第39話:テルと「新しい任務」
朝の光が王立学院の大理石の廊下を柔らかく照らす。エマと別れた後、その光に誘われるように俺は校長室へと向かっていた。エミールの剣が腰で心地よく揺れる感触に、昨日の合同訓練の記憶が鮮やかに蘇る。
校長室の扉の前で、俺は深く息を吸い込み、軽く扉をノックした。
「どうぞ」
大ジャンヌの朗らかな声が中から聞こえ、俺は静かに扉を開けた。
校長室の窓からは朝の透き通るような光が差し込み、部屋全体を明るく包み込んでいる。大ジャンヌは机に向かって書類に目を通していたが、俺の姿を見ると顔を上げ、茶色の髪を肩で優雅に揺らしながら温かな笑顔を見せた。いつもと違って、カジュアルな服装ではなく、きちんとした紺色の上着を着ており、その襟元には小さな金の飾りピンが光っていた。
「テル、おかえり。無事で何よりだったね」
その声には心からの安堵と喜びが滲んでいた。
「昨日の合同訓練について、報告に来ました」
「ありがとう。座って話してくれるかな」
大ジャンヌは柔らかな手振りで椅子を示した。
俺は促された椅子に腰掛け、昨日の出来事を一から話し始めた。合同訓練の様子、マキャベリアの兵士たちの荒々しさと圧倒的な力強さ、そして副長との戦いと騎士団長との緊張に満ちた一戦について。
「マキャベリア騎士団の副長は体格は立派でしたが、剣さえ構えませんでした。おそらく、こちらを見くびっていたのでしょう」
大ジャンヌは身を乗り出すようにして、小さく頷きながら真剣に聞いていた。茶色の瞳には俺の姿が映り込んでいる。
「騎士団長との戦いは、難しかったです。彼にはこちらに対する敬意があり、油断はありませんでした。幸運だったのは、想定通り彼が俺の左胸を突いてきたことです。練習通りに、剣を払って『雷の剣』の力を発動させることができました」
報告を終えると、大ジャンヌはしばらくじっと俺を見つめ、ゆっくりと口を開いた。その唇には誇らしげな微笑みが浮かんでいた。
「テル、君の成長には目を見張るものがある。日頃の練習の成果だね」
俺は少し照れながら、思わず頭を掻いた。
「いや、ほとんど運ですよ」
「謙遜する必要はないよ」
大ジャンヌは静かに立ち上がり、窓際まで歩いた。朝の光を受けたその背中は凛として、自信に満ちあふれていた。上着のシルエットが彼女の堂々とした姿勢をより一層引き立てている。
「努力こそ最も重要なものだ。どれだけ天才と呼ばれる人でも、努力なしに成功した人はいない。君は短期間で剣の扱いを学び、あのようなプレッシャーの中で完璧に実行した。それは紛れもなく君の成長の証だよ」
窓から差し込む朝の光が大ジャンヌのシルエットを美しく浮かび上がらせる。
「エミールも喜んでいるだろうな」
その言葉に、俺は思わず腰の剣に手をやった。エミールの剣。宗教戦争で命を落とした大ジャンヌの弟の形見だ。磨き上げられた鞘の感触が手に伝わってくる。
「エマから少し聞きました。エミールさんはどんな方だったんですか?」
大ジャンヌは窓際から少し離れ、懐かしむような柔らかな表情を浮かべた。茶色の瞳に遠い記憶の光が宿り、かすかな悲しみが浮かんでいる。
「私にとってはたった一人の可愛い弟だよ。素直な人間で、私が教えたことをどんどん吸収して成長していった」
大ジャンヌの口元に小さな笑みが広がり、その表情には懐かしさと温かさが溢れていた。
「君に少し似ているかな」
「俺がですか?」
思いがけない言葉に、俺は思わず背筋を伸ばした。大ジャンヌは優しく微笑み、小さく頷いた。彼女の髪が朝の光を受けて、柔らかく揺れている。
「素直さ、そして懸命に努力する姿勢がね」
俺はエミールの剣を改めて見つめた。鞘に丁寧に刻まれた名前、何度も手入れされた痕跡のある柄の感触。この剣は単なる武器ではなく、誰かの思いが深く込められた大切なものなのだと実感する。
「テル、実は君に提案があるんだ」
大ジャンヌは窓辺から戻り、真剣な表情で俺を見つめた。その眼差しには、静かな決意が宿っていた。
「君の力は、もはやこの国にとって不可欠なものだ。『雷の剣』の使い手として、君を騎士団に推挙したいと思う」
「騎士団に?」
思いがけない話に、俺は驚きを隠せなかった。騎士団とは、カリアが率いる、国王直属の精鋭たち。自分にそんな資格があるとは到底思えない。
「いや、それは荷が重いです。それから、学院の居心地がいいんです。衛兵の仕事も」
