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第61話:小ジャンヌと「自由の刑」

翌朝、宿舎の1階の食堂に朝の光が優しく差し込んでいた。木製のテーブルが陽光を受けて温かみのある色に染まり、パンの香ばしい匂いが空気に漂っている。


俺とカリアは朝食を摂りながら、これからクロイツベルクに戻る準備をしていた。


カリアは今日も変わらず粗食だった。彼女の前には質素にパンと水だけが置かれ、その清廉な食事スタイルには一種の美学すら感じられる。栗色の髪を自然に流した彼女の横顔は、朝の光を受けて凛としていた。


そこへ、食堂の入り口から疲れ切った様子の少女が現れた。小ジャンヌだった。


いつものきちんと整えられた黒髪は少し乱れ、細いフレームの眼鏡が僅かにずれている。華奢な肩は疲労で下がり、黒いドレスにも皺が寄っていた。普段の物静かな美しさではなく、どこか消耗した儚さが漂っていた。


「疲れているようだけど大丈夫?朝食まだなら食べなよ」


俺は心配になって声をかけた。小ジャンヌの薄茶色の瞳には、一晩中起きていたような疲労の色が浮かんでいた。


「そうね、少し、いただくわ」


小ジャンヌは静かに答えると、俺たちのテーブルに腰を下ろした。給仕を呼んで注文したのは、パンとコーヒーだけ。彼女の細い指先がカップを包むように握ると、その仕草に深い疲れが表れていた。


「色々と分かったことがあります」


小ジャンヌはカリアに向かって小声でそう言った。眼鏡の奥の薄茶色の瞳には、重要な情報を伝えようとする緊張感が宿っていた。


「詳細は馬車で」


カリアは周囲を一瞥すると、低い声で答えた。彼女の琥珀色の瞳には警戒の色が浮かび、騎士団長としての本能が働いているのがわかった。


———


馬車に乗り込むと、小ジャンヌは待っていたかのように話し始めた。車内の薄暗い光の中で、彼女の白い肌がより一層際立って見える。疲労で少し青白くなった頬に、朝の光が斜めに差し込んでいた。


「一言で言えば、『不穏』です」


小ジャンヌの声は静かだったが、その言葉には重い意味が込められていた。華奢な手がドレスの端を無意識につまみ、緊張が伝わってくる。


「鉄鉱石の増産で労働が強化され、労働者の不満が溜まっています。それに、労働者の半分はマキャベリアから来ていて、鉱夫の一体感も失われています」


小ジャンヌは眼鏡を軽く直しながら続けた。


「以前はマルクさんのようなまとめ役のベテラン鉱夫がいたのですが、今や若い者たちは言うことを聞かない。国籍も違えば、十分な意思疎通もままならない。統制が取れていない状況です」


カリアの表情が険しくなった。


「つまり、暴動がいつ起きてもおかしくないということですか?」


「まだそこまではいっていないと思います。ただ...」


小ジャンヌの言葉が途切れる。


「誰かが煽動すれば、不満が暴発する可能性は十分にある、と」


カリアが小ジャンヌの言いたかったことを補足した。彼女の声には、長年の経験に裏打ちされた確信があった。


俺は、王立学院でルーシーが条約について示した懸念を思い出していた。彼女の鋭い言語感覚が指摘した「高度な自治」と「助言」という曖昧な表現。それが今、現実の脅威として迫ってきている。


「もし暴動になれば、治安維持のためにマキャベリア軍が出動する口実になりますね」


俺の言葉に、カリアは深く頷いた。


「あと1カ月、年末にかけて最大限の警戒が必要だ。準備をしなくては」


「なぜ年明けではなく、年末?」


俺の疑問に、小ジャンヌが答える。


「労働者の不満が蓄積しやすい時期だからよ。一年の労働の疲れ、賃金への不満、家族との時間を奪われることへの憤り。それに、酒の席が増える季節でもあるし。そういう場では、普段言えない不満が表面化しやすいわ」


カリアが付け加えた。


「恐らく年末にかなり近い時期が狙われる。注意力散漫になりがちで、祭事や休暇でこちらの警備が手薄になる可能性もある。情報伝達も遅れやすく、政府の対応が遅れることを狙える。年始では帰郷した鉱夫が揃うまで時間もかかるし、家族と会って心が和んでいる」


