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第3話:ミル(JS)と「ケーキの切り方」

ぐっすり眠っていた俺の肩を、誰かがやさしく揺さぶる。


「起きてください、テル。時間です」


瞼を開けると、目の前にエマの真面目な顔があった。長いまつげが俺の顔に触れそうに感じる。窓の外はまだ薄暗い。スマホを確認すると午前6時ちょうどだ。


「まだ早朝じゃないか……」


睡魔と闘いながら呟く。俺は朝が弱い。現実世界では、それが原因で死んだぐらいだ。


「1日は計画的に過ごさないといけません。無駄な時間を減らして、有益な時間を増やすんです」


エマの手には磨き上げられた金色の枠を持つ小さな懐中時計がある。彼女はいつも時間を気にしている様子だ。


「ほら、6時10分までに着替えを済ませてください。6時20分に洗面所で顔を洗い、7時に食堂で朝食です」


彼女の口調は優しいが、その言葉には譲れない決意が感じられる。きっちりとした白いブラウスの襟元が、彼女の几帳面な性格を表しているようだ。


「そこまで細かく決めなくても……」


ベッドから起き上がろうとすると、背中が痛む。この世界のベッドは思ったより固かった。でも不思議と、二人で寝ていたことは気にならなかった。疲れ切って熟睡していたからか、それとも純粋理性の力か。


「時間の管理はすごく大事です。時間には限りがあって、その使い方が幸せを最大にする鍵なんです」


エマは小さな手帳を取り出し、何やら確認する。


「7時30分ちょうどに学院に向けて出発します。遅れないでくださいね」


そう言い残して、エマは深青のジャケットを羽織って、先に部屋を出ていった。ドアが閉まる瞬間、彼女の肩にかかった銀色の髪がふわりとなびいた。


----


時間通りに着替えを済ませ、顔を洗う。俺にしては奇跡的な努力だ。不思議と眠気はない。階段を降り、エマと共に朝食をとる。1階の食堂は石造りの広い空間で、木製のテーブルが整然と並んでいた。昨日、エマが食べ物を持って異常に早く戻ってきたのは、部屋の下が食堂になっているからだった。


「ここでは、あの不思議な道具は使えないんですか?」


食事中、エマが疑問を口にした。彼女は食パンに薄くジャムを塗りながら、好奇心に満ちた表情を向けてくる。


ポケットに入れたままのiPhoneを取り出す。


「ネットがつながっていれば使えるよ」


「ネット?」


エマは首を傾げ、好奇心をのぞかせる。彼女の前髪が少し揺れて、その下から青い瞳がのぞく。スマホ画面には電池残量15%とされ、電波は入っているみたいだ。


「何かやってみてください」


エマが瞳を輝かせる。朝食の皿を少し押しやり、両手を組んで期待に満ちた表情を浮かべていた。


「何か…と言われると困るな。基本、何でも出来る道具なんだけど…」


俺がどのアプリを立ち上げようか迷っていると、エマがすかさず懐中時計を取り出し、確認した。


「その件はまたあとで。7時28分です。そろそろ出発しましょう」


----


エマに案内され、石畳の道を歩く。朝露に濡れた石は、朝日を受けて少し光っていた。エマの黒いブーツの音が規則正しく響く。


川に架かる古い石橋を渡り、15分ほど歩くと、遠くに立派な建物が見えてきた。朝霧の向こうにその姿がぼんやりと浮かび上がる。


「あれが王立学院です」


エマの声には誇らしげな響きがあった。


中央には高い時計塔がそびえ立ち、煉瓦造りの校舎が左右に広がっている。まるでヨーロッパの古城のようだ。立派な校門には「幾何学を知らぬ者は入るべからず」と書いてあった。どうやら、俺はこの世界の文字が読めるようだが、俺は思わず引き返しそうになった。エマに引っ張られて先に進む。


