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第38話(第1部最終話):二人の「遅刻」

石畳の道を歩き、家に向かう。夜空から滴る月の光が道を照らし、夜風が疲れた頬を冷たく撫でる。体は重かったが、心は不思議と軽やかだった。ふと視線を上げると、遠くに見慣れた人影が浮かび上がる。近づくにつれ、そのシルエットはエマの姿となった。月光に濡れた銀糸のような彼女の長い髪が、夜の静寂の中できらめいていた。


「ただいま」


自然にそんな言葉が口からこぼれた。


「おかえりなさい」


その一言に、今日の疲れが全て溶けていくのを感じた。


彼女の声は普段の冷静な調子とどこか違っていた。そして、予想外のことが起きた。エマは駆け寄ってくると、俺に体を預けたのだ。彼女の細い腕が俺の体を包み込み、その体温が静かに伝わってくる。銀色の髪の柔らかな感触と、かすかなラベンダーの香りに包まれる感覚に、心臓が高鳴った。


俺も思わずエマを抱きしめ返していた。彼女の小さな体が俺の腕の中で震えているのを感じる。


「無事で帰ってきてくれて...本当に良かった」


エマの声が小さく震えていた。いつもの理性的な彼女からは想像もつかない、感情をあらわにした姿に、俺は胸が熱くなった。


「ありがとう。こんな場所まで」


夜風が二人の周りを優しく撫で、星々が静かに見守っている。


帰り道、エマは一度も俺から離れようとしなかった。俺の腕に包むように添えられた彼女の手のひらを通じて、不思議な安心感が広がっていく。銀色の髪が月明かりを受けて美しく輝き、表情は柔らかかった。


家に入ると、ようやく緊張から解放されたのか、俺はどっと疲れが押し寄せてきて椅子に座り込んでしまった。


「疲れているのですね。一日中、訓練をしてきたのですから。汗もかいているでしょう」


エマが心配そうに近づいてきた。彼女の青い瞳には温かな光が宿り、長いまつげがかすかに揺れている。


「体を拭いて差し上げます」


「え?」


俺は思わず驚きの声を上げる。エマがそんなことを言うとは予想もしていなかった。頬が熱くなるのを感じる。


「いや、いいよ、自分でやるから」


慌てて立ち上がろうとするが、足に力が入らない。エマはすでに部屋の奥から清潔な布と水を用意してきていた。白いブラウスの袖をきちんとまくり上げ、真剣な表情で準備している姿に言葉が詰まる。


「大丈夫です。理性的な人間にとって、体を清潔に保つ手助けは単なる日常的な行為です。それに、私はあなたの裸を出会った初日に見ていますから」


エマの言葉に、初めて会った日の記憶が蘇る。確かに、泥だらけで倒れていた俺の服を着替えさせてくれたのはエマだった。あの時は意識がはっきりしていなかったから気にならなかったが、今は違う。


「いや、それでも...」


言葉を続けられなかった。エマが真剣な表情で近づいてきたからだ。銀色の髪が肩を滑り、青い瞳が決意に満ちていた。


「シャツを脱いでください」


命令口調だった。反射的に従ってしまう。シャツを脱ぐと、エマは水に浸した布で、丁寧に俺の体を拭き始めた。太陽を一日浴び続けた体に、冷たさが心地よい。彼女の手つきは優しく、細い指が俺の肌に触れるたびに、不思議な感覚が広がる。


「今日のこと、教えてください」


エマは俺の背中を拭きながら尋ねた。


俺は話し始めた。エマは真剣に聞き入り、時々感嘆の声を上げる。長い話になったが、彼女はすべての出来事を、まるで自分のことのように喜んでくれた。


「テル、あなたは頑張りました。本当に」


エマの言葉には純粋な賞賛が込められていた。彼女の青い瞳が輝き、笑顔が花のように開いている。これまでに見たことのない、エマの無垢な表情に心を奪われた。


ふと、エマが時計を見た。彼女がいつも持ち歩く懐中時計を取り出し、金色の枠が月明かりに反射して美しく輝いた。


「もう遅くなりました。疲れているでしょうから、早く休んだ方がいいですね」


俺も頷いた。確かに、今日は精神的にも肉体的にも疲れ切っていた。エマの優しさに包まれながら、俺は柔らかなベッドに身を横たえた。彼女の存在を感じながら、瞼が重くなっていく。


「おやすみなさい、テル」


エマの囁きと、彼女の指先が俺の髪を撫でる感触が最後に意識に残った。


---


目を覚ますと、朝の白い光が窓から溢れていた。疲れは残っているものの、昨晩よりはずっと体は軽い。隣を見ると、エマが目を開けていて、瞳には俺の顔が写っていた。彼女の銀の髪は枕の上で水面のように広がり、長いまつげが瞬きする。


のぞき込んだスマホの画面に「9:37」と表示されている。


「うわっ、遅刻だ!」


思わず声に出してしまったが、それでもエマは動じない。彼女は穏やかな微笑みを浮かべていた。


「エマ、急いで! もう授業始まってるよ!」


しかし、エマは落ち着いた様子で俺を見つめていた。彼女の青い瞳には珍しく茶目っ気が宿り、唇がかすかに笑みを作っている。


「どちらにしても、もう間に合いません。今日はゆっくり行きましょう」


彼女の口元に微笑みが浮かんでいた。普段は時間に厳格なエマの言葉とは思えなかった。


「でも、エマ、学校は...」


「私が『間に合わない』と言うのなら、本当に間に合わないのです」


彼女はそう言って笑った。その表情には今までに見たことのない自由さがあった。


二人でゆっくりと朝食を取る。パンとジャム、そして紅茶。シンプルな食事だが、エマと向かい合って食べると、特別な味がした。彼女が紅茶を注ぐ姿には機能的な優美さがあり、カップを持つ指先の繊細な曲線に俺は見とれていた。


