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第54話:エマと「本」

その日の夜、俺は靴を履いたままベッドでうつ伏せになっていた。エマの帰りを待っているつもりだったが、いつの間にか睡魔に襲われていたようだ。


「テル…」


優しい声と肩を揺さぶる感触で、俺はゆっくりと目を開けた。エマの銀色の髪がランプの明かりを受けて絹糸のように柔らかく輝き、澄んだ青い瞳が心配そうに俺を見下ろしていた。


「...エマ?」


俺は寝ぼけた声で答えた。窓の外は真っ暗で、いつの間にか夜が更けていたことに気づく。妙な姿勢のまま、かなり長く眠っていたらしい。首と膝が少し痛い。


「お帰りなさい。ヘルメニカの旅はいかがでしたか?」


エマの声には温かさがあった。白磁のような透明感のある頬がわずかに紅を帯び、長いまつげの下から覗く瞳は優しく微笑んでいる。


「ただいま。旅は...色々あって面白かったよ」


俺は大きく伸びをしながら答えた。体中の筋肉が緊張から解放され、心地よい疲労感に包まれる。


「テル、お腹はすいていませんか?ご飯はもう食べたのですか?」


エマは心配そうに尋ねた。きちんと折り目のついた白いブラウスの胸元でリボンが揺れ、彼女の青い瞳には純粋な気遣いが浮かんでいた。


「ごめん。寝てた。ご飯は食べてない」


「では、下から持ってきますね」


そう言ってエマは部屋を出て行った。スカートのプリーツが軽やかに揺れる姿が、ドアの向こうに消えていく。彼女の足音が階段を下りていく音が、静かな部屋に響いた。


俺はぼんやりとした頭でヘルメニカへの旅を思い返していた。アテリア女王の優雅な微笑み、王宮の広大な図書館、アンナの個性的な友人たち...様々な出来事が断片的に浮かんでは消えていく。


エマが戻ってくるまで、俺はぼんやりと窓の外を眺めていた。月明かりに照らされた街並みが、静かに佇んでいる。


エマはパンと温かいスープ、それにチーズとリンゴを持って戻ってきた。彼女は食べ物を俺の前に丁寧に並べると、反対側の椅子に座った。三つ編みにした銀色の髪が月明かりを受けて神秘的に輝いている。


「ごめんなさい、起こしてしまって。本当は、朝まで起こす気は無かったのだけど...」


エマが口ごもった。彼女の青い瞳には少し迷いの色が浮かんでいる。白い指先がドレスの裾を無意識につまむ仕草に、彼女の心の動揺が表れていた。


「どうしたの?」


俺はスープを一口飲みながら尋ねた。温かい液体が喉を通り、体が徐々に目覚めてくるのを感じる。


「テルと話したいと思って… 1週間ぶりだから」


エマの声は小さく、でも確かな想いが込められていた。彼女の頬が薄紅色に染まる。


「俺もエマと話したいことがいろいろあるよ」


俺は笑顔で答えた。


それから、俺はヘルメニカでの出来事をエマに話し始めた。シルバーマインの色彩豊かな街並み、活気ある市場、そしてアテリア女王との会話。エマは身を乗り出して聞き入り、時折質問を挟みながら、真剣に話に耳を傾けていた。ランプの灯りが彼女の表情を柔らかく照らし、その興味津々の様子が愛らしかった。


「そう、それからアンナの友だちにも会ったんだよ」


俺がそう言うと、エマの表情がわずかに変わった。彼女の青い瞳が少し鋭さを増し、背筋がピンと伸びる。


「会ったのはアンナの『友人』だけですか?」


エマの問いかけに、俺は一瞬言葉に詰まった。やばい。


「いや、その...実は、アンナが案内役として来てくれていたんだ」


エマの迫力に、思わず正直に答えてしまった。エマの表情が微妙に変化するが、彼女はすぐに穏やかな微笑みを浮かべた。しかし、その青い瞳の奥には小さな嵐が渦巻いているようだった。


「嘘をつかないことは素晴らしいことです」


彼女の声は冷静だったが、その瞳の奥には複雑な感情が揺れていた。銀色の髪が彼女の動きに合わせて肩で揺れ、その姿からは微妙な緊張感が伝わってきた。


「アンナはあなたが出発した日から学校に来ていませんでしたから、察しは付いていました」


「いや、実際、道案内役として、とても助かったんだよ」


俺は少し焦って弁解した。エマは小さく頷き、微妙な笑みを浮かべる。彼女の指先がテーブルの縁を滑り、その動きには抑えられた感情が表れていた。


「それは…良かったですね!」


エマは深呼吸すると、穏やかな表情を取り戻す努力をした。揺らいでいた感情が静まっていくのが見て取れた。


「そういえば」


俺は話題を変えようと思い、ふと思い出したことがあった。


「エマにお土産があるんだ」


俺は立ち上がり、旅の荷物から一冊の本を取り出した。茶色い革の表紙に金色の文字で「人間本性論」と書かれている。装飾的な模様が表紙の周りを彩り、古い知恵が詰まった重厚感が伝わってくる本だった。