校門をくぐると、エマと同じ制服姿の生徒たちが行き交っている。皆、秩序だった動きで歩いていて、騒がしさはない。エマは丁寧に挨拶を交わすが、俺に向けられる多くの視線は好奇心と警戒心が入り混じったものだった。


「まずは、生徒会室に行きましょう」


建物に入ると、エマが俺を促す。廊下は清潔に保たれ、壁には歴代の校長と思われる肖像画が飾られていた。


「エマは、生徒会長とか?」


「違います。副会長です」


彼女は少し照れくさそうに答えた。


大理石の廊下を進み、木製のドアの前で立ち止まる。エマがドアをノックすると、中から小さな声で「どうぞ」と返事があった。その声は小さいが、芯の通った響きを持っていた。


部屋に入ると、そこは小さな図書館のように本が並べられ、いくつかの机が並ぶ空間だった。大きな窓からは朝日が差し込み、埃の舞う光の筋が美しい。本棚には色とりどりの書物が整然と並ぶ。


そして、窓際の机に向かって一人の少女が座っていた。


細身でエマよりさらに小柄な体つき。知的な雰囲気を漂わせる少女だが、年齢は12、3歳くらいか、もっと幼いかもしれない。栗色の髪を肩までのボブカットにし、大きな青灰色の瞳が印象的だ。エマと同じロイヤルブルーのジャケットに深い紺色のスカートの制服。胸元には、四つ葉のクローバーを模ったブローチが光っている。小さな指で本のページをめくる様子には、何か神秘的な雰囲気すら感じられた。


「おはようございます、エマ」


少女は穏やかな声で言った。その声には見た目の年齢よりも落ち着きがあった。


「おはようございます、ミル」


エマが答える。二人の間には、言葉以上の信頼関係が感じられる。


「こちらの方は?」


少女が俺に視線を向けた。


「東方からのお客様で、テルさんです」


エマの紹介は簡潔だった。


「どうも、テルです。あなたのお名前は?」


「ミリエル・ジャスティスです。ミルと呼んでください。生徒会で会計を担当しています」


ミルが立ち上がった。身長は140cmくらいだろうか、やはり小学生に見える。しかし、その立ち居振る舞いには大人びた品格があった。


「ミルは、JS…いや、小学生なんですか?」


思わず口にしてしまった。ミルの顔がみるみる赤くなった。白い頬に血が上り、青灰色の瞳が怒りで輝く。


「失礼なことを言う方ですね。私はれっきとした王立学院の生徒です」


彼女は小さな体で背筋を伸ばして反論した。


「そうよ、ミルは最年少の10歳でここに入学した学院始まって以来の天才なの。外国語もいくつもできるわ」


エマが補足する。彼女の声にはミルへの尊敬の念が込められていた。


「すみません。つい見た目で判断してしまって」


俺が謝ると、ミルは少し表情を和らげた。怒りに染まった頬がゆっくりと元の色に戻っていく。


「気にしないでください。よくあることです」


彼女は寛大だった。


ミルは机の上に厚い革装丁の本を開いていた。ページの端には数式が書き込まれている。


「あの…どんな本を読んでるの?」


功利主義こうりしゅぎの基本原理についてです。みんなができるだけ幸せになるにはどうしたらいいか、について書かれています」


ミルは本を閉じると、鞄から小さな箱を取り出した。その動作には無駄がなく、一つ一つが目的を持っている。


「ちょうど良いところで休憩です。ケーキ、食べますか?」


箱から取り出したのは、一個だけの宝石のように美しいケーキだった。クリームと果実をあしらった、職人技が光る逸品。その甘い香りが部屋中に広がる。エマの表情が思いがけず輝いた。


功利主義こうりしゅぎ:ベンサム(1748-1832)とミル(1806-1873)が発展させた倫理学説で、「最大多数の最大幸福」を追求する考え方です。何が正しい行動かを判断するとき、「どれだけ多くの人が幸せになるか」を基準にします。例えば、少数の人が不便を感じても大多数が便利になる政策は、功利主義的には正しいとされます。

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