「遅刻して、大丈夫なの?」


俺が心配して尋ねると、エマは小さく首を振った。銀色の髪が肩で揺れ、ブラウスの襟元のリボンがかすかに動く。


「私はこれまで遅刻したことは一度もありません。だから1度ぐらい大丈夫です」


彼女は誇らしげに言った。青い瞳には自信の光があり、その表情には少女らしい可愛らしさが溢れていた。


「それに、授業の権利を放棄して損をしているのは私です。先生にご迷惑はおかけしていません」


「でも、みんなが授業に来たり来なかったりしたら、先生は困るんじゃ?」


俺の質問に、エマは少し考え込むように目を伏せ、白い肌がより透明感を増して見える。


「そうですね…定言命法的には」


彼女の声にはわずかに迷いがあった。いつもの理論的なエマが、少し意気消沈したように見える。しかし、すぐに元気を取り戻したようだ。


「では、急ぎましょう。ただし、走らずに」


エマの提案に頷き、二人は並んで街へと歩き出した。


日が高く昇った平日の街を歩くのは、エマにとって珍しい経験だったようだ。彼女は冒険家のような好奇心に満ちた眼差しで街の様子を眺めていた。午前の光が照らす石畳の道、開店したばかりの店先、漂う焼きたてパンの香り、通り過ぎる人々の足音。彼女の青い瞳には、初めて色を知ったかのような驚きに満ちていた。


「こんな風に街を見るのは初めてです。いつもこの時間は学院にいますから」


エマの声には純粋な喜びが混じっていた。銀色の髪が風に揺れ、頬が朝日で薄紅色に染まっている。制服のスカートが風にそよぐ。


俺はふと、この世界に来る前の自分を思い出していた。現実世界で、いつも遅刻して急いで授業に向かっていた日々。あの時の俺は、こんな風に街の風景を楽しむ余裕など持っていなかった。


「転生して異世界で無双する、なんて夢見ていたんだよな」


思わずつぶやいた言葉に、エマが不思議そうな顔をした。彼女の整った眉が上がり、首を少し傾げる仕草が愛らしい。


「転生?無双? それはどういう意味ですか?」


「いや、なんでもない」


俺は微笑みながら答えた。


そんなことを考えているうちに、二人は王立学院に到着していた。エマは気を引き締めるように背筋を伸ばし、門をくぐる。長い廊下の途中でエマは振り返り、俺をまっすぐに見つめた。彼女の髪は朝の光を受けて水銀のように揺らめき、青い瞳にはいつものような理性が宿る。きちんと折り目のついた白いブラウス、整然と整えられたスカートの紺色が、彼女の佇まいを一層引き立てている。


「それでは、これから、私は授業に行きます」


「俺は、まずは昨日のことを大ジャンヌに報告するよ」


エマは微笑むと、教室への廊下を歩き始めた。銀色の髪が朝日に照らされて輝き、制服のスカートがリズミカルに揺れる。彼女の凛とした背中を見送りながら、俺は自分の胸に芽生えた気持ちを確かめていた。


校長室への廊下を歩きながら、俺はふと考えた。現実世界で、果たして俺は本当に「生きていた」と言えるのだろうか。


何のとりえもない俺が、異世界で無双する、なんて考えていたことが、今は恥ずかしく感じる。確かに、現代社会はここに比べて科学技術が発達している。でも、それ以外の部分で人間が昔より進歩しているかと言われると、疑問に思えてくる。エマやこの世界の人々を見ていると、彼らは膨大な時間を「考えること」に費やしている。


俺は自分自身を振り返った。好きなだけ寝て、SNSを見て、アニメを見て、小説を読んでゲームをして、友だちと馬鹿話をして...確かに授業には出ていたが、エマたちのようにじっくり考えることはあっただろうか。その場の流れに従って反射的に生きてきたのではないか。


もし人間の基本的な能力がどの時代も大きく変わらず、人間に与えられた時間もあまり変わっていないのなら、違いはその時間の使い方だ。この世界の人々が何倍もの時間を考えることに費やしているなら、彼らが現代の人々より、深い思考に到達していても不思議ではない。


つまり、現代というのは、科学技術と人間の思考能力の差が開きすぎた、歪な時代なのかもしれない。


大ジャンヌが待つ校長室の前で、俺は決意を新たにする。相変わらず、この世界での俺の使命は不明だ。サンデラが言った「自分を救ってください」の意味も俺には分からない。


そして、マキャベリアとの関係が、今後どのように推移するのかも予断を許さない。本当に戦争は回避できるのか、交渉で解決できるのか、そこに俺が出来ることはあるのか、分からないことだらけだ。


しかし、一つだけ確かなことがある。


俺はこの世界で毎日を確かに生きている。そしてこれからも、エマたちと共に、この国で日々を過ごしていくのだ。そして、その日々が、俺にとって何よりも大切だということは、今はもう、確かな現実だった。


(第1部完)


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