第40話:アンナと「柔らかい耳たぶ」
夏の余韻が残る9月の午後、王立学院の生徒会室は心地よい静けさに包まれていた。窓から差し込む陽光が床に長い影を落とし、時折風がカーテンを揺らしていた。
俺は机に向かって、今日の巡回の報告書を書き終え、大きく伸びをした。新学期が始まって間もなく、体はまだ合同訓練の疲労感から完全に抜け出せていない。エミールの剣は床に立てかけ、革の胸当てもほどいて、椅子に腰かけていた。
「ふぅ...」
深いため息をつきながら、窓の外を眺める。中庭では制服姿の生徒たちが行き交い、木々の葉がそよ風に揺れていた。
突然、ドアが勢いよく開いた。
「こんにちは!テル、ここにいたの?」
振り返ると、金褐色の髪を揺らしながら、アンナが入ってきた。彼女は今学期から正式に王立学院の生徒となり、鮮やかな赤青の花の刺繍が施された制服姿が眩しい。健康的な小麦色の肌が、この国の白い肌の少女たちとは違う活力を感じさせる。
「ここ、部外者が入ってもいいのかな」
俺が半分冗談で言うと、アンナは鼻を鳴らして笑った。その笑顔は太陽のように明るく、部屋全体が温かくなったような気がした。
「テルも生徒会の人じゃないと思うけど。あと、私、未来の生徒会長かもしれないし」
そう言って、彼女は当然のように俺の隣の椅子に腰掛けた。その仕草には何の迷いもなく、まるでいつもの場所に座るかのような自然さがあった。スカートの裾がふわりと広がる。
アンナが俺の方をじっと見つめてくる。緑色の瞳が好奇心に満ちて輝いていた。慣れない距離の近さに、鼓動が速くなる。
「何かついてる?」
「んー、気になることがあるの」
彼女はおもむろに身を乗り出すと、突然、俺の耳たぶに指を伸ばしてきた。
「ひゃっ!」
思わず声が出る。冷たく細い指先が、耳たぶに触れた。
「やっぱり!」
アンナの表情が一瞬で明るく輝く。彼女は満足げな笑みを浮かべながら、俺の耳たぶをこねくり回し始めた。
「何がやっぱりなんだよ。人の耳たぶで遊んで」
俺は少し怒った素振りを見せたが、アンナは止める気配がない。彼女の指先が耳たぶを優しくつまむたび、変な感覚が背筋を走る。
「私が想像した通りだった! テルの耳たぶ、無茶苦茶柔らかくて気持ちいい」
彼女の瞳は子供のようにキラキラと輝いていた。まるで新しいおもちゃを見つけた幼児のように、耳たぶを触り続ける。
「はいはい、もういいだろ。料金取るぞ」
俺がため息をついたその時、生徒会室のドアが再び開いた。栗色の髪を揺らしながら、ミルが入ってきた。小柄な体に大きな本を抱え、胸元の四つ葉のクローバーのブローチが光を受けて鮮やかに輝いていた。
「あ、テル。中庭のベンチに誰かのハンカチ…」
彼女の言葉は途中で止まった。アンナが俺の耳たぶをもてあそんでいる光景に、彼女の青灰色の瞳が大きく見開かれた。抱えていた本がわずかに傾いた。
「何をしてるの?」
「さわってみなよ、テルの耳たぶ。信じられないくらい柔らかくて気持ちいいから!」
アンナは興奮した様子で手招きした。
「そ、そんなことできません!」
ミルは真っ赤になって首を振ったが、アンナは諦めなかった。彼女は椅子から立ち上がり、ミルに近づいた。
「ちょっとだけでいいから!こんな素晴らしいもの、私だけが触るの不公平でしょ?」
「不公平...?」
その言葉にミルが反応する。彼女の小さな手が本を机の上に置き、おずおずと前に進み出た。栗色の前髪が揺れ、青灰色の瞳が好奇心と戸惑いの間で揺れ動いている。
「ほら、これ!」
アンナが俺の耳たぶを指し示す。内心では冷や汗をかいていた。この状況が誰かに見られたら...