エマの表情が見る見る明るくなり、青い瞳が星のように輝いた。彼女は両手を胸の前で合わせ、まるで宝物を見るような目で本を見つめていた。銀色の髪が喜びの動きに合わせて踊るように揺れる。


「この本、どこで手に入れたのですか?どうして私がこの本を読みたいのが分かったのですか?」


エマの声には純粋な喜びが混じっていた。彼女はほとんど跳ね上がりそうな勢いで椅子から立ち上がり、スカートの裾が優雅に広がった。俺の差し出す本に白い手を伸ばし、その指先が期待で小刻みに震えているのが見えた。


「ヘルメニカの王宮には巨大な図書館があるんだ」


俺は説明した。エマの目がさらに輝き、その青い瞳に知的好奇心の炎が燃え上がった。


「そこからテルが選んでくれたのですね?」


エマの喜びの表情を見て、俺は一瞬悩んだ。黙っておこうか...でも、正直に言おう。


「...実は違うんだ。ある女性が...」


俺の言葉に、エマの視線がまた鋭くなった。銀色の髪が肩で揺れ、彼女の華奢な肩が硬直する。


「実は、テオリア女王の妹のアテリア女王が選んでくれたんだ」


エマは驚いて目を見開いた。凍りついていた表情が、一瞬で溶けるように変化する。


「どういうことですか?」


「王宮の図書館で何でも1冊借りて良いと言われたんだけど、俺にはよく分からなかったから、エマについて説明したんだ。そうしたら、アテリア女王がこの本が君にぴったりだって」


エマの表情が柔らかくなり、顔全体が喜びに輝いた。彼女は本を大事そうに胸に抱き、銀色の髪が月明かりに照らされて美しく揺れた。青い瞳には感激の涙が浮かび、その透明な輝きが部屋の灯りを受けて宝石のように煌めいていた。


「アテリア女王からの贈り物...この上ない喜びです」


彼女の声は感動で震えていた。


その夜、エマは遅くまで本を読んでいた。ベッドに横になった俺は、ランプの灯りに照らされたエマの横顔を見つめていた。彼女の真剣な表情、時折ページをめくる指先の優雅な動き、そして時々浮かべる微笑み。すべてが美しい絵画のようだった。時々、彼女は興味深い一節を見つけると、唇を小さく動かして何度も読み返す。その姿に、学問への純粋な愛を感じずにはいられなかった。


うとうとしかけていると、ベッドが軽く揺れるのを感じた。エマが上がってきたようだ。ナイトドレスに着替えた彼女の姿が、月明かりに浮かび上がる。


「テル、起きていますか?」


彼女の声は小さく、囁くようだった。レースの襟元が月光を受けて繊細な影を作っている。


「起きているよ」


俺は眠気を振り払って答えた。


「テル、本当にありがとう。あなたが素晴らしいのは、相手が誰であれ、分からないことを聞くことが出来ることです」


エマの言葉に、俺は少し戸惑った。彼女の青い瞳には純粋な尊敬の色が浮かんでいた。


「そうなの?」


「普通は、特に地位のある人の前では体面を保とうとします。でも、あなたは誰に対しても素直です。それはあなたの素晴らしさの一つです」


エマの声には心からの感謝と尊敬が込められていた。月明かりに照らされた彼女の青い瞳は、まるで夜空の星のように輝いていた。銀色の髪がその顔を優しく縁取り、彼女の白いナイトドレスは月の光を反射して神秘的な輝きを放っていた。


「ありがとう」


俺は半分眠りながら答えた。


どうしてだろうか。俺は元の世界では、人生において先生に質問したことなど一度もなかった。なぜこの世界ではそれができるのだろう。


理由は多分二つある。ひとつは「異世界の恥はかきすて」と思っているからか。どうせ一度死んで、人生リセットされているのだから、好きに生きてみようと無意識に思っているのだろう。


もう一つは、この世界における「偉さ」がピンと来ていないからだ。特に「女王」と言われても、どれぐらい偉いのか全くピンとこない。だから、偉い人にもフラットに接することができるのだろう。


ただ、考えてみればそれは心の持ちようで、これは異世界でなくてもできたことだ。今度生まれ変わることがあれば、その人生でもこんな風に生きてみよう、と思った。


そんなことを考えながら、俺は穏やかな眠りに落ちていった。エマの温もりと、かすかなラベンダーの香りに包まれて。

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こちらは「完全版」です。 「ライト版・挿絵入り」はこちら
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