第35話:エマと「理性の暴走」
アンナのことを話し終わると、エマは一つ息をついて、俺の方にきちんと体を向けてから話し始めた。
「テル...」
エマの声は静かだったが、その青い瞳には何か複雑な感情が渦巻いていた。彼女はわずかに眉を寄せ、唇を引き結ぶ。
「念のため訊いておきますけど、もし部屋に私が居なかったら、どうするつもりだったのですか?」
その問いかけに、俺は思わず言葉に詰まった。エマの瞳には、普段見せない感情の揺らぎが見えた。
「いや、どうもこうも。アンナが部屋をちょっと見たいって言うから、ちょっとぐらいなら良いかなって...」
言葉が上手く出てこない。エマの青い瞳がじっと俺を見つめている。
長い沈黙が部屋に流れる。
「...ごめんなさい」
突然、エマの声色が変わった。彼女は目を伏せ、小さく息をつく。銀色の髪が顔を覆い、その表情は見えなくなった。細い指がドレスのスカートの端を無意識につまみ、その仕草には動揺が見え隠れしていた。
「テルは何も悪くありません」
エマの声には自己嫌悪が混じっていた。なんとかして冷静さを取り戻そうと努力している様子だった。
「私はいま、『理性』を暴走させてしまいました」
エマが低い声で言った。
「???」
俺はエマの意外な言葉に混乱した。「感情」を暴走させたなら分かるが、「理性」を暴走させたとは。
あっけにとられる俺の顔を見て、エマが説明を始めた。
「人間の理性は、すべてを説明しようとする性質を持っています。何も知らないのに、理性が勝手に物語を作ろうとするのです」
「どんな物語を?」
エマはうつむいて黙り込んだ。
「テルとアンナが…その…」
その様子に、俺は胸が痛くなった。いつも感情を律している彼女が動揺しているのは、やはり俺のせいなのだろうか。
「いや、俺が悪いんだよ」
俺は真剣に言った。
「突然部屋を見られたら、やっぱり良い気分がしないよね。ごめん、エマ」
俺の言葉を聞いて、エマの表情が少し和らいだ。彼女は顔を上げ、長いまつげの下から青い瞳が俺を見つめる。
「そういえば、エマ、実家はどうだった?」
俺は話題を変えて尋ねた。
エマの表情が少し明るくなった。彼女の青い瞳に懐かしさの色が浮かび、少女らしい柔らかさが戻ってきた。
「久しぶりに両親に会えて嬉しかったです。父は相変わらず、仕事一辺倒ですが」
彼女は微笑みながら言った。その笑顔に、俺は少し見とれてしまう。
「それと、あと、星空がとても綺麗で...」
彼女の瞳は遠くを見つめているようだった。言葉が途切れ、何か大切な記憶を思い出しているようだった。
「ここでは星はあまりよく見えませんから」
月明かりが窓から差し込み、エマの銀色の髪を柔らかく照らしていた。彼女の横顔に見とれる。
「そうだ」
エマはそう言うと、鞄の中から何かを取りだして、俺に差し出した。
「スマホ、お返しします」
そうだ、エマにスマホを貸していたのだ。スマホのない生活に慣れて、すっかり忘れていた。
「写真、見てもいいかな」
「もちろんです!」
エマが嬉しそうに笑う。
スマホの電源を入れる。バッテリーは3%残っている。心許ないが、ここで「エレキテル」をやって雰囲気を壊したくない。
写真を画面に表示すると、エマが俺の隣に顔を寄せてそれをのぞき込む。久しぶりの淡いラベンダーの香りに少し鼓動が速くなる。
俺は、エマが最初に撮った写真から見ていく。森の一角を切り取った写真だった。木漏れ日が地面に作る模様が美しく捉えられている。
「これは実家の近くの森です。小さい頃からよく行っていた場所です」
エマの声は懐かしさに満ちていた。
次の写真は石造りの小さな家。
「これが私の実家です。父の工房が併設されています」
質素ながらも手入れの行き届いた家の前には、美しい花壇が広がっていた。
「お父さんは職人さんなの?」
「はい。フィロソフィアで一番の腕を持っていると自負しています」
エマの声には誇りが溢れていた。
次の写真は壮年の夫婦。きっとエマの両親だろう。父親は頑丈な体格で、優しげな瞳をしている。母親はエマに似た銀色の髪を持ち、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「エマのご両親? 素敵な人たちだね」
「はい。とても愛情深く育ててくれました」
「この子たちは?」
次の写真には三人の少女が写っていた。エマより明らかに年下の三姉妹だ。銀色の髪をしたエマそっくりの少女、少し幼い茶色の髪の少女、そしてさらに幼い金髪の少女。三人とも笑顔で写っている。
「私の妹たちです。次女のセレネ、三女のソフィア、そして末っ子のアイリス」
エマは微笑みながら言った。その表情には、深い愛情が浮かんでいた。
「みんな可愛いね。特にセレネはエマにそっくりだ」
「はい。よく双子と間違われます。でも彼女は私と違って、とても感情豊かな子なんです」
エマも十分感情豊かだけど、と俺は思う。
次の写真では、三人の妹たちが川で水遊びをしていた。楽しげな表情で水を掛け合う姿は、とても生き生きとしている。
「みんな仲良しなんだね」
「はい。私が学院に来てからは、少し寂しがっていましたが、夏休みはずっと一緒に過ごせて楽しかったです」
そこからさらに進むと、食べ物の写真が続く。田舎風の素朴な料理、豪華な手作りケーキ、山で摘んだと思われる果物たち。
「あの、美味しかったのでつい...」
エマの頬が赤く染まる。その照れた表情に、俺は思わず笑みがこぼれた。
「別にいいよ、俺も旅行先では食べ物ばかり撮っちゃうから」
次のページに進むと、エマの自撮り写真がたくさん並んでいた。いつもの厳格な表情とは違い、様々な表情を見せるエマ。笑顔のエマ、真面目な顔のエマ、困った顔のエマ...いつもと違う一面を見せる写真の数々に、俺は見入ってしまった。
「ここからは遊びです。見ないでください」
エマが慌てて言い、顔を真っ赤にして俺からスマホを奪おうとする。
「わかった、わかった」
俺はそう言うと、スマホをロック画面に戻した。エマのほっとした表情を見て、少し悪戯心が芽生える。
「いろんな表情のエマ、いいね」
「もう、からかわないでください」
エマの頬が薔薇色に染まる。その表情に、部屋の中がさらに明るくなったような気がした。
食べ物と自撮り。エマも、10代の女子なんだなと感じて心が温かくなる。後で、エマの写真をゆっくり見ようと、俺は固く心に誓った。
「そうだ、俺もエマの時計、返さないと」
ポケットの中にいれたエマの金の懐中時計を取り出す。ハンカチで磨いて、エマに差し出す。
「テルは、規則正しく生活していましたか?」
エマが時計を受け取る。
「もちろん。エマの時計のおかげだよ」
そんなことを言いながら、ベル先生との「エレキテル」で時計を壊して大ジャンヌに修理してもらったことが頭をよぎる。エマには黙っておこうと心に誓った。




