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第5話:ルーシーと「言葉の使い方」

「あなたが東方から来たというかたですか?」


入ってきたのは、長い黒髪を持つ美しい少女だった。漆黒の髪は腰まで届き、その先端は僅かなウェーブを描いている。白いブラウスに黒に近い深紅のリボンが際立ち、細い腰から広がる深紺の長めのスカートは高貴な雰囲気を漂わせていた。彼女の目は、長いまつ毛に縁取られた紺碧色で、鋭い眼差しと知的な表情に、思わず息を呑む。


慌てて俺はスマホをポケットにしまい込んだ。少女は部屋の中央まで歩み寄ってきた。その歩き方には独特のリズムがあり、ヒールの音が部屋に響き渡る。


「ええ、その...テルと言います」


声が少し上ずってしまう。目の前の少女には独特の存在感があった。


「ルーシー・ヴィットです。私は生徒会で風紀委員という役職に就いています」


彼女は丁寧にお辞儀をすると、俺を観察するように見つめた。


「『東方』というのは、正確にはどのような地理的位置を示していますか?」


突然の質問に戸惑う。異世界から来たなんて言えなかったから、エマには適当に「東方から」と言っておいたら、それ以上は訊かれなかったのに。


「いや、その...遠い国で...」


「『遠い』という言葉は人によって違う意味になります。距離や移動時間で明確に言ってください」


悪気はなさそうだけど、ルーシーの質問は容赦なかった。ルーシーは一歩近づいてきた。上品なバラの香りが漂ってくる。異世界から、といっても理解されないだろう。ましてや日本から、といっても。


