第65話:暴動
その日の朝から、ローレンティア鉱山事務所の前は労働者たちでごった返していた。今日は鉱山の仕事納めの日で、番号を呼ばれた者から順番に、その年の最後の1ヶ月の給料を受け取っていた。
空は厚い雲に覆われ、山間の冷たい風が吹き抜けている。労働者たちの息は白く、疲れ切った顔には一年の過酷な労働の痕跡が刻まれていた。
俺が後で聞いた話では、事態は次のように推移した。
最初はいつものように給料の受け取りが淡々と行われていた。しかし、労働時間の長さと物価の高騰に対して、あまりに少ない金額に、労働者たちが口々に不満を表明し始めた。そこに、何者かによって来年も給料は据え置きだという噂が流された。
給料を受け取った労働者たちもその場にとどまり、鉱山事務所周辺は急速に殺気だった雰囲気になっていく。最初は、賃上げを今この場で認めさせるべきだという声が上がった。しかし、誰かが、そんな口約束は無意味だ、事務所にある有金を全部分配させろと声を上げた。
それに対して、次々に賛同の声があがり、ついに鉱山事務所に乗り込もうとする者が現れた。それに対して、鉱山事務所は扉を閉め、警備兵を配置した。それに激昂したのは、まだ給料を受け取っていない労働者たちだった。彼らが鉱山事務所に投石を始めると、警備兵が応戦したため揉み合いになり、収拾がつかない状況となった。
---
午前10時頃、鉱山事務所周辺で騒乱が起きているという一報を受け取った俺は、レオンと共に宿を出発してヴァルドフェールに向かった。やがて、フィロソフィア軍の歩兵100名、弓兵50名も到着する予定だった。
作戦通りならば、カリアは騎兵150と重装歩兵200、歩兵300を率いて鉱山事務所周辺に展開して暴動を鎮圧し、同時にローレンティア自治政府の建物を包囲してマキャベリア軍への支援要請の使者が出発できないようにしているはずだ。
ただし、要請の有無にかかわらず、マキャベリア軍は進軍してくるだろう。それがカリアの見立てだった。俺はそれを念頭に、臨戦態勢を整えてヴァルドフェールで待機した。
「隊長」
レオンが馬上から声をかける。がっしりとした体格の彼の顔には、戦士らしい冷静さが宿っていた。その瞳には、これまで数多くの戦場をくぐり抜けてきた男の落ち着きがある。
「どうした、レオン?」
「マキャベリア軍の規模ですが、偵察からの報告では、重装歩兵の第1陣だけで400から500とのことです」
俺は頷いた。
「分かった。作戦に変更はない。雷の剣を発動させることができれば、重装歩兵の戦闘力は大幅に削がれる」
俺はそう言いながら、耳たぶに手をやって充電を始めていた。
---
正午を過ぎた頃だった。霧が途切れたヴァルドフェール低地の遙か向こうに、多数の重装歩兵の姿が浮かびあがった。遠くから重く低い音が響く。マキャベリア軍の行軍の音だった。
「隊長!」
レオンが俺の顔を見詰める。その声には戦士らしい緊張感が込められていた。
「すぐに水門を開けに向かってくれ」
「承知しました!」
レオンが歩兵50名を連れて水門に向かう。俺は水門が開き、水がヴァルドフェールを満たすまではマキャベリア軍の重装歩兵の進軍をただ眺めているしかなかった。
進軍速度は思ったよりも遅い。ただ、威圧感が凄まじい。隊列は密集していて、数は報告通り数百に見える。
重装歩兵たちは統一された動きで進んでくる。青銅色の兜に身を包み、大きな盾を構え、長槍を空に向けて突き立てている。足音が地面を踏み鳴らし、まるで大地が震えているかのようだった。
太陽の光が甲冑に反射して、きらめく光の帯となって見える。まさに古代の軍団を彷彿とさせる光景だった。
俺は無意識に拳を握っていた。手のひらに汗がにじんでいる。
それから何分経っただろうか。マキャベリア軍の重装歩兵はヴァルドフェールの半ばまで進んできている。いまや、その姿がはっきりと見える。
ヴァルドフェールに水が流れ込む気配はない。俺は焦りを感じていた。その時、伝令が息を切らしてやってきた。