ミルの小さな指先が、そっと俺の耳たぶに触れた。その接触に、思わず肩がビクッとする。
「...これは、科学的に興味深いわ。通常、耳たぶの柔らかさはある程度の範囲内に収まるはずなのに」
彼女は真剣な表情で耳たぶを調べていた。小さな指先が丁寧に触れる感覚がこそばゆい。
そこへ、またドアが開く。深紅のリボンをきちんと整えたルーシーが入ってきた。漆黒の長い髪がサラリと揺れ、完璧な姿勢で生徒会室に足を踏み入れる。
「テル、明日の巡回ルートについて提案が…」
彼女の言葉が途切れる。紺碧の瞳が室内を一瞥すると、艶やかな黒髪が驚きの動きと共に揺れた。
「あなたがたは、ここで何をしているのですか?」
ルーシーの紺碧の瞳に驚きが浮かぶ。
「ルーシー、触ってみて」
ミルが小さな声で言った。彼女の青灰色の瞳はまだ驚きに満ちていた。
「テルの耳たぶが科学的に特異な柔らかさを持っているの」
「そのような行為は、相手の人格を尊重するものではありません」
ルーシーは一歩後ろに下がった。深紅のリボンが胸元で揺れる。
「難しいこと言わないの。この触感は言葉で表現できないわ」
アンナが軽やかに言い返す。
ルーシーは迷いの表情を浮かべた。漆黒の前髪が顔を隠すように揺れる。彼女の細い指が無意識にリボンを整える。
「言葉で表現できないもの…」
彼女は少し考え込むように言うと、意を決したように近づいてきた。漆黒の髪が肩で揺れ、紺碧の瞳が観察の光を宿している。
「短時間の接触であれば、失礼にあたる可能性は低いと判断します」
ルーシーの細い指が俺の耳たぶに触れる。彼女の指先は冷たく、しかし不思議と心地よかった。変な声が出そうなのを必死で抑える。
「なるほど...確かに通常の皮膚の弾力性の範囲を超えています。構造的に特殊なのでしょうか」
彼女の声には冷静な分析が込められていた。
さらにドアが開く。銀灰色のショートカットの少女が入ってきた。生徒会長のジーナだ。彼女の姿はいつも通り凛としていて、コバルトブルーのマントが彼女の動きに合わせて優雅に揺れていた。
「みなさん、何をしているの?」
彼女の鋭い青緑色の瞳が場の状況を一瞬で把握した。長い睫毛が上がり、その視線には知的な好奇心が光っている。
「生徒会長」
ルーシーが姿勢を正して言った。彼女の背筋がさらに伸び、漆黒の髪がその動きに合わせて揺れる。
「テルの耳たぶには、通常では考えられない柔軟性があります。この感覚は『言語では語り得ないもの』です」
ジーナはしばらく考え込んでいたが、やがて近づいてきた。
彼女の長い指先がそっと俺の耳に触れる。もう、ここまで来ると好きにしてくれ、という感じになってくる。
「確かに...不思議な感触。これは対立するものが統合された、高次の存在の例と言えるかもしれない。液体の柔らかさと固体の強靭さが共存している...」
彼女の青緑色の瞳が深い思考に沈み、銀灰色の髪が光を受けて神秘的に輝いている。
「でしょ! 不思議でしょ?」
アンナが楽しそうに笑う。緑の瞳が太陽の光のように明るく輝いていた。
そして最後に、エマが入ってきた。彼女の制服は完璧に整えられている。
部屋を見渡すと、彼女の表情が一瞬で固まる。
「テル...?みなさん...?何をしているんですか?」
エマの声には動揺が混じっていた。銀色の髪が肩で揺れ、白い頬に薄紅が差している。
「エマ、ちょっと来てみて」
ジーナが冷静に言った。
「テルの耳たぶに触れてみるべきだよ。これは単なる好奇心ではなく、知識の探求だ」
エマは俺の顔をじっと見つめると、顔を赤らめて首を振った。銀色の髪が揺れ、青い瞳に迷いの色が浮かぶ。
「人の体にみだりに触ることはできません。そんなことをみんながすれば、社会が成り立ちません」
彼女は「定言命法」を持ち出した。まっすぐ立ち、右手を胸に当て、凛とした表情で断固として拒否の姿勢を示す。
しかし、その青い瞳には明らかな好奇心が潜んでいた。エマの視線の先には俺の耳たぶがあり、何度も指先を握ったり開いたりしている。
「エマ、凄く気持ちいいよ」
アンナが言うと、エマの白い肌が薔薇のように染まり、青い瞳に葛藤の色が深まる。
「そ...そういう問題ではありません。人の体に自由に触れることが許されれば、どんな社会になるでしょうか。確固たる理由もなく…」
エマの言葉は強く、決然としていたが、その声は微かに揺れていた。
「そうかな。うちの国では、結構みんな人の体に気軽に触るけど」
アンナが反論する。
「人間の尊厳を何よりも重んじなければ、たとえ知識の追求であっても、意味をなさないのです」
そう言って、エマは一歩下がった。青い瞳は真剣さを増し、長いまつげが下がっている。
「そうだね」
ジーナが穏やかに言った。
「エマの信念も尊重すべきだ。彼女の理性的判断を無理に曲げさせようとするのは、我々の理念に反する」
室内には静けさが広がる。全員の視線が、エマと俺の間を行き来していた。
その時だった。
「大ジャンヌだ!」
ミルの声に全員が慌てて俺から離れる。ミルは窓の外を眺め、栗色の髪が慌しく揺れる。ルーシーは姿勢を正して立ち、漆黒の髪をさっと整えた。ジーナは腕を組んで考え込むポーズをとる。
アンナだけが相変わらず俺の隣に座っていた。金褐色の髪が無邪気に揺れる。
エマは本棚の前に立ち、真剣に本の背表紙を眺めている。
大ジャンヌが入ってきて、一同の様子を見渡す。
「みんな、何かあった?」
「なにもありません!」
アンナ以外の全員が声を揃える。アンナは楽しそうに笑っている。
「そう...」
大ジャンヌは不思議そうな表情を浮かべた後、俺に向かって言った。
「テル、明日、マキャベリアとの交渉についての話が王宮であるんだけど、ちょっと打ち合わせをしたいんだ」
「わかりました」
俺は立ち上がった。耳たぶに残る少女たちの指の感触を感じながら、俺は大ジャンヌについて部屋を出た。
「エマ!なんで触らないの!もったいないよ!」
「アンナこそ、どうして理由もなくテルの耳たぶを触るのですか」
ドアの向こう側から、言い争う二人の声が廊下まで聞こえていた。




