第49話:エマと「子どもたち」
クロイツベルクの川沿いにある貧民街の古びた石造りの民家。かつては廃墟同然だったこの空間も、みんなの手で掃除され、今では小さな教室として生まれ変わっていた。窓からは夕暮れの柔らかな光が差し込み、室内を温かなオレンジ色に染めている。埃っぽさは残るものの、隅々まで磨かれた床は子どもたちの足跡で活気づいていた。
「さあ、今日はここまでです。みなさん、よく頑張りましたね」
エマの凛とした声が小さな教室に響いた。彼女は背筋をピンと伸ばしたまま、小さな椅子に座った子どもたちに向かって微笑みかけた。青い瞳には優しい光が宿り、三つ編みにした銀色の髪が夕陽を受けて輝いていた。白いブラウスの襟元には、いつもの青いリボンがきちんと結ばれている。
「先生、また来てくれるの?」
前列に座る小さな女の子が恥ずかしそうに尋ねた。髪は少し汚れ、服は何度も繕われた跡があるが、その目は知識への渇望で星のように輝いていた。
「もちろんです。木曜日にまた来ますね」
エマは優しく答え、白い手で丁寧に教科書を集め始めた。しかし、その青い瞳の奥には何か寂しげな影が宿っていた。子どもたちが一人、また一人と教室を去っていく。初日には20人以上いた子どもたちが、今日は6人しか来なかったのだ。
最後の子どもが元気よく「先生、またね!」と言って出ていくと、部屋には俺とエマだけが残された。エマは黙って机を片付け始めた。彼女の肩が微かに落ち、普段の凛とした佇まいが少し崩れているのが見て取れた。
「エマ、大丈夫?」
俺が声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。銀色の髪が肩で揺れ、青い瞳には諦めに似た感情が浮かんでいた。普段はきびきびと動く彼女が、今日はどこか力が抜けたようだった。
「わからないんです...」
エマの声は小さく、消え入りそうだった。彼女が薄い桜色の唇を噛むと、その表情はより一層弱々しく見えた。普段の理性的な雰囲気が消え、今はただ悩める少女でしかなかった。
「私の教え方に問題があるのでしょうか。もっとわかりやすく教えていれば…」
「いや、エマの教え方はすごくわかりやすいよ。子どもたちも楽しそうだったし。なぜ、みんな来なくなったんだろう...」
エマは窓際まで歩み、外の貧民街の景色を見つめた。夕日に照らされた彼女の横顔には儚さと悲しみが浮かぶ。
「答えは簡単よ」
突然、ドアが開く音がした。振り返ると、カーラが立っていた。彼女の長い赤い髪は左右に分けて三つ編みにされ、茶色の瞳には鋭い光が宿っていた。
「勉強するよりも働いた方がお金が手に入るからよ」
カーラは部屋に入ってきて、すたすたと二人に近づいた。彼女の足取りは軽やかだが、その表情には深刻さが浮かんでいた。ブーツのかかとが床を打つ音が、静かな部屋に鋭く響く。
「子どもたち自身は勉強したいの。でもそれを親が許さない。将来のことよりも、今日働いて、お金を持ってきて欲しいのよ」
カーラの言葉に、エマの表情が曇った。
「親は子どもに勉強させず、働かせるの?それって...」
「間違っているかしら?」
部屋の隅から静かな声が響いた。小ジャンヌだった。セミロングの黒髪が華奢な肩に落ち、黒縁の眼鏡の奥の薄茶色の瞳は、いつものように鋭い。彼女の白すぎる肌は夕暮れの光を受けて、ほんのりと桃色に染まっていた。
「貧しさの中では、明日の食べ物を確保することが最優先よ。子どもが学校に行っている間、その家族は貴重な働き手を失っているの」
小ジャンヌの言葉は冷静だったが、細い指で眼鏡を直す仕草には、どこかためらいが感じられた。
「でも、読み書きができなければ、子どもたちの未来は...」
エマが反論しようとしたが、言葉が途中で途切れた。銀色の髪が彼女の表情を隠すように揺れる。
「どうすればいいんでしょうか」
エマの声は小さく、無力感が滲んでいた。みんな黙り込み、夕陽だけが静かに部屋を赤く染めていく。
俺は考えを巡らせた。学校...正直、勉強が面白かった記憶はない。何が楽しかったか...体育と...給食だ!
