第47話:エマと「貧民街」
夜の静けさが、エマと俺の部屋に満ちていた。窓からは月明かりが差し込み、シルバーブルーの光が部屋を優しく包み込んでいる。机の上のランプが柔らかな光を放ち、壁に影を作り出していた。
ベッドの端に腰掛けた俺は、今日の王宮での出来事をエマに話していた。彼女は真剣な表情で聞き入り、時折頷きながら俺の言葉を受け止めていた。
「つまり、ルーシーの懸念は的を射ていたんだ」
俺はエミールの剣をそっと膝に置きながら言った。少し重い空気が二人の間を漂っていた。
「今回、ローレンティアを共同管理する条約は成立したけど、マキャベリアの一部には不満を持つ勢力もいる。将来的に軍事的な侵攻を誘発する可能性もゼロではないらしい」
エマの青い瞳に心配の色が広がる。彼女は銀色の髪を耳にかけると、少し俯いた。
「それなのに、私たちは条約成立に浮かれて、ルーシーの懸念を真剣に受け止めなかった…」
彼女の声には後悔の色が滲んでいた。
「いや、それはみんなそうだったよ。俺も含めて」
俺はエマを励ますように微笑んだ。そして、少し重くなった空気を変えようと、新しい話題を持ち出した。
「そういえば、この前、貧民街で小ジャンヌとカーラを見かけたんだけど」
「カーラ?」
エマの表情が疑問に変わる。青い瞳に好奇心の光が宿った。
「ああ、そういえば紹介してなかったね。小ジャンヌと協力して、貧民街を支援している子だよ」
「あの小ジャンヌがですか?」
エマは驚きを隠せない様子だった。彼女の中では、小ジャンヌはいつも存在の本質を見つめる、孤独で哲学的な少女という印象が強かったのだろう。
「意外だよね。でも、彼女は実は結構、行動派なんだ」
俺は窓から見える月明かりの下の景色を見つめながら言った。
「彼女たちは貧民街で何をしていたのですか?」
エマが身を乗り出して尋ねる。
「子どもたちにパンを配って、話を聞いていた。小ジャンヌは、物静かだけど、子どもたちには優しいんだ。カーラは明るくて活発で、子どもたちに人気があるよ」
それを聞いて、エマは静かに考え込むように窓の外を見つめた。
「私にも何か出来ると良いのですが」
彼女の声は小さかったが、その中には強い意志が感じられた。伏し目がちな瞳に決意の色が宿っている。
俺はふと思いついて、勢いよく立ち上がった。
「そうだ! エマに出来ることがあるよ」
「え?」
エマが驚いて振り返る。彼女の青い瞳に疑問の色が浮かんだ。
「貧民街で、子どもたちに読み書きを教えてみないか?エマは教師になりたいって言ってただろう」
その言葉に、エマの表情が明るく変わった。しかし、すぐに不安の色が浮かぶ。彼女は指先で銀色の髪先をいじりながら、迷うように言った。
「確かにそうは言いましたが…私に出来るでしょうか?」
「出来るさ」
俺は確信を持って言った。
「エマは賢いし、教え方も上手いだろう。何より、その子たちには教育が必要なんだ」
エマの瞳に光が戻ってきた。彼女はゆっくりと立ち上がり、決意に満ちた表情で頷いた。その姿勢には迷いがなかった。
「わかりました。小ジャンヌたちに提案してみます」
翌日の放課後。
王立学院の門を出た俺とエマは、川沿いの貧民街へと向かっていた。エマは少し緊張した様子で、時折背後を振り返っていた。彼女の銀色の髪は、今日も一本の三つ編みにまとめられ、背中で揺れている。
「大丈夫?」
俺が心配そうに尋ねると、エマは小さく頷いた。彼女の青い瞳には不安と期待が混ざり合っていた。
「少し雰囲気が…怖いかもしれません」
貧民街に近づくにつれ、建物はどんどん古くなり、道も狭くなっていく。人々の表情も厳しくなり、空気が少しずつ変わっていくのが感じられた。
「大丈夫だよ。怖いと思うのは、単に良く知らないからだよ。俺がついているし、小ジャンヌもカーラもいる。子どもたちも優しいよ」
俺の言葉に、エマはわずかに安心したように息を吐いた。彼女は鞄を強く握りしめ、前を向いて歩き続けた。その姿には、いつもの王立学院の副会長としての凛とした雰囲気が戻ってきていた。
しばらく歩くと、小さな広場に出た。そこには小ジャンヌとカーラが、何人かの子どもたちに囲まれてパンを配っていた。小ジャンヌはいつものように黒縁の眼鏡をかけ、セミロングの黒髪を揺らしながら、静かに子どもたちに話しかけている。カーラは明るい茶色の髪を左右に分けて、元気よく笑いながら子どもたちと戯れていた。
