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第51話:アテリアと「中庸」

翌朝、朝陽がシルバーマインの高い塔々を黄金に染め上げる頃、俺はヘルメニカ王宮へと向かっていた。馬車が石畳を進むにつれ、街の喧騒から徐々に離れていくのを感じる。


「ヘルメニカの言葉、分かるかな…」


俺は少し不安を覚えながらも、アンナから聞いていた知識を思い出していた。ヘルメニカの言葉はフィロソフィアの言葉とかなり近い。お互いに自国語で話しても、意味は概ね理解できるはずだった。


馬車が王宮の前に停まると、衛兵が丁寧に出迎えてくれた。


「フィロソフィアからテオリア女王の名代としてきたナオテル・イフォンシス・デカペンテです」


そう言うと、相手も「話は聞いています。お通りください」というようなことを言った。確かに、お互いにだいたい意味は分かるようだ。


俺はエミールの剣を腰に下げ、テオリア女王から預かった封書を大切に内ポケットに入れて、王宮の階段を上がっていく。


ヘルメニカの王宮はフィロソフィアのそれと比べて、はるかに彩り豊かだった。フィロソフィアの王宮が幾何学的で理性的な装飾に満ちているのに対し、こちらは色鮮やかな絵画が壁一面に飾られている。


長い廊下を抜け、謁見の間へ。大きな扉が開かれると、俺は思わず息を呑んだ。


部屋の中央に座するアテリア女王は、まるでテオリア女王の双子のようだった。テオリア女王と同じ金色の長い髪。ただし彼女は厳密に結わえるのではなく、自然に流していた。紫水晶色の瞳も同じだが、その瞳にはより穏やかな光が宿っている。純白のドレスは、芸術的な刺繍で彩られていた。


「あなたがフィロソフィアから来た、雷の剣の使い手のナオテルですね」


アテリア女王の声は、風鈴のように優しく響いた。


「はい、テオリア女王から書状をお預かりして参りました」


俺は深く頭を下げ、内ポケットから封書を取り出した。従者がそれを受け取り、アテリア女王の手元に届ける。


女王は丁寧に封を切り、中の手紙を読み始めた。その表情は徐々に固くなり、口元は固く結ばれていた。


「事情は分かりました。返事を書きますので、明日の午後、また来てください」


「かしこまりました」


俺が下がろうとした時、アテリア女王の声が再び響いた。


「テル、少し待って」


俺は足を止め、再び女王の方を向いた。


「公式の謁見は終わりとして、少しお話ししませんか?」


「光栄です」


女王は俺に近くの椅子へと座るように促した。俺は少し戸惑いながらも、言われた通りにする。


「ヘルメニカの印象はいかがですか?」


「活気があり、彩り豊かに感じます。フィロソフィアとは違う魅力がありますね」


アテリア女王は満足そうに微笑んだ。その表情は太陽の光のように明るく、部屋全体を温かく照らすようだった。


「そう思っていただけたなら嬉しいわ」


女王は窓の外を見やりながら続けた。


「ほら、姉上は、ああいう人だから、フィロソフィアは理想主義的な国になったと思うの。私はもう少し『中庸』を目指したいと思っているの」


「中庸ですか?」


俺は興味をそそられ、身を乗り出した。


「そう、中庸よ。過度でもなく、不足でもない、ということ」


「はい。私の国にも「過ぎたるは及ばざるが如し」という言葉はあります」


「良い言葉ね。どんな美徳も、極端に走れば悪徳になる。例えば、勇気は素晴らしい美徳よね。けれど、度を超えれば無謀になり、足りなければ臆病になる。『中庸』とは、この二つの極端の間にある、適切なバランスのことなの」


アテリア女王の紫水晶の瞳には、深い知性の光が宿っていた。


「フィロソフィアは理性を重んじるあまり、時に冷たく感じることがあるでしょ。私の国ヘルメニカは、理性と感情のバランスを大切にしているの」


俺は深く頷いた。アテリア女王の言葉には共感できる部分が多かった。理性だけでなく、感情も大切にする。極端から離れ、バランスを取る。それは俺が生まれ育った世界の価値観にも近いものを感じた。


「『中庸』の道は、実は最も歩みにくい道でもあるわ。極端に走るほうが簡単だから。でも、長い目で見れば、それが最も健全な生き方なのよ」


「共感します。極端な考え方はわかりやすいけど、バランスを取るほうが長続きしますよね」


二人の会話は驚くほどスムーズに続いていた。


「あなたの国は、どちらかといえば、この国に近いのかしら。そんな感じがするわ」


アテリア女王の直感的な言葉に、俺は少し驚いた。


「確かにそうですね。ただ、中庸というより、何でもあり、という気がしますけど」


俺は思わず本音を口にした後、慌てて口を押さえた。しかし、アテリア女王は心から楽しそうに笑った。


「正直で良いわ。姉上のところでは、そんな風に話せないでしょう?」


「いえ、テオリア女王もとても寛容な方ですが…」


「でも、やはり少し緊張するでしょう?」


「…はい」


「私たち姉妹は、似ているようで全然違うの。姉は理想を追い求めるタイプ。私は現実の中でバランスを取るタイプ。でも、どちらも国を良くしたいという思いは同じよ」


すっかり打ち解けた様子のアテリア女王は立ち上がり、俺の方へ手を差し伸べた。


「少し散歩をしましょう」


俺は促されるままに女王の後に続いた。王宮の中庭に出ると、フィロソフィアの王宮の何倍も広い庭園が広がっていた。芝生が広がる中を、屋根が付いた石畳の道が続いている。花々の色彩が目を楽しませ、小鳥のさえずりが耳に心地よく響く。