「あの…何と言えばいいか…遠い場所なんだけど…現実と言えば現実の世界で…」


ルーシーが、深く明瞭な声で諭すように言う。


「あなたは今、自分でも理解していないことを話そうとしています。人は、語りえないことについては、沈黙しなければなりません」


ぐうの音も出ない。


「すみません...言葉が足りなくて...」


もはや、取調室だ。さながら言語警察といったところで、弁護士を呼びたくなる。


「『言葉が足りない』という表現は間違いです。問題は『言葉の使い方が正確でない』ことです。言葉の使い方があいまいだと、思考も必然的に混乱します」


ルーシーはテーブルの俺の正面に座った。胸元の深紅のリボンが陽の光を受けて、鮮やかに輝いていた。


「あなたがこの場所に滞在する目的は何ですか?」


「いや、特に目的はないんだ。ただ見学に来ただけで」


「『特に目的はない』という否定と『見学に来た』という目的を同時に述べることはできません。矛盾しています」


彼女は口元に人差し指を当てながら、俺の言葉を分析し続けていた。思わず溜息が漏れる。一つ一つの言葉選びが重要なのだ。


俺は彼女の口調を少し真似てみた。


「言い直します。入学の手続きに訪れた、というような明確な目的は私にはありません」


初めて彼女が微笑んだ。その笑顔はそれまでの表情と打って変わって清らかで、まるで厳しい冬が終わり、春が来たみたいだ。


「今の表現は論理的に筋が通っています。言葉は現実を映し出す道具であり、あいまいな言葉は現実の見方を歪めてしまいますから」


窓から鐘の音が聞こえてきた。


「あなたは今、お腹が空いていますか?」


ルーシーのそんな質問に驚く。厳しい先生が急に雑談を始めたみたいで拍子抜けした。この世界の人は、人が空腹かどうかになぜか敏感だ。


再び彼女の口調を真似るように言う。


「私の空腹度は3または4です」


「では、食堂へ行きましょう」


ルーシーは立ち上がり、ドアへと歩き始めた。スカートの裾が彼女の動きに合わせて優雅に揺れる。


「ちょっと待って、エマはここで待っていろって...」


「『待っていろ』は命令形です。エマにはあなたに命令する権限がありますか?」


彼女の質問に言葉に詰まる。ルーシーはドアの前で振り返る。


「でも、約束したから...」


悩んでいると、ルーシーはため息をついた。


「状況は理解しました。私が食べ物を持ってきます。その間、あなたはここで待っていてはどうでしょう。ちなみに、これは命令ではなく提案です」


そう言って、ルーシーは部屋を出て行った。ドアが閉まると、緊張から解放されて肩の力が抜けた。


「彼女は何でこんなに言葉に厳しいんだ…」


でも不思議と、彼女から俺に対する敵意は感じなかった。むしろ、その厳密さを突き詰める姿に、何か惹かれるものがあった。


窓の外では、学生たちが校庭を行き交っていた。皆、何かを真剣に議論しているように見える。


「言葉の使い方か...」


ルーシーの言った「あいまいな言葉使いは、あいまいな思考につながる」という言葉が頭に浮かぶ。そう言われれば確かに、そんな気がする。


部屋に戻ってきたルーシーは、小さなバスケットを持っていた。中には焼きたてのパンと果物、チーズが入っている。


「どうぞ、これらの食品を食べてください。これは強制ではなく合理的な提案です」


彼女は微かに笑みを浮かべた。厳密な言葉の裏には、優しさが隠れているのを感じる。


パンを口に入れると、外はカリカリ、中はふんわりした食感が広がった。「王立」だけあって、食堂のシェフも一流なのだろう。思わず「うまっ!」と声が出る。


「『うまい』という表現はあいまいで、確かめられません。どんな客観的な特徴がその評価の理由ですか?」


口いっぱいのパンを必死に飲み込む。


「えっと...味が豊かで、食感も良くて...」


「より正確には『このパンには複雑な味わいがあり、食べたときの感触が心地よい』と表現するべきです」


「言葉って難しいんだね…」


俺はため息をつく。


「言葉は難しいものではなく、ルールに基づいたシステムです。言葉は特定のルールの中で行うゲームのようなものです。ルールさえ覚えれば、誰でも上手くできます」


「言葉はゲーム...」


「正確には『言語げんごゲーム』です。人は日常的にいろんな言語ゲームに参加しています。命令、質問、報告、冗談。これらは違うゲームで、それぞれ独自のルールを持っています。同じ言葉でも、参加している言語ゲームによって意味は変わってくるのです」


パンを食べながらルーシーの話を聞く。


「例えば、『質問』の言語ゲームで『今、何時ですか』と言われれば、それは現在時刻を問われていますが、『非難』の言語ゲームで同じように言われれば、それは、あなたが遅刻したことを意味します」


彼女の声は落ち着いていて、説明も分かりやすかった。厳密な口調の中にも、教えることへの情熱を感じる。


「言葉について、そんなふうに考えたことなかったな...」


「同じ言葉でも、どの『ゲーム』に参加しているかによって、意味が全然違ってきます。だから会話を成立させるためには、同じ『言語ゲーム』をプレイしている必要があるのです」


ルーシーの瞳が輝いていた。話が進むにつれて、彼女の表情も豊かになっていく。


「なるほど、君が俺の言葉に厳しかったのは、同じ言語ゲームをプレイしたかったからなんだね」


俺がそう言うと、彼女は少し目を伏せた。


「…正しい指摘です」


少しの沈黙が流れる。


「実際に練習してみませんか?ちなみに、これは提案です」


彼女が紺碧色の瞳で俺を見つめながら言う。催眠術に掛かったように、俺は思わず頷いていた。


しかし、うまく出来る自信はない。先手必勝、俺のほうから逆に提案をしてみた。


「では、冗談のルールに基づく言語ゲームを始めましょう。ルーシー、冗談を一つ言ってみてください」


ルーシーは片眉を少し上げ、深紅のリボンを整えながら姿勢を正した。彼女の長い黒髪が肩越しに流れ、窓から差し込む光を受けて僅かに輝いている。紺碧の瞳は一瞬上方を見上げ、何かを考える様子がうかがえた。


少しの間を置いて、ルーシーの唇が動き出す。


「『冗談』という言葉は、厳密には『真実ではない言葉で笑いを起こそうとするもの』と定義されます。でも私の言葉は常に真実なので、技術的には私は冗談を言えません」


ルーシーは一呼吸を置き、そして初めて見る子供のような無邪気さを含んだ表情で付け加えた。


「いまのが冗談です」


しばらくの沈黙の後、思わず笑いがこみ上げてきた。ルーシーも口元を少し緩め、少女らしい表情を見せた。ルーシーの唇は普段より柔らかく見え、その笑顔は彼女の知的な美しさに新たな魅力を加えていた。


「あなたの表情に現れた豊かな感情は高い価値を持ちますね」


俺がそう言うと、ルーシーの頬が、わずかに赤く染まったような気がした。少し視線をそらし、髪を耳にかける仕草は、いつもの堂々とした態度とは少し違って見え、心の動きがみてとれた。そして、彼女は小さな声で言った。


「人は、語りえないことについては、沈黙しなければなりません」

言語げんごゲーム:ウィトゲンシュタイン(1889-1951)が後期の著作『哲学探究』で提示した概念で、言語は特定の文脈や社会的実践の中で意味を持つ「ゲーム」のようなものだと考えます。例えば、「水」という言葉も、日常会話、科学の授業、詩の中では異なる使われ方をします。言葉の意味はその使用法によって決まるのです。

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