第59話:カリアと「欲求の満たし方」
週末の朝、柔らかな陽光が窓から差し込んでいた。俺は王宮からの馬車を待ちながら、腰のエミールの剣を軽く撫でた。ローレンティア地方への視察——正確には偵察だ。どれだけの準備が必要かと悩んだが、結局いつも通りの装備で行くことにした。
エマは貧民街での授業に朝から出かけてしまった。別れ際にもほとんど会話もなく、なんだか少し冷たい感じがした。まあ、最近は忙しいのだろう。
石畳の道を馬の足音が響き、王宮からの馬車が姿を見せた。意外なほど質素な馬車で、その佇まいには王国の威厳は感じられない。御者が馬車を止め、俺に軽く会釈した。
「おはようございます、ナオテル様。お待ちしておりました」
「ありがとう。おはよう」
俺は軽く会釈を返すと、馬車のドアを開けた。中に乗り込もうとして、思わず足を止めた。
「カリア団長?」
馬車の中には、騎士団長のエピカリアが座っていた。しかし、いつもの鎧姿ではなく、深い青のシンプルなワンピースを着た彼女は、普段とは全く異なる印象を与えていた。いつも一つに結んでいた栗色の髪は肩まで流れ落ち、柔らかな表情と相まって、まるで別人のようだった。彼女のシルエットが朝の光に照らされて、女性らしい曲線を優しく浮かび上がらせている。
「何を驚いているのです?」
カリアの琥珀色の瞳に笑みが浮かぶ。彼女の声には普段の凛とした調子ではなく、少し柔らかな響きがあった。
「いや、その...普段と違うので...」
俺は口ごもりながら馬車に乗り込み、カリアの向かいの席に座った。狭い馬車の中で、カリアの姿がより鮮明に見えた。鎧ではなく、布地のワンピースが彼女の肩のラインや腰のくびれを自然に強調し、髪を下ろした姿はより若々しく見えた。窓から差し込む光が彼女の髪を琥珀色に染め、その表情には騎士団長としての威厳と同時に、普段は見せない女性らしさが垣間見えた。
「視察ではなく、偵察ですよ」
カリアは少し声を落として言った。彼女の琥珀色の瞳には真剣な光が宿っていた。
「フィロソフィアの騎士団長がローレンティアに行けば、すぐに噂が広まります。できるだけ目立たないようにすることが重要です」
「なるほど...」
俺は自分の腰に下げた剣を見て、少し恥ずかしくなった。これでは丸わかりだ。軽装のはずが、堂々と剣をぶら下げてきてしまった。
「すみません。剣、持ってきてしまいました」
カリアは温かい笑みを浮かべた。栗色の髪が彼女の肩で優雅に揺れ、朝の緊張感がほぐれていくのを感じた。
「大丈夫です。宿に着いたら預ければ良いでしょう。行く先々で『雷の剣士様』と呼ばれては困りますからね」
馬車が動き出し、石畳を走る音が心地よいリズムを刻む。しばらく進むと、馬車は王立学院の前で停車した。
まもなく、小さな人影が馬車に近づいてくるのが見えた。
黒を基調としたドレスを身にまとった少女が馬車に乗り込んできた。セミロングの黒髪、細いフレームの眼鏡の奥に光る薄茶色の瞳——小ジャンヌだった。彼女はうなだれがちな肩と華奢な体つきが、黒いドレスの中でより一層小さく見えた。俺に小さく頷くと、カリアに向かって軽く会釈した。
「お久しぶりです、エピカリア団長」
「お元気でしたか、ジャンヌさん」
二人の挨拶を見て、俺は驚きに目を見開いた。
「二人は知り合いだったの?」
小ジャンヌは静かに頷いた。黒いドレスの裾を整えながら、彼女は淡々と説明を始めた。
「学院の図書館で何度かお会いしました。騎士団長は読書家なのです」
カリアは少し照れたように微笑んだ。
「さて、どうしたものでしょう」
カリアが考え込むように言った。彼女は栗色の髪を耳にかけ、窓の外を眺めた。朝日が彼女の横顔を照らし、その表情に深い思索の色を添えている。
「何がですか?」
俺が尋ねると、小ジャンヌは眼鏡を直し、静かに口を開いた。
「この三人の関係、どういう設定にするのが自然か、ということです」
俺は少し考えた後、提案した。
「家族はどうでしょう」
「具体的には?」
カリアが尋ねると、俺は言葉に詰まった。確かに、どういう家族関係が自然かと言われると難しい。
「俺とジャンヌがきょうだいで、カリアさんが...」
言いかけて、俺は言葉を飲み込んだ。カリアの年齢を考えると、母親というには若すぎる。しかしカリアはその言葉を拾った。
「母親?」
彼女の口元に微かな笑みが浮かぶ。
「すみません。それはないですね」
俺は慌てて訂正した。
「むしろ、3人きょうだいとか」
「髪の色も肌の色も瞳の色も違うのに?」
小ジャンヌが冷静に指摘した。彼女の薄茶色の瞳が鋭く光り、華奢な肩が微かに震えた。確かに、俺と小ジャンヌは黒髪だが、カリアの髪は栗色。肌の色は俺とカリアは似ているが、小ジャンヌはとても白い。瞳はカリアが琥珀色で小ジャンヌは薄茶色、俺は黒だ。
沈黙が車内に流れた後、小ジャンヌが突然口を開いた。彼女の薄茶色の瞳が輝く。
「ではこうしましょう。エピカリア団長は、かつて辺境伯だった父の第二夫人の連れ子で、テルは先妻の子。私は、父の妹の夫の姉が再婚した際の連れ子の、最初の結婚での子です。つまり——」
「ちょっと待って」
俺は頭を抱えた。あまりにも複雑すぎて、頭がこんがらがる。
「覚えられないよ」