「給食...いや、パンを授業の後に配れば良いんじゃないか」
俺の言葉に、みんなが顔を上げた。エマの顔が僅かに明るくなる。
「その方が楽しいし...」
そう言った俺の言葉を、カーラは興奮した様子で遮った。
「それは素晴らしいアイデアよ!」
カーラは両手を広げて言った。彼女の赤い三つ編みが弾むように揺れ、茶色の瞳には情熱の火が灯っていた。
「授業に出ることを条件にパンを配るの。そうすれば、親たちも子どもが授業に出ることを許すはずよ。授業を受けることで、家に食べ物を持ち帰れるなら、それは立派な『仕事』になるわ」
俺は正直、そこまでは考えていなかった。
「確かにそうね」
エマの表情が明るくなった。
「人は空腹の中では本当の自分になれないもの。まず体の飢えを満たして初めて、心の飢えにも目を向けられる...それが教育の始まりだから」
そう言って小ジャンヌも小さく微笑んだ。彼女の細いフレームの眼鏡が光を反射して輝き、普段は無表情に近い彼女の顔に珍しく柔らかさが宿った。
「では、次の授業から試してみましょう」
エマは決意を新たにした様子で言った。彼女の銀色の髪が夕陽を受けて輝き、青い瞳には再び希望の光が戻っていた。白いブラウスの胸元のリボンをきちんと整え、その姿はまるで立ち上がったばかりの女神のように凛としていた。
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夜が更けたころ。二人の部屋で、俺とエマは静かに時を過ごしていた。窓から月明かりが射し込み、部屋を青白く照らしている。カーテンが風に揺れ、月光が床の上で踊るように動いていた。
「今日は本当にありがとう」
エマが突然言った。彼女は窓際に立ち、月光に照らされた街並みを眺めていた。銀色の髪が月の光を受けて輝き、白いナイトドレスは彼女の姿をより一層幻想的に見せていた。レースの縁取りがある襟元が、彼女の白い首筋をより一層引き立てている。
「何が?」
俺は少し驚いて尋ねた。ベッドに腰掛けながら、エマの月明かりに照らされた姿を見つめていた。
「授業の後にパンを配るアイデア、素晴らしいと思う」
エマは振り返り、優しく微笑んだ。
「いや、それは...たいしたことじゃないよ」
「テル...」
エマは少し戸惑うように、言葉を選びながら続けた。長いまつげの下から覗く青い瞳には、心配の色が浮かんでいた。彼女が髪を耳にかける仕草には、話しかけるのをためらう気持ちが表れていた。
「最近、何かずっと考えているようね。私で良ければ相談してください。私もあなたの役に立ちたいの」
エマの言葉に、俺は思わず顔を上げた。その素直な眼差しに、胸の奥が熱くなるのを感じる。
確かに、俺は最近、雷の剣の有効範囲を大きくする方法について考え続けていた。水だけでは足りない。何か、電線のようなものがあればいいのか?しかし、この世界に電線などあるのだろうか。
「実は...」
俺は少しためらった後、思い切って相談することにした。この問題は俺一人では解決できないかもしれない。
「この世界...いやこの国に、金属の細い線のようなものはあるのかな」
「あるわよ」
エマはあっさりと答えた。彼女の声には少し不思議そうな響きがあった。
「えっ、あるの?」
俺は驚いて聞き返した。エマは小さく笑うと、自分の席から立ち上がり、俺の近くまで来た。彼女のナイトドレスがその動きに合わせて柔らかく揺れる。
「ほら、そこに」
エマは俺の腰に下げられた剣帯を指さした。
「その剣帯、装飾が施してあるでしょう?それは、父が銅の細い線を加工して造ったものよ」
俺は剣帯を見つめた。確かに、細かい模様は金属の糸のようなものを折り曲げて作られているのが分かる。今まで気づかなかった。
「じゃあ、その銅の線を繋いで、とても長くすることもできるんだ」
俺の声には期待が込められていた。これが解決策になるかもしれない!
「できると思うわ、それが何に使えるのか分からないけど」
エマは少し首を傾げながら言った。青い瞳には好奇心の色が浮かんでいる。
「雷の剣の力を広げたかったんだ。ほら、この前、湖で見ただろう?あの力を、もっと遠くまで伝えたかった」
俺が説明すると、エマは笑った。彼女の笑顔は月明かりの中で春の花のように明るく、青い瞳が星のように輝いていた。
「銅の線があれば、それができるのね」
「その通り。ありがとう!エマ、本当に助かった!」
思わず俺はエマの手を取った。その瞬間、彼女の頬が薔薇色に染まり、青い瞳が驚きで少し大きくなった。月明かりに照らされた彼女の表情は、普段以上に愛らしく見えた。手のひらに伝わる彼女の体温が、心地よく感じられる。
「あなたの役に立てたのなら嬉しいです」
エマは少し恥ずかしそうに言った。窓からの月明かりが二人を静かに照らし、部屋には穏やかな空気が流れていた。
俺の頭の中では、銅線を使って雷の剣の力を広げる可能性についての考えが膨らんでいた。この小さな発見が、フィロソフィアの未来を変えるかもしれない。エマとの会話が、その重要な一歩になったことに、深い感謝の気持ちが湧いた。
「あの…」
エマのためらいがちな声に心が引き戻された。彼女の頬はさらに薔薇色を増し、長いまつげが下がって視線を落としていた。
「どうしたの?」
「手を…」
エマの視線が俺たちの握り合った手に向けられていることに、ようやく気づいた。
「ごめん」
俺は手を離した。しかし、エマの手を握っていることを忘れて考え事をしてしまうなんて、この世界に転生したばかりの俺からは想像できない。いつの間に、俺もこの国の人々のように、考えることに慣れてきたのかもしれない。