慌てる俺に、大ジャンヌは親しげに笑った。彼女は机の前に戻り、椅子に軽やかに腰掛けた。
「もちろん、君に学院を離れてほしいわけじゃない。週に何日か王宮に行って、騎士としての振る舞いを学んでほしいだけだ」
大ジャンヌは再び机に向かい、その上に広げられた書類に目を落とした。指先が文書の上を優雅に滑るように動く。
「マキャベリアとの交渉が今後進められる。テオリアはジーナたち生徒会のことも頼りにしているんだ。学院と王宮の連絡をより密にする必要がある。君には、その連絡役も担ってほしいんだ」
「連絡係ですか。それならルーシーのような言葉の達人のほうが間違いがないと思います」
大ジャンヌは朗らかに笑い、その笑い声が部屋に温かく響く。
「王宮と学院で外交をするわけじゃないから、ルーシーほどの厳密さは必要ないよ。不安なら、テルは彼女から正しい言葉の使い方を習えばいいんじゃないかな」
大ジャンヌは気さくに肩をすくめた。少し表情を引き締め、視線を俺に向ける。
「テル、常備軍については考えたことがあるかい?」
「常備軍?」
「そう。傭兵ではなく、その国の職業軍人だけで構成された軍隊だ」
大ジャンヌは再び窓の外を見つめながら、ゆっくりと語り始めた。その声には深い思索の跡が感じられ、背筋はピンと伸びていた。
「私は、常備軍よりも市民によって構成される軍隊が国家にとって望ましいと考えている。職業軍人だけの軍隊は、時にみんなの総意、つまり『一般意思』から離れてしまうことがあるんだ。市民自身が国を守るという意識を持つことで、国は本当の意味で強くなれるんだよ」
大ジャンヌは俺の方を向いた。茶色の瞳には、長年培われた強い信念が宿っていた。そこには揺るぎない誇りと決意が輝いている。
「だからこそ、君にも衛兵と騎士の二つの役割をこなしてほしい。市民であり、兵士でもある。それが理想の形なんだ」
俺はゆっくりと頷いた。大ジャンヌの考えには、単なる軍事的な観点だけでなく、より深い哲学や国家観が含まれているように感じた。
「でも、俺がいない日も、学院の安全は大丈夫でしょうか」
大ジャンヌは微笑んで首を横に振った。茶色の髪が朝の光を受けて、柔らかく揺れる。
「問題ないよ。学院に『雷の剣』の使い手がいるという噂は、この街でも広がるだろう。わざわざ、そこに侵入してくるような無謀な者はいないだろう。これが『抑止力』というものだよ」
抑止力——その言葉に、先日の合同訓練の意味が改めて胸に落ちた。示威行為であり、実際に使うことを前提としない力。それこそが平和を維持する方法なのかもしれない。
「理解しました。騎士団の一員として、学院と王宮の連絡役として、精一杯努めます」
俺は立ち上がり、深く頭を下げた。大ジャンヌは満足そうに頷き、その表情には温かな期待が込められていた。
「君なら、きっとうまくやれるよ」
窓から差し込む朝の光が、大ジャンヌの穏やかな横顔を優しく照らしていた。
校長室を出た俺は、廊下の大きな窓から外を眺めた。学院の中庭では、制服姿の生徒たちが忙しそうに行き交っている。紺のスカートと白いブラウスの制服が風に揺れ、石畳の上を軽やかに歩く姿が印象的だ。エマやミル、ルーシー、ジーナたちも、どこかでいつも通りに過ごしているのだろう。
腰のエミールの剣に触れると、不思議と心が落ち着いた。手入れされた鞘の感触と重みが、俺に安心感を与えてくれる。この世界に来てから、俺は少しずつ変わってきた。エマに助けられた行き倒れから、衛兵に、そして今度は騎士に。
「騎士ってカッコイイじゃん、俺」
そう呟きながら、俺は石畳の廊下をゆっくりと歩いていった。ふと空を見上げると、雲一つない鮮やかな青空が広がっていた。でも、どこか遠くから、雲が少しずつ形を変えながら近づいているようにも感じる。マキャベリアとの交渉、そしてこの国の行く末。
ふと廊下の先に目をやると、制服の少女が猛スピードで走って行くのが見えた。金褐色のセミロングの髪をなびかせて、日に焼けた健康的な肌が他の生徒との違いを際立たせている。ヘルメニカから来たアンナだ。制服のスカートが彼女の素早い足取りに合わせて踊るように揺れている。
「遅刻か。初日から一体何をやっているんだ」
以前の自分を思い出すと全く人のことは言えないのだが、俺は上から目線で微笑みを浮かべた。