「歩きながら話すと良い考えが思い浮かぶの」


アテリア女王は優雅に歩きながら言った。


「アテリア女王は、どのような国を理想としているんですか?」


「完璧な国なんて存在しないわ。でも、できるだけ多くの人が幸せに暮らせる国がいいわね」


アテリア女王は少し歩調を緩め、芝生のほうに向かって小さく手を振った。そこには乳母と幼い子供たちが遊んでいた。


「ある国家では、権力は少数の裕福な人々の手に握られている。また別の国家では、貧しい多数者が権力を持つ。どちらも極端であり、良い国家とは言えないの」


女王は鳥が水浴びをする小さな池のそばを通りながら続けた。


「理想的な国家『ポリテイア』とは、中間層——つまり、極端に裕福でも貧しくもない人々が多数を占める国なの。中間層は、極端な富や貧困から生まれる嫉妬や虚栄心、傲慢さから最も遠い位置にある。彼らは理性に基づいて判断できる人々なのよ」


「なるほど」


俺は頷いた。


「確かに、極端な貧富の差は社会の分断を生みますね」


「そう、分断は国を弱くする。中間層が厚い社会は、対立が少なく、安定している。それが『ポリテイア』の基本的な考え方よ」


アテリア女王は花々が咲き誇る小道へと足を向けた。


「具体的には、『ポリテイア』は三つの要素がバランスよく混ざり合った政体を指すの。富裕層の知恵と経験を生かす貴族政的要素、多数の市民の声を反映する民主政的要素、そして国家の方向性を示す君主政的要素。どれか一つが強すぎると歪みが生じるわ」


「貴族政や君主政も必要なんですね」


「全員が政治に精通しているわけではないわ。専門的な知識を持つ人々の知恵は必要。でも、彼らだけに任せると一部の利益だけを優先しかねない。だから、市民の声を聞く民主的な仕組みも大切。それらをまとめる統一的なビジョンを持つ存在も必要。これらのバランスこそが『ポリテイア』の神髄なの」


女王は庭園の中央にある噴水のそばで立ち止まった。水が美しいアーチを描いて落ちている。


「テル、水を見てください。水は形がないけれど、どんな器にも適応する。硬すぎず、柔らかすぎない。それでいて、長い時間をかければ岩をも削る強さを持つ。政治もこの水のようであるべきよ。状況に適応し、しなやかでありながらも、長期的には強い意志を持って進むべき方向に進む。それが『ポリテイア』の目指す姿なの」


俺は水の動きに見入りながら、女王の言葉を噛みしめた。そして、ある質問をしてみた。


「民主主義、はどうでしょう?」


アテリア女王は少し考えるように歩調を緩めた。


「民主政は素晴らしい理想よ。でも、単なる多数決では、時に衆愚政治になることもある。感情に流されやすい大衆が、長期的な視点を失うこともあるわ。だから私は『混合政体』としての『ポリテイア』が良いと思うの」


「『中庸』の考え方ですね」


「そうよ。極端な民主政は、群衆の感情に流され、目先の利益だけを追求しがちになる。一方、極端な貴族政や君主政は、一部の人々の利益だけを優先する。中間の道こそが最も難しいけれど、最も優れた道なの」


テオリア女王に続いて、アテリア女王も民主主義に批判的であることに、俺は少し考え込んだ。彼女たちの言うことには確かに一理ある。しかし、俺はずっと民主主義は人類の最善で最終的な政治体制だと信じ込んでいたのだから。


「あなたに見せたい場所があるわ」


アテリア女王の声に、俺は思考から引き戻された。


彼女について行くと、王宮の別の翼に到着した。大きな扉が開かれると、そこには巨大な図書館が広がっていた。床から天井まで本が並び、階段や梯子が壁に沿って設置されている。読書スペースには柔らかそうな椅子が置かれ、天窓から差し込む光が全体を明るく照らしていた。


「すごい…」


俺は思わず息を呑んだ。


「本は知識の宝庫よ。私たちの魂の糧。理性と感情、両方を育てるための最高の栄養なの」


アテリア女王は愛情を込めて本棚に触れた。


俺は頷きながら、図書館の素晴らしさに見とれていた。


「こんな場所があったら、みんな喜ぶだろうな」


生徒会のメンバーを思い浮かべながら思わず呟く。ルーシーは本の海で幸せそうに迷子になり、ミルは科学の本を山のように積み上げ、ジーナは哲学書に没頭し、エマは教育に関する本を熱心に読む姿が目に浮かんだ。


アテリア女王はそんな俺の表情を見て、優しく微笑んだ。


「好きな本を持って帰っていいわよ」


「えっ、本当ですか?」


「ただし、いつか返しに来てね。お友達も連れて」


女王はそう言って、少しいたずらっぽく笑った。


「ありがとうございます!」


俺は大きく頭を下げた。この図書館で過ごす時間は、短い滞在の中でも特別なものになりそうだった。


アテリア女王との会話、王宮の美しさ、そして膨大な知識の詰まった図書館。俺はヘルメニカという国の魅力に、少しずつ引き込まれていくのを感じていた。そして、テオリアとアテリア、二人の女王の違いを通して、国家のあり方についても新たな視点を得た気がした。


明日、午前中はアンナに会って街を案内してもらおう。そしていつか、エマたちもこの素晴らしい図書館に連れてきたい—そう心に決めた。


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