カリアは俺の方を向くと、申し訳なさそうな表情を浮かべた。


「テルには申し訳ないが、今年は年末の休暇は無いと思ってほしい」


俺は深く頷いた。フィロソフィアの平和を守るためなら、個人的な休暇など二の次だ。


カリアは御者に指示を出し、昨日仕事を依頼した場所を回ることにした。追加の代金を出してでも作業を急がせる必要があった。


馬車が街を巡る中、小ジャンヌの疲労はピークに達していた。彼女は眼鏡を外して額を押さえると、小さな声で言った。


「なんだか眠くなってきたわ」


続いて、珍しく甘えるような声で俺に向かった。


「肩を貸してくれないかしら」


俺は少し驚いたが、快く承諾した。小ジャンヌの華奢な体が俺の肩にもたれかかると、かすかな石鹸の香りが漂ってきた。彼女の黒髪が俺の肩に触れ、その柔らかさに思わず心が温かくなる。


小ジャンヌはそのまま深い眠りに落ちた。規則正しい寝息を立てる彼女の横顔は、起きている時の鋭さとは違う、少女らしい穏やかさを湛えていた。


———


小ジャンヌが目を開いたのは、クロイツベルクの街並みが見えてきた頃だった。彼女がゆっくりと体を起こすと、俺はそっと眼鏡を渡した。少し寝癖のついた黒髪を軽く整える仕草には、まだ眠気が残っているようだった。


「そんなに疲れるまで、情報を集めてくれていたんだね。ありがとう」


俺は心からの感謝を込めて言った。小ジャンヌの献身的な働きがなければ、ローレンティアの真の状況は掴めなかっただろう。


「お礼は必要ないわ。これは私自身の選択だから」


小ジャンヌは静かに答えた。その薄茶色の瞳には、自分の行動に対する確固たる信念が宿っていた。


「どうしてそこまで頑張ってくれたの?」


俺の質問に、小ジャンヌは少し考え込むような表情を浮かべた。そして、ゆっくりと話し始めた。


「人間は選択することから逃れられません。何も選択しないという選択さえも、一つの選択なのです」


窓から射し込む光が彼女の横顔を照らし、その表情に思索の深さを添えている。


「朝起きて何を着るか、何を食べるか、どう生きるかという日常の些細なことから、人生の重大な決断まで、すべてが選択の連続です。しかし、この自由は必ずしも喜ばしいものではありません」


小ジャンヌの細い指先が、ドレスの端を軽く撫でる。


「なぜなら、選択には常に責任が伴うからです。自分の行動の結果について、神や運命のせいにすることはできません。すべて自分が選択した結果として引き受けなければならないのです」


そして、小ジャンヌは静かに、しかし力強く言った。


「つまり、人間は『自由の刑』に処されているのよ」


その言葉の重みに、俺は息を呑んだ。カリアも静かにその話を聞いていた。彼女の琥珀色の瞳には、小ジャンヌの言葉に対する深い理解が浮かんでいた。


しばらくの沈黙の後、カリアが穏やかな声で口を開いた。


「若い時は私もそうだった。ただ...」


カリアは小ジャンヌの方を向くと、母親のような優しさを込めて続けた。


「あなたが世界のすべてを背負う必要はないのよ。人生は庭仕事のようなもの。毎日少しずつ、無理をせずに手入れすればいい。すべてを完璧にしようとすれば疲れ果ててしまうから」


カリアの言葉に、小ジャンヌの表情が少し和らいだ。彼女の薄茶色の瞳に、僅かな安堵の色が浮かぶ。


「でも、選択の責任から逃れることはできません」


「そうね。でも、その責任を一人で背負う必要はないのよ。私たちもいるわ」


カリアの温かい言葉に、小ジャンヌは小さく頷いた。


馬車は石畳の道を進み、フィロソフィアの首都クロイツベルクの白亜の建物群が次第に大きくなっていく。


俺は二人の会話を聞きながら、改めて感じていた。この世界の人々は皆、深い思索と強い意志を持って生きている。そして今、その彼らと共に、国の未来を左右する重大な局面に立ち会っているのだ。


年末まで残された時間は短い。しかし、カリアの戦術的知識と小ジャンヌの情報収集能力、そして俺の雷の剣があれば、きっと危機を乗り越えられるはずだ。


窓の外には、クロイツベルクの平和な街並みが広がっていた。俺は、それを守らなければ、という強い気持ちに駆られた。


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こちらは「完全版」です。 「ライト版・挿絵入り」はこちら
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