カリアは穏やかに笑った。彼女の栗色の髪が窓からの光を浴びて柔らかく輝いている。
「こうなったら、自然にいくのがよいでしょう。我々はたまたま馬車に乗り合わせて意気投合した他人同士です」
彼女の提案に、俺と小ジャンヌも頷いた。馬車はローレンティア地方へと進んでいく。石畳から次第に土の道へと変わり、車窓の景色も変化していく。街の整然とした建物が、次第に緑豊かな田園風景へと移り変わっていった。小ジャンヌは窓際に寄りかかり、その横顔が風景と溶け合うように見えた。
数時間後、馬車は昼食のために小さな宿場町に停まった。三人は簡素な食堂で腰を下ろした。窓から差し込む陽光が、木製のテーブルを優しく照らしている。カリアのワンピースが光を受けて深い藍色に輝き、その表情には旅の疲れを感じさせない凜とした落ち着きがあった。
給仕が注文を取りに来ると、俺は肉料理とパン、果物のジュースを頼んだ。一方、カリアとジャンヌの注文は驚くほど簡素だった。カリアはパンと水だけ、小ジャンヌはパンとコーヒーのみだった。
「それだけで足りるの?」
俺が尋ねると、小ジャンヌは眼鏡を直しながら静かに答えた。彼女の白い指先が眼鏡のフレームに触れ、その仕草には繊細な美しさがあった。
「食事は最低限、空腹が満たせれば十分です」
カリアが続けた。
「パンと水さえあれば、神の幸福にすら匹敵するわ」
カリアの言葉に、俺は驚いた。
「意外ですか?」
カリアが尋ねる。俺は、カリアについてのある噂について正直に話すことにした。
「実は、騎士団長は常に『欲求の全てを満たしている』人だと聞いていました」
カリアは意味ありげに微笑むと、話し始めた。
「人間の欲求について考えたことはありますか?」
カリアは微笑みながら問いかけた。小ジャンヌも興味深そうに聞き入っている。
「私は騎士として鍛錬を重ねる中で、自分の欲求を分析するようになりました」
カリアはパンをちぎる手を止めて、静かに語り始めた。
「欲求には三種類あると思うのです。まず『必然的で自然な欲求』、これは生存に必要なもの。食べること、眠ること、体を守ることなどです」
カリアは続けた。いつもながら彼女の話し方には不思議な説得力があり、俺は思わず聞き入ってしまう。
「次に『必然的ではないが自然な欲求』、これは豪華な食事や美しい衣服などの贅沢品への欲求。必要ではないけれど、自然と湧いてくる欲望です」
カリアが窓からの光を浴びると、彼女の髪が金色に輝いて見えた。
「そして最後に『自然でも必然的でもない欲求』、これは名誉や権力、限りない財産への渇望です。こういった欲求は決して満たされることがなく、むしろ満たせば満たすほど増していくのです」
俺は興味深く聞き入った。彼女の言葉には経験に裏打ちされた重みがあり、単なる理屈ではない生きた知恵を感じた。
「私は、必然的で自然な欲求だけを満たしています。これが最も純粋な喜びをもたらすのです。最小限の欲求を満たすことで、心の平穏を保つことができます」
小ジャンヌも静かに頷いた。彼女の薄茶色の瞳にも納得の色が浮かび、黒いドレスの中で華奢な肩が微かに動いた。二人の間に、不思議な共感が流れているのを俺は感じた。
「必要以上のものを求めず、今の瞬間に満足する。それが本当の幸福への道ですね」
小ジャンヌの言葉に、カリアは優しく微笑んだ。
俺は二人の会話を聞きながら、思わず感心した。カリアと小ジャンヌ、一見すると全く異なる二人だが、物事の本質を見抜く力と、シンプルさを尊ぶ姿勢では共通しているようだった。カリアの落ち着いた佇まいと、小ジャンヌの静かな存在感が、不思議と調和していた。
「意外と二人、相性がいいかも」
俺はそう思いながら、自分の料理に舌鼓を打った。肉のジューシーな味わいと、焼きたてのパンの香ばしさが口の中に広がる。とはいえ、二人の話を聞いていると、こんなに「豪華」な食事を頼んだ自分が少し恥ずかしく感じた。
食事を終えた三人は、再び馬車に乗り込んだ。目的地のローレンティアまでは、まだ道のりが長い。窓の外では、次第に風景が変わり始めていた。丘陵地帯が近づき、遠くには小さな採掘場が見えてきた。小ジャンヌは窓際に寄りかかり、その横顔に旅の疲れが少し見え始めていた。
「あれが、ローレンティア鉱山ですか?」
俺が尋ねると、カリアは頷いた。彼女の琥珀色の瞳は遠くを見つめ、その表情には静かな緊張が浮かんでいた。
「まだ小さな採掘場ですが、本格的な鉱山はもっと奥にあります。あれらが、フォルスク条約で共同管理することになった鉱山群の一部です」
小ジャンヌは窓の外を見つめながら、静かに言った。彼女の白い指先がドレスの端をつまみ、その仕草には内なる思索の深さが表れていた。
「人は何のために争うのでしょうか。土地も資源も、どれも『人間の存在』に比べれば、取るに足らないものなのに」
その言葉に、カリアも俺も沈黙した。馬車は静かに丘を登り始め、ローレンティア地方の中心部へと向かっていった。カリアの表情が次第に引き締まり、騎士団長としての凛とした雰囲気が戻ってきていた。
遠くの空には、不吉な灰色の雲が少しずつ形を変えながら集まり始めていた。窓から差し込む光が弱まり、車内に淡い影が落ち始める。三人の旅は、これからどうなるのだろう——。