「隊長! レオン副長はメルツ川西岸でマキャベリア軍の騎兵隊と遭遇、戦闘状態にあります。いまだ、水門は開けられません!」
「何だって?」
まさか、川沿いにマキャベリア軍の別働隊が進軍してくるとは考えていなかった。完全に後手を踏んだ。水門が開けられなければ、この作戦は瓦解する。
俺は即座に、残った歩兵50名をすべて連れて水門に向かうことを決断した。
「歩兵は俺と共にメルツ川に向かう。水門が開かなければ、ここにいても仕方がない」
さらに、弓兵たちに向かって命じる。
「マキャベリア軍に向けて矢を放て。できる限り進軍を遅らせるんだ。俺が戻るまで持ちこたえてくれ。もし重装歩兵がここに到達したら、迷わず逃げろ」
弓兵隊長が敬礼する。その顔には決意が宿っていた。
「承知いたしました! 隊長もご武運を!」
---
俺は歩兵50名と共に水門へ向かって駆け出した。馬の蹄音が地面を叩き、風が頬を切る。
(レオン、持ち堪えてくれ…)
俺の脳裏に、レオンの武勇が浮かんだ。彼は武力に優れた副官で、剣術の腕前も確かだ。騎兵隊との戦闘でも必ず活路を見出してくれるはずだ。
水門までの道のりは約2キロメートル。平時なら10分もかからない距離だが、今は一分一秒が貴重だった。
遠くから金属がぶつかり合う音が聞こえてきた。時折、マキャベリア軍のものと思われる怒号も聞こえる。
「隊長!」
歩兵の一人が声をかける。
「水門が見えました!」
前方に、石造りの水門が見えてきた。しかし、その周辺では既に激しい戦闘が始まっていた。レオンの部隊とマキャベリア騎兵隊が剣戟を交えている。
「レオン!」
俺が叫ぶと、戦場の中央でマキャベリア騎兵と一騎打ちを繰り広げていたレオンが振り返った。彼の剣さばきは見事で、相手の騎兵を次々と馬から落としている。戦いの中でも、レオンの動きには迷いがない。
「隊長! 援軍感謝します!」
レオンの声が戦場に響く。彼の武勇に支えられて、フィロソフィア軍はなんとか劣勢を持ちこたえていた。
「水門の状況は?」
「敵が多すぎて近づけずにいます。このまま押し戻すことは困難です」
レオンが敵騎兵の槍を受け流しながら答える。彼の剣が敵の甲冑を捉え、騎兵が馬から転落した。
俺は周囲を見回した。マキャベリア騎兵は70から80騎。レオンの武勇で持ちこたえているが、戦況は明らかに劣勢だ。なにより、時間がない。
その時、聞き慣れた声が響いた。
「ナオテル・イフォンシス!」
声のほうを見ると、赤色の甲冑に身を包んだひときわ目立つ騎兵が見えた。マキャベリア軍の騎兵隊長のクラウスナーだった。彼の顔には自信に満ちた笑みが浮かんでいる。
「合同訓練以来じゃないか。一騎打ちを申し込む!」
両軍の視線が俺に集まる。
クラウスナーを見ると、剣の柄には絹と思われる布が何重にも巻かれている。絹は厚く巻けば絶縁体になる。雷の剣への対策であることは間違いない。もし、雷の剣が使えないならば、俺とクラウスナーの力量の差は歴然だ。
しかし、ここで俺が逃げるわけにはいかない。部隊の士気に関わる。
「受けて立つ!」
気がつくとそう叫んでいる自分がいた。勝つ展望はない。しかし、他に選択はないのだ。
両軍の戦闘が止まり、静寂に包まれる。川の流れる音だけが響く。
クラウスナーが下馬する。近づいて、剣を構える。
心臓の鼓動が聞こえる。必死に思考を巡らせる。川に誘導して水面に放電するか。そうすれば俺とクラウスナーは共倒れになるが、一方的に負けるよりはましだ。しかし、それではヴァルドフェールで重装歩兵の進軍は止められず、フィロソフィア軍の作戦は瓦解する。
もはや、手詰まりだ。ふと、エマの顔が浮かぶ。銀色の髪が夕日に揺れていた、あの日の美しい姿。どうやら、生きて帰れそうにない。それでも、意外なことに、俺は絶望はしていない。1%でも勝算のある選択肢を、最後まで探り続けるしかない。
俺は剣を構えた。




