第52話:アンナと「友人」
夏の陽光が街を優しく照らす昼下がり。シルバーマインの賑やかな通りを、俺は少し緊張した面持ちで歩いていた。一昨日の案内に続いて、今日も午前中いっぱいはアンナが俺をこの街の見どころに連れ回してくれた。午後からは王宮に向かい、テオリア女王からの使命を果たさなければならないが、その前にアンナが「どうしても会わせたい人がいる」と言うので、少し時間をとることにしたのだ。
「あそこよ!」
アンナが通りの角にある三階建ての建物を指さした。「ホスト・ウント・ヴェルト」と彫られた木製の看板が目印の、落ち着いた雰囲気のカフェだ。濃い緑色のテントが日差しを遮り、外のテーブルには様々な服装の人々が談笑していた。ヘルメニカの街の多様性を表すかのように、そこにはフィロソフィアでは見られない開放的な雰囲気が漂っていた。
「素敵な場所だね」
「でしょう?ここはシルバーマインの学者や芸術家たちが集まる場所なの」
アンナの緑色の瞳には期待が溢れていた。彼女は今日も民族調の衣装を着ており、緑と茶色の刺繍が施されたワンピースは、彼女の金褐色の髪と日に焼けた健康的な肌によく似合っていた。その姿は、このカフェの芸術的な雰囲気にぴったりと調和していた。
カフェの扉を開けると、中はほのかな薫香と、コーヒーの香りで満ちていた。壁には様々な絵画や詩が飾られ、書棚には分厚い本が並んでいる。俺たちが入るとすぐに、窓際のテーブルから二人の少女が手を振った。
「あそこね」
アンナに導かれ、俺はそのテーブルに向かった。窓際に座る二人の少女は、俺の予想とは全く異なる印象だった。
「紹介するわ。フレデリカとマルテ。私の親友たち」
アンナが二人を指さすと、まず一人目の少女が立ち上がった。ブロンドの髪が肩まで伸び、鋭い茶色の瞳が光る。小さな眼鏡をかけた彼女は、気品ある立ち居振る舞いで、黒を基調とした服装が厳かな印象を与えていた。襟元の金色のブローチが窓からの光を受けて煌めき、その姿は凛とした知性を感じさせる。
「はじめまして、フレデリカ・ニコラです」
彼女の声は澄んでいて、一語一語が明確に発音されていた。
次に、もう一人の少女が静かに立ち上がった。長い黒髪を背中まで伸ばし、一つに結んだその少女には、どこか儚い雰囲気があった。透き通るように澄んだ青灰色の瞳は、常に遠くを見つめているかのようだ。青黒のシンプルなワンピースを着た彼女の動きは、ゆったりとして慎重だった。細い指先が繊細に髪を整える仕草には、物思いにふける詩人のような雰囲気が漂っていた。
「どうも、マルテ・ハイデです」
彼女の声は静かで、しかし奥深い響きがあった。
「ナオテル・イフォンシス・デカペンテです」
俺は思わずかしこまって挨拶した。アンナが見せた天真爛漫な性格から、友人たちも同じような雰囲気を想像していたが、目の前の二人は全く違う印象だった。フレデリカは知的で洗練されており、マルテは静かで思索的な雰囲気を持っている。
二人を観察する俺の視線に気づいたのか、アンナが不思議そうに首を傾げた。金褐色の前髪が頬にかかり、その仕草が子猫のように愛らしい。
「テル? 二人がどうかしたの?」
「いや、なんというか...」
アンナが少し眉を寄せた。彼女の金褐色の髪が肩で揺れる。
「この国の人はアンナみたいな人ばかりかと思ってたけど...」
「どういうこと? 私みたいって」
アンナは両手を腰に当て、俺を挑戦的に見つめた。その姿勢が彼女のワンピースのシルエットをより一層美しく見せている。
「その、なんというか、考えるよりも行動するタイプっていうか...」
言葉につまる俺に、アンナは少し不満げな表情を浮かべた。彼女の唇が小さく尖り、その表情はまるで怒った子どものようだった。
「偏見だわ。フレデリカもマルテも、私みたいにむちゃをしそうじゃない、って言いたいんでしょ」