「ジャンヌ! カーラ!」
俺が手を振ると、二人は顔を上げた。カーラは大きく手を振り返し、小ジャンヌは小さく頷いた。
「テル! 来てくれたんだ!」
カーラの声は明るく、広場全体に響き渡った。彼女は人なつっこい笑顔で近づいてきた。その笑顔には、どんな相手でも自然と心を開かせるような力があった。
「あなたは…副会長の?」
カーラはエマに興味深そうに目を向けた。
「エマンエラ・カンテと申します」
エマは背筋を伸ばして丁寧に答えた。その姿勢には王立学院らしい品位が漂っていた。
「エマを連れてきたんだ。彼女は将来教師になりたいと思っている。子どもたちに読み書きを教えたいって」
俺は二人の間を取り持つように説明した。
「それは素晴らしいわ!」
カーラは目を輝かせて言った。彼女は迷わずエマの手を取り、その場の空気がすぐに和んだ。
小ジャンヌもそっと近づいてきた。彼女の薄茶色の瞳はいつもより明るく見えた。
「読み書きを教えるのですか?」
小ジャンヌの声は静かだったが、その中に小さな期待が混じっていた。
「はい。もし、皆さんがよろしければ」
エマは真剣な表情で答えた。その青い瞳には強い決意が宿っていた。
「すばらしいことです。教育は、子どもたちが、自分で自分の人生を切り開くために必要不可欠です」
小ジャンヌはそう言って、珍しく微笑んだ。
「今日は、パンを配り終わってから、この先に空き家があるから見てみましょう。教室として使えるかもしれません」
小ジャンヌが提案した。彼女の声には普段聞かれない積極性があった。
エマは子どもたちに近づき、ゆっくりと話しかけ始めた。最初は緊張していたが、徐々に自然な笑顔が浮かんできた。子どもたちは最初こそ警戒していたが、エマの優しい問いかけに次第に心を開いていく。
「お名前は?」
「クルト…です」
小さな男の子が恥ずかしそうに答えた。
「クルトくん、本は読めますか?」
「わかんない」
「そう。では、本を読めるようになりたいかしら?」
「うん!」
子どもの瞳が希望に輝いた。エマの表情も柔らかくなっていく。
俺はその様子を少し離れたところから見ていた。エマの子どもたちへの接し方が意外なほど自然で優しかったことに、俺は驚いていた。
パンを配り終えた後、一行は小ジャンヌが言っていた空き家へと向かった。それは小さな石造りの家で、窓ガラスは割れていたが、屋根はしっかりしていて雨風をしのげそうだった。内部は埃だらけだったが、掃除すれば十分に使えそうだった。
「ここなら大丈夫そうですね」
エマは満足そうに言った。彼女の瞳には新しい挑戦への期待が宿っていた。
「掃除と簡単な修理が必要ですが、教室として使えるでしょう」
小ジャンヌがそう言って、窓の外を見つめた。夕日が彼女の横顔を優しく照らし、いつもより穏やかな表情に見えた。
「私たちが手伝うわ!」
カーラが元気よく言った。彼女の明るい笑顔が部屋の空気を温かくしていた。
その日は教室の下見を終え、夕闇が深まり始めた頃に引き上げることになった。帰り道、俺とエマは並んで歩いていた。エマの表情は明るく、達成感に満ちていた。
「子どもの扱いが上手くて驚いたよ」
俺が言うと、エマは少し照れたように微笑んだ。
「だって、3人も妹が居るんですよ」
「ああ、確かにそうだね」
俺は、エマが実家で見せた妹たちとの写真を思い出した。その写真の中のエマは、今日見せたような優しい笑顔をしていた。
「貧民街の子どもたちは決して頭が悪いわけではなりません。ただ、知識を得る機会がないだけです」
エマの声には強い信念が込められていた。彼女の青い瞳には、教師としての情熱が光っていた。
「私、頑張ります。子どもたちに読み書きを教えて、将来の選択肢を増やしてあげたいです」
その言葉に、俺は胸が温かくなるのを感じた。俺はエマの決意に満ちた横顔を見つめ、こんな風に人のために行動するエマを誇らしく思った。
「俺も出来る限り手伝うよ」
「ありがとうございます」
二人は静かに夕暮れの道を歩き続けた。エマの銀色の髪と、俺の腰に下げられたエミールの剣が、夕日を受けて静かに輝いていた。
貧民街での新しい挑戦。それは彼らにとって、また新たな成長の一歩となるだろう。俺はそう思いながら、エマの横顔を見つめた。その表情には、今までにない確かな自信が浮かんでいた。




