を見守り導く案内人としての役割を担うべきだ、と常々おっしゃっています」
ルーシーは少し誇らしげに言った。
「そうか…」
俺は窓の外を見た。校庭では生徒たちが規律正しく行き交い、秩序だった景色が広がっている。一見厳格に見えるこの学院だが、それは「自由」を保証するための代償なのだ。確かに、エマも、ミルも、ルーシーも、皆、個性的だ。
「衛兵か...」
剣を手に取り、その重みを感じる。この世界での俺の役割が、少しずつ形になってきた気がした。
窓の外では、雲間から差し込む陽光が学院の庭を明るく照らしていた。そこには、理屈と秩序だけではない、この世界の別の側面が垣間見えるようだった。
社会契約:ホッブズ(1588-1679)、ロック(1632-1704)、ルソー(1712-1778)らが発展させた政治哲学の理論で、人々が自然状態から抜け出し、互いの権利を保護するために合意によって政府や社会を形成するという考え方です。簡単に言えば、「みんなが安全に暮らせるように、お互いに一定のルールに従おう」という約束事です。
一般意思:ルソーが『社会契約論』で展開した政治哲学の中心概念で、単なる「全員の意思」(全意思)ではなく、共同体全体の共通利益を目指す意思のことを指します。例えば、自分の利益だけを考えれば税金を払いたくなくても、社会全体の福祉を考える「一般意思」に従って納税することが本当の自由につながるという考え方です。