「いや、そういうわけでは...」
俺の言い訳をさえぎるように、フレデリカが静かに口を開いた。彼女は優雅に髪を耳にかけ、眼鏡の縁を指先で軽く直した。
「アンナは特別よ。考えることと行動すること、哲学と芸術、あらゆる面でバランスの取れた精神を持っているわ」
フレデリカの言葉に、アンナの頬が薔薇色に染まる。
「やめてよ。恥ずかしいから」
彼女の照れた様子を見て、俺は思わず笑みをこぼした。
「いや、実際にそうだと思うよ」
「褒めても何も出ないわよ」
アンナはそう言って顔を背けたが、その耳まで赤くなっていることに気づいた。彼女がコーヒーを口に運ぶ姿は、普段の活発さとは異なる女性らしさを感じさせた。
フレデリカは俺をじっと見つめていた。その鋭い茶色の瞳は、俺を見定めようとしているようだ。彼女は革鞄から小さなノートを取り出し、何かを書き留めた後、再び俺に視線を向けた。きちんと折り目のついたブラウスとスカートは、彼女の几帳面な性格を表しているようだった。
「そういうあなた。テルはアンナにつりあう人なのかしら」
その質問に、俺は戸惑った。アンナとのつりあい?そんなことを考えたこともなかった。
「いや、どうだろうね」
フレデリカは少し前のめりになり、眼鏡の奥の瞳が鋭く光った。彼女の姿勢がきりりと整い、まるで試験官のような雰囲気を醸し出していた。
「まず聞くけど、あなたは神を信じる?信じない?」
突然の質問に、俺は考え込んだ。答えは決まっている。神を信じて生きてきたことはない。というか、宗教を気にしたことはなかった。しかし、この世界でそれを言っても良いのか。ドン引きされるのではないか。でも、正直に答えるしかないだろう。俺は深呼吸して口を開いた。
「正直に言えば、信じないね。正しくは、神とかよく分からない」
俺の言葉を聞いたフレデリカの表情が、急に紅潮した。彼女の茶色の瞳が興奮で大きく見開かれ、眼鏡の奥で輝きを放っていた。
「あなたは素晴らしい人です。なぜなら、神は死んだのですから」
フレデリカの声には熱が込められていた。その態度から、普段は冷静な彼女が、この話題には特別な情熱を抱いていることが伝わってきた。
「今の社会では、もはや神や絶対的な価値の存在を信じることはできない。私たちは自ら価値を創造し、『力への意志』に基づいて生きていかなければならないんです」
彼女の熱弁は止まらなかった。黒いスカートの裾が彼女の感情の高まりと共に揺れる。
フレデリカの情熱的な主張に、アンナは優しく微笑み、場の緊張を和らげるように両手を広げた。
「あまり決めつけるのは良くないわ。確かに神は死んだのかもしれないけど、人間と自然の調和を『神』と呼ぶこともできるかもしれないのだから」
アンナの言葉に、フレデリカは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに納得したように微笑んだ。彼女の姿勢が柔らかくなり、眼鏡を直す仕草にも余裕が生まれた。
テーブルの向かいで黙って聞いていたマルテが、ようやく口を開いた。彼女の青灰色の瞳は、遠い地平を見つめるかのように深い。長い黒髪が肩から滑り落ち、その一部が彼女の白い肌に影を作っていた。
「私から聞いてもいいかしら」
マルテの声は静かだったが、不思議と心に染み入るような響きがあった。彼女の青黒いワンピースが窓からの光を受けて微かに輝き、肩から流れる長い黒髪が光と影の境目で揺れていた。
「あなたは、人間が『存在する』ってどういうことだと思う?」
突然の哲学的な問いに、俺は少し考え込んだ。こんな質問をされたことはなかったが、直感的に浮かんだ考えを言葉にした。
「うーん、そうだな。人間が存在するっていうのは、ただ生きてるってことじゃないと思う。なんていうか...選択をして、何かを作り出したり、誰かと関わったりすることで、自分の存在が意味を持つというか...何もしないで生きてるだけなら、本当の意味では存在してるとは言えない気がする」
マルテの青灰色の瞳が少し輝いた。彼女はゆっくりと頷き、普段は無表情に近い顔に小さな笑みが浮かんだ。その変化は、静かだけれど確かな温かさを感じさせた。
「あなたの考えは本当に興味深いわ。私もそう思うの」
彼女は長いまつげの下から真剣な眼差しを向けながら続けた。
「人間の存在とは単に『この世にいる』ということじゃないの。それは『自分の可能性に向かって生きる』こと。例えば、私たちは誰でも、画家になる可能性も、旅人になる可能性も持っている。でも、その中から何かを選んで行動することで初めて、本当の自分になれるのよ」
マルテの言葉は静かだが力強く、彼女の青灰色の瞳には深い思索の光が宿っていた。彼女の細い指先がテーブルの上で小さな円を描くように動く。
「人間は未来に向かって自分を投げ出す存在なの。私たちは過去に縛られるんじゃなくて、これから何になれるかという可能性の中で生きている。そういう意味では、人間は常に『なりつつある』存在と言えるわ。完成形じゃなくて、いつも途中の段階にいるの」
彼女が話す間、黒髪が顔を優しく縁取り、その青灰色の瞳は遠くを見つめるように深みを増していった。
彼女の話し方には、どこか既視感があった。俺は考え込む。ああ、これは少ジャンヌと話している感覚だと気づく。そう言われれば、マルテの外見は眼鏡を外した少ジャンヌに見えなくもない。その深みのある話し方も、どこか少ジャンヌを思わせる。
しばらく四人で会話を続けた後、アンナが時計を見て立ち上がった。彼女のワンピースのスカート部分が優雅に広がり、窓からの陽光を受けて輝いていた。
「テル、そろそろ王宮に行く時間じゃない?」
俺も慌てて立ち上がる。確かに、もうすぐ王宮での約束の時間だ。
「そうだな、行かないと」
フレデリカとマルテにも別れを告げ、カフェを出た。通りに出ると、午後の強い日差しが二人を包み込む。アンナの髪が風になびき、金褐色の輝きが太陽の光を反射して、まるで彼女の周りに光の帯が広がっているかのようだった。
「どうだった? 私の友だち」
アンナが俺に尋ねた。彼女の緑色の瞳は好奇心と期待で輝いていた。頬に落ちる影が彼女の表情をより一層生き生きと見せていた。
「いや、なんというか『濃い』ね」
「『濃い』ってなによ」
アンナの顔に不思議そうな表情が浮かぶ。彼女の金褐色の髪が風に揺れるのを見て、俺は言葉を選ぶ。
「なんというか、それぞれが強い個性と考えを持っているというか」
アンナは明るく笑った。彼女の笑顔は太陽のように輝き、緑色の瞳に楽しそうな光が宿っていた。笑う彼女の唇が小さく開き、健康的な白い歯が見えた。
「まあ、私の友だちという時点で、『濃い』わよ」
二人で笑いながら、別れ際にアンナは俺の肩を軽く叩いた。彼女の手の温もりが、風の中でも心地よく感じられた。
「王宮での用事、頑張ってね。明日、また会いましょう」
アンナとの別れ際、彼女の笑顔と友人たちの言葉を思い出す。黒服のフレデリカと青黒服のマルテ。二人の深い言葉と鋭い問いかけ。初対面であんな会話を向けられて、普通に話している自分に少し驚いた。
王宮への道を歩きながら、俺は考える。知らない間に王立学院の生徒会のメンバーやテオリア女王、カリアとの交流に鍛えられているんだな、と感じた。かつての自分なら、哲学的な会話なんて、途中で投げ出していただろう。
シルバーマインの王宮が、丘の上に見えてきた。青と金の旗が風になびき、その壮大な姿に俺の使命を思い出す。テオリア女王からの手紙、その向こうにある二つの国の未来。そんな大切な役目を担っているのに、様々な哲学者たちの分身のような少女たちと気軽に議論できる自分がいる。
「変わったのかな、俺も」
そう呟きながら、俺は王宮へと足を進めた。




